昨日の羽鳥慎一モーニングショーで少年野球での暴力監督の映像を取り上げていた。映像では最初っから最後まで罵声の連続であり、R18レベルの不愉快なものであった。子供の失敗を責め続けるこの監督からは、指導という暖かい感じは全然ない。私のいつも行っているゴルフ練習場にも「先生」と呼ばれている人がいるが、高校生などを教えているのを見ると「何で出来ないんだよ!」とか「そうじゃあないだろ!何で分かんないんだよ!」とか「もっと真っ直ぐに打てって言ってるだろ!」とか、こちらも指導と言うより「上級者による新人いじめ」である。考えてみれば日本の、特に子供へのスポーツ指導ではこのような「熱血指導」がいい成績を上げている事もあり、親の側の無知から「スポーツは言われた通りするもの」という間違った理解もあって、このような「先生によるいじめまがいの指導」を野放しにしている現状があるようだ。宮川選手もこの一つの例だが、何故スポーツ界全体に暴力による指導が蔓延しているのか、その精神構造から考えてみる。
1 まず暴力を振るう指導に共通しているのは、指導される側が子供あるいは「社会人として一人前ではない」ことである。
つまり指導者側が一方的に命令し失敗すると叱責する、といった指導方法が一般的に行われていて、それに我慢してついていくことで成長するという誤った図式である。選手は指導者のロボットであり、指導者は「3歳の幼児をあつかうように」全ての行動を指示し命令し、従わなければ暴言罵声を浴びせ、時には怒りに任せて暴力を振るう。チームで試合する場合は他の選手への見せしめとして暴力を利用する場合さえあると聞いている。要は監督が思い描く「理想の選手像」があって、それ以下の選手は「必死に練習して」一歩でもそれに近づけるよう努力する、ということが「自明の事」として世間に認められた常識だと思いこんでいるのだ。そこにおける選手の意見は、全く無視である。もちろん監督は選手に愛情を持っていると言うが、その愛情は監督の理想とする選手像に「近付こうと努力する我が子」としての愛情なのである。決して選手「一人ひとりの個性」を尊重した上での相互的な愛情ではない。この反対意見無用の一方的愛情が、暴力指導を生む原因である。
2 一方、選手の方にも問題点はある。
指導される側が上手くなりたい・試合にも勝ちたいと真剣に思っている場合、練習もハードになってくる。指導者として評価が高い監督や実績のある監督だったりするとスポーツをやったことがない親は盲目的に信じ込み、我が子が叱責や罵声で怒鳴られても「監督の言う通り頑張って」と思うのだ。監督の言う通りに選手が出来るのなら、野球の1番バッターから9番バッターまで「全員にホームランを打て」と指示すれば試合には必ず勝つ。しかし余りにもそれは不可能だという人がいれば、では「どういうレベルなら妥当な指示」と言えるのか聞いて見たい。当然、選手一人一人の能力に合わせた作戦が必要になることは目に見えている。あるいは選手が三振したら「バカヤロー!」とだけ怒鳴り罵声を浴びせる監督では、選手は次にどうしたらいいのか判断がつかないでは無いか。結局選手は自分でいろいろ考えてトライし、失敗すれば怒鳴られるのである。こういう監督では選手が伸びる要素は全くない、全く。そのシチュエーションに合った適切な方法を「それが出来るようになるための選手個人の特性に合った科学的練習」で目指すのが正解なのだ。目標はあってそれが達成できれば、選手は楽しいと感じるのである。求めるのはあくまで選手個人のレベルアップであり、監督が思い描く理想像とのギャップを埋めることでは無い。選手は努力したことで上手くなるが、「それが監督の指導の成果だと勘違いする」ことが往々にしてある。宮川選手の場合も「そういう勘違い」の一つであるかも知れない。本当は選手が努力した結果に過ぎないのだが、それが選手にはわからないのである。最近ゴルフでもトラックマンなどを駆使して自分のスイングを分析して弱点を強化し間違いを正し、より理想的なスイングに簡単に近づける画期的な方法が一般的になってきた。昔風のただ「頭を残せ」とか「しっかり体重移動をしろ」とか「ダウンブローに打て」とかいうのは、もう流行らなくなっているのだ。選手自身が自分のことを十分に知り、それにピッタリの指導を受けて上手くなれれば「暴力など必要ない」のである。「もっとちゃんと打てよ!」と監督に叱責されても、選手には結果を言われただけで「どうすれば出来るか」を教えてもらえない。選手は「ちゃんと、って何?」と思うだけであろう。こういうのを指導者と呼んでいた社会というのは、上位にある者が無理難題を下位の者に押し付けて怒鳴るだけの「無知蒙昧な縄文社会」である。
3 つまり指導者側の問題が大きいのだ。
指導者が選手を選ぶ場合、箸にも棒にもかからない選手は相手にしない。少しでも見込みがあると思った選手には、愛情を持って育てるのが一般的だ。だがこれは指導者側の論理である。近頃テレビでよく宣伝しているRIZAPゴルフなどのように「誰でも上手くしてしまう」練習場では、怒鳴ったり叩いたりせずに「練習し成果を上げている」のである(宣伝どおりだとしてであるが)。これがトレーニングというものである。有料だから出来るというのであれば、少年野球は無料だから暴力で代用しているという「変な理屈」になってしまう。無料であっても正しい練習方法は一つであり、トレーニングの方法は(質とか器具とかは当然落ちるにしても)一緒のはずである。つまり少年野球の暴力監督は、子供を教える「科学的方法を知らない」ただの無知で粗野なおっさんに過ぎないのだ。こういう監督のいるチームに我が子を入れたいと思う親の気が知れないのは私だけではないであろう。この手の監督は、選手のやる気を引き出すことだ上手だと言われていることがある。監督は「選手の意欲」をコントロールしようとする。だから「暴力」なのだ。本当はまだ未熟な子供の場合、意欲をコントロールするのではなく、技術や体力を身につける方法を教えなければいけないはずである。つまり、指導される側の意識改革は、指導者が「向上させる」ものだと考えているのだ。これは指導される側を「一個の人間と見ていない」立場であり、「自分の意思を持たない人形」と考えることではないだろうか。「体罰」とは軍隊で推奨されている「根性至上主義」論理である。言われた通りにどんなことでも実行するロボット人間を育てる方法として、軍隊では「体罰」が日常茶飯事であった(らしい)。日本のスポーツ界は、いまだにこの軍隊式「洗脳」がまかり通っている世界なのである。
結論として、もう指導のあり方の根本から見直す時期に来ていると思う。少し前の相撲部屋でのバットによる弟子死亡事件に始まり、日大の悪質タックル事件や女子レスリングのパワハラ事件、ボクシング協会のドンによる恣意判定など、枚挙に暇がない。正しい指導とはいったい「どういう指導方法」を指すのだろうか。かいつまんで列挙しよう。
a) 指導者は「選手が」選ぶ
指導は、指導される側が望んだ時に指導するのが大前提である。望んでいないのに指導しようとすれば、それは「押し付け」になる。習うのもやめるのも選手の一存である。選手が知りたいこと、あるいは間違っていることを指摘して、それを克服するための最適の練習法を教えて「実際のカリキュラムを作ってくれる」のが指導者である。選手が成長するに当たって「この指導者は自分のどこを成長させてくれるのか?」を考えると、「指導者とは何か?」の答えが見えてくる。自分にない、あるいは「あったが失われてしまった」才能または能力を持っていると思う選手を指導して高い成績を出すことは、指導者にとって失われた夢を実現することでもある。指導したい、と思う気持ちが、もう既に「選手に何かを期待して」いることであり、指導者が選手を自分の思うように勝手に作る事である。このように選手には全く関係がない一方的な指導者の夢に従わされる選手は、いい面の皮である。
b) 当然、選手と指導者は「対等で」ある
選手が言いたいことを言えない状態では、正常な師弟関係とはとても言えない。それは上下関係であり命令服従関係であり、言ったことが出来なければ「怒鳴ったり罵声を浴びせたり」選手の人格を無視するような行為が出てきても不思議はない。私は昔大学女子バスケットの試合を見に行っていた事があるが、コーチの試合中に連発する「えげつない叱咤激励(この言葉自体が間違った指導を表している)」に、げんなりしたものだった。「ばかやろう何やってんだ!」とベンチから怒鳴っている姿を見ると、選手が可愛そうで可愛そうで・・・今でもこういうコーチは存在するようである!。伝統という言葉で片付けられることがあまりにも多いが、虐待で育った子供は自分が親になった時に「同じように我が子を虐待してしまう」という傾向があるという。自分の立場は「当然に命令できる」という思い込みが暴力を生む。指導者と選手は「上下関係ではなく対等」であるべきだ。
c) 選手が小さい子供のうちは勝ち負けよりも「楽しさ」を優先する
試合形式で勝ち負けを優先すれば、当然選手の実際のレベルを「勝てるレベル」に持っていかなくてはならない。当然、選手個人個人の能力より「チーム事情」が優先される。結局一番弱いものに責任が回ってくる。プロならば給料が違うので期待度合いもそれぞれだが、アマチュアのチームでは悪しき「平等の原理」が働いて、ミスをした選手が責められてしまう。もちろん全日本レベルの将来を嘱望されているような選手であればハードな練習も必要であろうが、それでも、あくまで「自主的に自分から努力して」行われるものでなくてはならない。なぜなら勝つことが目標の「レベルに達している選手層」であれば、勝つことは「楽しみ」であるからだ。そうでないレベルの選手にとっては、勝つことは「荷が重い」目標になってしまう。それよりもバットに当てることやストライクを投げることに集中するべきレベルの選手が多いのだ。まずそこから楽しみを見つけることである。
d) 指導者は「ビジネスライク」に接するべきである
指導者とは、そのスポーツについて経験が豊富で数多くの選手とも接していて、コミュニケーション能力が高く技術指導や戦術に詳しい人格者か望ましい、と一般に思われているが私はここに「全ての間違い」があると思っている。監督に引っ張られて、その厳しい指導のもとに選手が頑張りをみせるというのが、上下一丸となったいいチームと思われがちである。しかし監督というのは選手をどう使って試合に勝つかという「ストラテジスト」である。だから選手の能力にも「的確な分析」が出来なくてはならない。であればミスをしたからと言って「怒鳴ったり罵声を浴びせたりする理由は何もない」筈である。もしミスをした選手が「力量不足」なら他の選手を起用するべきだし、なんらかの原因でたまたまミスをしたのなら「我慢」するしかない。怒鳴る前に「どうやって勝つか」に集中すべきである。つまりミスをする原因が、選手の「気の緩み」だと思っているから「バカヤロー、何やってんだ!」になるのだ。しかしミスの原因が気の緩みだとしても「怒鳴る権利」は監督にはない。集中力というものは「そんなに長続きしない」というのは、いまや常識である。鬼監督などと言って「厳しさを売り」にしている人がいるが、分析や原因追及が厳しいのじゃなく「結果を責めるだけ」の愚将というのが実態ではないか。そんな根性論は「科学的にも意味がない」ことが既に立証されているのだ。単に悪しき習慣なのである。例えば相手チームのピッチャーを研究し、攻略法を考えて自分たちの攻撃に活かす戦術を冷静に考えること、それが出来る「優秀なストラテジスト」が監督としての役割である。なぜなら選手には出来ないことだから。
ここまで考察した分かったことは、監督やコーチといっても「別に偉くない」のであり、選手と違う「監督」と言う役割を持っているチームの一員であるということだ。指導という行為においても、単なる役割分担であるに過ぎない。自分が偉くて教える立場にあるという気持ちが、間違いの元なのである。映像に出てきた監督の罵声も、「自分ならあんなミスは絶対しない」という口調である。しかしそういう監督自身はミスしないのであろうか。多くの指導者の場合、選手に命令したことを自分で出来る人は少ない。指導者自身が「自分の目標や夢」に向かって努力している現役であれば、練習の苦しい内容も身にしみて分かっているであろう。自分の肉体のレベルと相談して練習のレベルも考えるということが「割と当たり前に出来る」のではないだろうか。それに指導している選手より「自分の事に一生懸命」だから、選手に「過大な要求」をしないものである。まあこれは指導者というより先輩・後輩というほうが正しいが、ようは選手の選択の自由が普段から確保出来ていれば、このように一方的に怒鳴られる不条理に泣くこともないのである。まだ小学校の少年に「おまえのミスで負けたんだぞ!分かってんのか?!」というような陰湿な暴言を吐くバカ監督は即座にクビにするぐらいでないと、怒鳴られた子供は「精神的傷を負って」その先の人生を歩むことになる(昔はそうでもなかったが)。だから子供のうちは「家族」が十分に注意しなくては、どんな暴力コーチにぶち当たるかわからないのである。
そこで思い出されるのが体操の宮川選手の問題で、塚原女子体操強化部長が「家族も宗教みたいでおかしい」と言ったのも一理あるのだ。常日頃虐待まがいを繰り返しているコーチと「小さい頃からずっと一緒に」やってきたというのは、精神的に「他のことが見えなくなっている」という場合もあり得る。宮川選手が速水コーチの暴力的体質を容認して「怪我とか命にかかわることの場合」には暴力を受けたこともある、と言っていて、暴力を受けなければならない原因は「自分のせい」だと考えていることが証拠と言えるのである。「こんな体罰を受けても仕方ない、だって私が悪かったんだから」という考え自体が典型的な虐待事例なのだ、ということが分からないのだ。虐待を受けている児童には、家を出て生活することができるなんて、想像できないのである。
周りの人間や世間の評判、自分のしたミスで迷惑をかけた人々、勝つ試合を負けた悔しさ。その全てを選手は受け入れなくてはならない。そして次にチャンスが来た時に「今度はどうすべきか自分で考える」のである。それを宮川選手は「速水コーチに怒られないよう頑張る」ことしか念頭になかったのではないか、と思えなくもない。本当はミスした自責の念を「共に受け止めてくれる人が、監督でありコーチ」なのだと私は思う。つまり外部からの色々な不安を一人の人間にすり替えて、その人から叱咤激励されても「たまに与えられる褒美」で安堵してしまう閉ざされた世界に、逃げ込んでしまってはいけないのである。
実は私も会社でバリバリ仕事をしている時に後輩を指導する機会が何度かあった。システム開発という仕事柄、どっぷり指導にはまり込むことはなかったが、自分の得意分野が後輩の目指す分野と分かれていたのも都合が良かったかもしれない。私の得意分野は「社内のシステム・仕組みを分析して、新しい視点で社長に提示する」ことである。まあ余り上手だったとはいえないが、そこそこ機能したのではないかと自負している。私は運良くならなかったが、現役をリタイアした指導者が陥りやすい間違いは、後継者に自分の果たせなかった夢を託すことである。経験も能力も自分のほうが上だと思っていて、しかも立場が断然上だとなると「どうしても相手を下に見がち」になる。そうなれば人間はどんどん「偉そうな物言い」になってしまうのだ。そして相手に「反論・くちごたえ」を許さない姿勢になりやすい。これが「指導の押しつけ」である。指導は相手が乞うて「初めて」成される、と肝に銘じるべきではないだろうか。自身の反省を込めて、今はそう思う。いま指導してやらねばこの子はダメになってしまう、などという言い訳も、「指導者の一方的な傲岸さ」であるというのが結論である。
個人の自由選択権が尊重されていれば、パワハラもなくなる。世に言うパワハラ・セクハラ・暴力というのは本人が嫌がるかどうかではなく、個人の「自由選択権をないがしろにする行為」が犯罪なのである。嫌なら嫌だとハッキリ言えばよい。この時点では犯罪では無い。それに対する「報復・嫌がらせ行為」が、正しくは犯罪である。しかし当人が悪気無く行った行為が「相手が黙っている」ためにハラスメントとは思わなかった、というのが最近のパワハラ・セクハラの実態ではないだろうか。まあレベルの問題だが、昭和世代の我々には耳の痛い話題である。ちゃんと言えば「ああ、そうなのか」という場合だってあるのに、ねぇ・・・。
話が横道に逸れてしまったが、要は「選手の自由選択権」を尊重せよ、ということである。宮川選手の場合は「いわゆるストックホルム・シンドローム」という可能性も疑われるが、暴力を振るうという行為には「選手のことを思っての、愛情ある体罰」が成立せず、実は指導者側の「勝手な論理」であると言うことが説明できたのではないかと思う。上に立つものが何か言えばなんでもパワハラじゃあ立つ瀬がないじゃあありませんか。パワハラ・セクハラとは、「それを指摘する」とそれに対して陰湿な「これみよがしな報復を行う」ことで初めて成立する。「指摘しなければ」、言っただけとか触っただけでは犯罪ではないのだ、お間違えのないように。
勿論、怖くて言えなかったという意見もあるのは承知している。でもそろそろ肩をポンと叩かれたら「それ、セクハラですよ」ぐらいは言えるように、女性も自己主張してもらいたいものである。
1 まず暴力を振るう指導に共通しているのは、指導される側が子供あるいは「社会人として一人前ではない」ことである。
つまり指導者側が一方的に命令し失敗すると叱責する、といった指導方法が一般的に行われていて、それに我慢してついていくことで成長するという誤った図式である。選手は指導者のロボットであり、指導者は「3歳の幼児をあつかうように」全ての行動を指示し命令し、従わなければ暴言罵声を浴びせ、時には怒りに任せて暴力を振るう。チームで試合する場合は他の選手への見せしめとして暴力を利用する場合さえあると聞いている。要は監督が思い描く「理想の選手像」があって、それ以下の選手は「必死に練習して」一歩でもそれに近づけるよう努力する、ということが「自明の事」として世間に認められた常識だと思いこんでいるのだ。そこにおける選手の意見は、全く無視である。もちろん監督は選手に愛情を持っていると言うが、その愛情は監督の理想とする選手像に「近付こうと努力する我が子」としての愛情なのである。決して選手「一人ひとりの個性」を尊重した上での相互的な愛情ではない。この反対意見無用の一方的愛情が、暴力指導を生む原因である。
2 一方、選手の方にも問題点はある。
指導される側が上手くなりたい・試合にも勝ちたいと真剣に思っている場合、練習もハードになってくる。指導者として評価が高い監督や実績のある監督だったりするとスポーツをやったことがない親は盲目的に信じ込み、我が子が叱責や罵声で怒鳴られても「監督の言う通り頑張って」と思うのだ。監督の言う通りに選手が出来るのなら、野球の1番バッターから9番バッターまで「全員にホームランを打て」と指示すれば試合には必ず勝つ。しかし余りにもそれは不可能だという人がいれば、では「どういうレベルなら妥当な指示」と言えるのか聞いて見たい。当然、選手一人一人の能力に合わせた作戦が必要になることは目に見えている。あるいは選手が三振したら「バカヤロー!」とだけ怒鳴り罵声を浴びせる監督では、選手は次にどうしたらいいのか判断がつかないでは無いか。結局選手は自分でいろいろ考えてトライし、失敗すれば怒鳴られるのである。こういう監督では選手が伸びる要素は全くない、全く。そのシチュエーションに合った適切な方法を「それが出来るようになるための選手個人の特性に合った科学的練習」で目指すのが正解なのだ。目標はあってそれが達成できれば、選手は楽しいと感じるのである。求めるのはあくまで選手個人のレベルアップであり、監督が思い描く理想像とのギャップを埋めることでは無い。選手は努力したことで上手くなるが、「それが監督の指導の成果だと勘違いする」ことが往々にしてある。宮川選手の場合も「そういう勘違い」の一つであるかも知れない。本当は選手が努力した結果に過ぎないのだが、それが選手にはわからないのである。最近ゴルフでもトラックマンなどを駆使して自分のスイングを分析して弱点を強化し間違いを正し、より理想的なスイングに簡単に近づける画期的な方法が一般的になってきた。昔風のただ「頭を残せ」とか「しっかり体重移動をしろ」とか「ダウンブローに打て」とかいうのは、もう流行らなくなっているのだ。選手自身が自分のことを十分に知り、それにピッタリの指導を受けて上手くなれれば「暴力など必要ない」のである。「もっとちゃんと打てよ!」と監督に叱責されても、選手には結果を言われただけで「どうすれば出来るか」を教えてもらえない。選手は「ちゃんと、って何?」と思うだけであろう。こういうのを指導者と呼んでいた社会というのは、上位にある者が無理難題を下位の者に押し付けて怒鳴るだけの「無知蒙昧な縄文社会」である。
3 つまり指導者側の問題が大きいのだ。
指導者が選手を選ぶ場合、箸にも棒にもかからない選手は相手にしない。少しでも見込みがあると思った選手には、愛情を持って育てるのが一般的だ。だがこれは指導者側の論理である。近頃テレビでよく宣伝しているRIZAPゴルフなどのように「誰でも上手くしてしまう」練習場では、怒鳴ったり叩いたりせずに「練習し成果を上げている」のである(宣伝どおりだとしてであるが)。これがトレーニングというものである。有料だから出来るというのであれば、少年野球は無料だから暴力で代用しているという「変な理屈」になってしまう。無料であっても正しい練習方法は一つであり、トレーニングの方法は(質とか器具とかは当然落ちるにしても)一緒のはずである。つまり少年野球の暴力監督は、子供を教える「科学的方法を知らない」ただの無知で粗野なおっさんに過ぎないのだ。こういう監督のいるチームに我が子を入れたいと思う親の気が知れないのは私だけではないであろう。この手の監督は、選手のやる気を引き出すことだ上手だと言われていることがある。監督は「選手の意欲」をコントロールしようとする。だから「暴力」なのだ。本当はまだ未熟な子供の場合、意欲をコントロールするのではなく、技術や体力を身につける方法を教えなければいけないはずである。つまり、指導される側の意識改革は、指導者が「向上させる」ものだと考えているのだ。これは指導される側を「一個の人間と見ていない」立場であり、「自分の意思を持たない人形」と考えることではないだろうか。「体罰」とは軍隊で推奨されている「根性至上主義」論理である。言われた通りにどんなことでも実行するロボット人間を育てる方法として、軍隊では「体罰」が日常茶飯事であった(らしい)。日本のスポーツ界は、いまだにこの軍隊式「洗脳」がまかり通っている世界なのである。
結論として、もう指導のあり方の根本から見直す時期に来ていると思う。少し前の相撲部屋でのバットによる弟子死亡事件に始まり、日大の悪質タックル事件や女子レスリングのパワハラ事件、ボクシング協会のドンによる恣意判定など、枚挙に暇がない。正しい指導とはいったい「どういう指導方法」を指すのだろうか。かいつまんで列挙しよう。
a) 指導者は「選手が」選ぶ
指導は、指導される側が望んだ時に指導するのが大前提である。望んでいないのに指導しようとすれば、それは「押し付け」になる。習うのもやめるのも選手の一存である。選手が知りたいこと、あるいは間違っていることを指摘して、それを克服するための最適の練習法を教えて「実際のカリキュラムを作ってくれる」のが指導者である。選手が成長するに当たって「この指導者は自分のどこを成長させてくれるのか?」を考えると、「指導者とは何か?」の答えが見えてくる。自分にない、あるいは「あったが失われてしまった」才能または能力を持っていると思う選手を指導して高い成績を出すことは、指導者にとって失われた夢を実現することでもある。指導したい、と思う気持ちが、もう既に「選手に何かを期待して」いることであり、指導者が選手を自分の思うように勝手に作る事である。このように選手には全く関係がない一方的な指導者の夢に従わされる選手は、いい面の皮である。
b) 当然、選手と指導者は「対等で」ある
選手が言いたいことを言えない状態では、正常な師弟関係とはとても言えない。それは上下関係であり命令服従関係であり、言ったことが出来なければ「怒鳴ったり罵声を浴びせたり」選手の人格を無視するような行為が出てきても不思議はない。私は昔大学女子バスケットの試合を見に行っていた事があるが、コーチの試合中に連発する「えげつない叱咤激励(この言葉自体が間違った指導を表している)」に、げんなりしたものだった。「ばかやろう何やってんだ!」とベンチから怒鳴っている姿を見ると、選手が可愛そうで可愛そうで・・・今でもこういうコーチは存在するようである!。伝統という言葉で片付けられることがあまりにも多いが、虐待で育った子供は自分が親になった時に「同じように我が子を虐待してしまう」という傾向があるという。自分の立場は「当然に命令できる」という思い込みが暴力を生む。指導者と選手は「上下関係ではなく対等」であるべきだ。
c) 選手が小さい子供のうちは勝ち負けよりも「楽しさ」を優先する
試合形式で勝ち負けを優先すれば、当然選手の実際のレベルを「勝てるレベル」に持っていかなくてはならない。当然、選手個人個人の能力より「チーム事情」が優先される。結局一番弱いものに責任が回ってくる。プロならば給料が違うので期待度合いもそれぞれだが、アマチュアのチームでは悪しき「平等の原理」が働いて、ミスをした選手が責められてしまう。もちろん全日本レベルの将来を嘱望されているような選手であればハードな練習も必要であろうが、それでも、あくまで「自主的に自分から努力して」行われるものでなくてはならない。なぜなら勝つことが目標の「レベルに達している選手層」であれば、勝つことは「楽しみ」であるからだ。そうでないレベルの選手にとっては、勝つことは「荷が重い」目標になってしまう。それよりもバットに当てることやストライクを投げることに集中するべきレベルの選手が多いのだ。まずそこから楽しみを見つけることである。
d) 指導者は「ビジネスライク」に接するべきである
指導者とは、そのスポーツについて経験が豊富で数多くの選手とも接していて、コミュニケーション能力が高く技術指導や戦術に詳しい人格者か望ましい、と一般に思われているが私はここに「全ての間違い」があると思っている。監督に引っ張られて、その厳しい指導のもとに選手が頑張りをみせるというのが、上下一丸となったいいチームと思われがちである。しかし監督というのは選手をどう使って試合に勝つかという「ストラテジスト」である。だから選手の能力にも「的確な分析」が出来なくてはならない。であればミスをしたからと言って「怒鳴ったり罵声を浴びせたりする理由は何もない」筈である。もしミスをした選手が「力量不足」なら他の選手を起用するべきだし、なんらかの原因でたまたまミスをしたのなら「我慢」するしかない。怒鳴る前に「どうやって勝つか」に集中すべきである。つまりミスをする原因が、選手の「気の緩み」だと思っているから「バカヤロー、何やってんだ!」になるのだ。しかしミスの原因が気の緩みだとしても「怒鳴る権利」は監督にはない。集中力というものは「そんなに長続きしない」というのは、いまや常識である。鬼監督などと言って「厳しさを売り」にしている人がいるが、分析や原因追及が厳しいのじゃなく「結果を責めるだけ」の愚将というのが実態ではないか。そんな根性論は「科学的にも意味がない」ことが既に立証されているのだ。単に悪しき習慣なのである。例えば相手チームのピッチャーを研究し、攻略法を考えて自分たちの攻撃に活かす戦術を冷静に考えること、それが出来る「優秀なストラテジスト」が監督としての役割である。なぜなら選手には出来ないことだから。
ここまで考察した分かったことは、監督やコーチといっても「別に偉くない」のであり、選手と違う「監督」と言う役割を持っているチームの一員であるということだ。指導という行為においても、単なる役割分担であるに過ぎない。自分が偉くて教える立場にあるという気持ちが、間違いの元なのである。映像に出てきた監督の罵声も、「自分ならあんなミスは絶対しない」という口調である。しかしそういう監督自身はミスしないのであろうか。多くの指導者の場合、選手に命令したことを自分で出来る人は少ない。指導者自身が「自分の目標や夢」に向かって努力している現役であれば、練習の苦しい内容も身にしみて分かっているであろう。自分の肉体のレベルと相談して練習のレベルも考えるということが「割と当たり前に出来る」のではないだろうか。それに指導している選手より「自分の事に一生懸命」だから、選手に「過大な要求」をしないものである。まあこれは指導者というより先輩・後輩というほうが正しいが、ようは選手の選択の自由が普段から確保出来ていれば、このように一方的に怒鳴られる不条理に泣くこともないのである。まだ小学校の少年に「おまえのミスで負けたんだぞ!分かってんのか?!」というような陰湿な暴言を吐くバカ監督は即座にクビにするぐらいでないと、怒鳴られた子供は「精神的傷を負って」その先の人生を歩むことになる(昔はそうでもなかったが)。だから子供のうちは「家族」が十分に注意しなくては、どんな暴力コーチにぶち当たるかわからないのである。
そこで思い出されるのが体操の宮川選手の問題で、塚原女子体操強化部長が「家族も宗教みたいでおかしい」と言ったのも一理あるのだ。常日頃虐待まがいを繰り返しているコーチと「小さい頃からずっと一緒に」やってきたというのは、精神的に「他のことが見えなくなっている」という場合もあり得る。宮川選手が速水コーチの暴力的体質を容認して「怪我とか命にかかわることの場合」には暴力を受けたこともある、と言っていて、暴力を受けなければならない原因は「自分のせい」だと考えていることが証拠と言えるのである。「こんな体罰を受けても仕方ない、だって私が悪かったんだから」という考え自体が典型的な虐待事例なのだ、ということが分からないのだ。虐待を受けている児童には、家を出て生活することができるなんて、想像できないのである。
周りの人間や世間の評判、自分のしたミスで迷惑をかけた人々、勝つ試合を負けた悔しさ。その全てを選手は受け入れなくてはならない。そして次にチャンスが来た時に「今度はどうすべきか自分で考える」のである。それを宮川選手は「速水コーチに怒られないよう頑張る」ことしか念頭になかったのではないか、と思えなくもない。本当はミスした自責の念を「共に受け止めてくれる人が、監督でありコーチ」なのだと私は思う。つまり外部からの色々な不安を一人の人間にすり替えて、その人から叱咤激励されても「たまに与えられる褒美」で安堵してしまう閉ざされた世界に、逃げ込んでしまってはいけないのである。
実は私も会社でバリバリ仕事をしている時に後輩を指導する機会が何度かあった。システム開発という仕事柄、どっぷり指導にはまり込むことはなかったが、自分の得意分野が後輩の目指す分野と分かれていたのも都合が良かったかもしれない。私の得意分野は「社内のシステム・仕組みを分析して、新しい視点で社長に提示する」ことである。まあ余り上手だったとはいえないが、そこそこ機能したのではないかと自負している。私は運良くならなかったが、現役をリタイアした指導者が陥りやすい間違いは、後継者に自分の果たせなかった夢を託すことである。経験も能力も自分のほうが上だと思っていて、しかも立場が断然上だとなると「どうしても相手を下に見がち」になる。そうなれば人間はどんどん「偉そうな物言い」になってしまうのだ。そして相手に「反論・くちごたえ」を許さない姿勢になりやすい。これが「指導の押しつけ」である。指導は相手が乞うて「初めて」成される、と肝に銘じるべきではないだろうか。自身の反省を込めて、今はそう思う。いま指導してやらねばこの子はダメになってしまう、などという言い訳も、「指導者の一方的な傲岸さ」であるというのが結論である。
個人の自由選択権が尊重されていれば、パワハラもなくなる。世に言うパワハラ・セクハラ・暴力というのは本人が嫌がるかどうかではなく、個人の「自由選択権をないがしろにする行為」が犯罪なのである。嫌なら嫌だとハッキリ言えばよい。この時点では犯罪では無い。それに対する「報復・嫌がらせ行為」が、正しくは犯罪である。しかし当人が悪気無く行った行為が「相手が黙っている」ためにハラスメントとは思わなかった、というのが最近のパワハラ・セクハラの実態ではないだろうか。まあレベルの問題だが、昭和世代の我々には耳の痛い話題である。ちゃんと言えば「ああ、そうなのか」という場合だってあるのに、ねぇ・・・。
話が横道に逸れてしまったが、要は「選手の自由選択権」を尊重せよ、ということである。宮川選手の場合は「いわゆるストックホルム・シンドローム」という可能性も疑われるが、暴力を振るうという行為には「選手のことを思っての、愛情ある体罰」が成立せず、実は指導者側の「勝手な論理」であると言うことが説明できたのではないかと思う。上に立つものが何か言えばなんでもパワハラじゃあ立つ瀬がないじゃあありませんか。パワハラ・セクハラとは、「それを指摘する」とそれに対して陰湿な「これみよがしな報復を行う」ことで初めて成立する。「指摘しなければ」、言っただけとか触っただけでは犯罪ではないのだ、お間違えのないように。
勿論、怖くて言えなかったという意見もあるのは承知している。でもそろそろ肩をポンと叩かれたら「それ、セクハラですよ」ぐらいは言えるように、女性も自己主張してもらいたいものである。