私は色々と脇道にそれて古代史を彷徨っていたが、いつしか「持統が、孫可愛さで政権を私物化した」というような言わば現代的な理屈が、果たして通用する時代だったんだろうか?、と疑問を持つようになった。古代は、現代と違う理念で動いている。そこで改めて、古代史において私が折に触れて感じた疑問点を列挙してみることにした。勿論私の個人的な疑問である。
1、天智天皇は何氏の出身か?
古代は個人や家という考えはなく、自分の属している「部族」の勢力拡大を人生目標としていた、と私は思っている(大まかに言えば、である)。現代人のような個人の生活の充足や私利私欲で動いているのではないのだと思う。勿論多少はあっただろうが、それはあくまで「部族内権力闘争」であって、部族と部族の争いになれば一致団結し、勢力拡大に血道をあげるのが当然だった。では、中大兄皇子つまり天智天皇は、「何部族に属していた」のか?。これが大きな謎の一つである。
天智天皇=中大兄皇子は父が舒明天皇、母は舒明天皇の兄弟の茅渟王の娘・宝姫、後の皇極・斉明天皇であると日本書紀は書いている。舒明天皇は、応神天皇の系統が仁徳天皇以下武烈天皇の断絶で途絶えてしまい、すったもんだの挙げ句に「越前」から出てきた男大迹大王=継体天皇が、後を継いで王朝を開いた。遠く遡って、応神天皇につながる天皇家の一族という名目で、天皇位を継いだのである(だから「継体」という名を付けたと言うのは考えすぎだろう)。しかし一部の歴史家の中には、継体・安閑・宣化の一族が「何かの戦いで揃って死亡」したという説を説くものもいる。天皇家が万世一系という「お伽噺」を信じるほど私はお人好しではないので、一応は継体天皇で一度「別系統の部族」に権力が移動したと見ているのだが・・・。
そして継体天皇一族の次に天皇位を継いだ欽明天皇は、継体天皇の属する部族の別系統か、或いは全く関係がない新しい部族かも知れず、もしかすると元の武烈系統の部族から出た「後継者」ということも考えられる。何れにしろ欽明天皇の系統が勢力を拡大し、同時に蘇我氏が新勢力として頭角を現してきたというのが新しい展開である。蘇我氏が欽明王朝で順当に勢力を伸ばしていたそんな中で、推古女帝と蘇我馬子が相次いで亡くなり、舒明天皇が天皇位を継ぐ。その妻・宝皇女の母親は「吉備姫王」という、吉備地方を一大勢力圏とする部族(に関係あるらしい?)の一員なのが偶然なのか、あるいは深い意味があるのか。舒明天皇の父方は敏達天皇ー押坂彦人大兄皇子という、天皇家本流の系統だ。
敏達ー用明ー崇峻ー推古と兄弟間で回していた天皇位は、順当に言えば押坂彦人大兄皇子に継がせるのが常識である。だって名前が「大兄皇子」なのだ。この頃までは、男の兄弟が年の順に天皇位を継いでいたとするのが常識である。それが何故か上手く行かずに「天地開闢以来始めての女性天皇=推古」が立った。女性が天皇位を継ぐのは過去にもいくつか例があるが、必ず「次世代の天皇が成長するまでの代替」であり、中身のない名前だけの天皇である。当然この推古女帝も実体がわからない天皇で、蘇我氏の傀儡とも言う人がいるぐらい謎めいた天皇だ。では、誰が次の天皇位を継ぐ事になっていたのだろうか?
その推古が亡くなって跡継ぎを定めずにいたことから評議がなされて、蘇我氏一族の間に誰を立てるかという後継者争いが生じたと日本書紀にある。推古が立った時には押坂彦人大兄皇子では具合が悪かったのか、または年齢が若かったのか、またはその他の理由があったのかは不明のままだ。結局押坂彦人大兄皇子の息子、田村皇子=舒明天皇が権力を握ったことで、山背大兄王は天皇位からはずされた。此のあたり、天皇位は各部族の上に立つ実力者というのではなく、外部の有力部族が傀儡として担ぐ「名前だけの天皇」という形骸化したものになっているようにも取れる。とすれば押坂彦人大兄皇子派と厩戸皇子派との確執を棚上げする目的で推古が立った、と言うのが通説である。結局は厩戸皇子が亡くなって決着がついたが、舒明天皇も部族を束ねるというほどの実力はなく、蘇我本宗家の後押しを受けた形で、このまま順当に行けば「古人大兄皇子」にバトンタッチされる筈だった。
古人大兄皇子は蘇我氏の血が入った、息がかかった最有力候補と目されていた。舒明天皇が亡くなった時に古人大兄皇子が天皇位を継がなかったというのが何故なのか、これが謎である。だが年齢が天皇位に相応しくないのかどうか不明だが、一旦妻の皇極天皇が立つ。これは蘇我本宗家だけが絶大な権力を握っている状態から、蘇我氏内部での権力争いが徐々に激化してきて、群雄割拠に近い状態になっていたせいなのかとも思われるが、本当のところは分からない。しかも相当な年齢になってはいたが、山背大兄王がまだ皇位継承権者として存在していた。だから蘇我氏としては、一応皇極天皇を立てておき、その間に山背大兄王一族の粛清が「部族総意の元で」行われた、というのが現在の理解である。入鹿の横暴として描かれる事の多い山背大兄王殺害事件だが、政権の総意に基づいて行われたらしい。
こうして、晴れて蘇我入鹿をトップにした「一強独裁体制」が築かれた、と誰しもが思ったのではないだろうか。ところが、それを面白く思わなかった皇極天皇の弟の孝徳天皇と蘇我倉山田一派の「逆転のクーデター」が、世間に言う「乙巳の変」である。入鹿は蘇我氏の中で「余りにも独占し過ぎた」というのが第一の疑問だ。入鹿は相当に学問も出来たらしく、人格・頭脳も申し分ない「飛鳥朝随一の政治家」だった筈である。それが何故クーデターなどで暗殺されてしまったのか。舒明天皇の葬儀で誄をしたのが中大兄皇子だと言う日本書紀の記事は、古人大兄皇子より皇位継承順位が上だった、とも考えられるので、何もクーデターなどで急いで政権転覆する理由が彼には無いのである。或いはこの記事がそもそも、古人大兄皇子を抹殺するために挿入されたフェイクとも考えられる。
この乙巳の変は日本書紀などで相当に粉飾されていて、天智天皇と中臣鎌足の活躍が大々的にアピールされているが実態はむしろ、「孝徳天皇一派のクーデター」であり、天智天皇は単に「叔父に誘われて加勢」した程度のものだったろうと思う。むしろ皇位継承の観点からは、天皇位が別系統に移ってしまうかも知れないクーデターは、中大兄皇子にして見れば相当危ない賭けだったのではないか。天智天皇は舒明天皇と宝皇女の間に生まれた息子である。舒明天皇と蘇我氏の系統の女性との間に生まれた皇子が「古人大兄皇子」であり、天皇位争いの上では中大兄皇子と同じくらい有力で「既に皇極朝では政府の中枢にいた」とする人もいる。だが蘇我入鹿を倒すことで古人大兄皇子も一緒に除くことが出来るということなので、部族で言えば古人大兄皇子を倒すのが目的で、どっちかと言えば中大兄皇子は「河内蘇我氏系」の皇子だろうと考えられるのだ。
葛城王子というように、蘇我氏の本拠地の「葛城」を名乗っているので完全にそうだとは言い切れないが、権力を握っている蘇我入鹿と違う勢力の一員であるのは間違いない。この時代は一夫一婦制ではないので、個人の属する部族は父方よりも「母方もしくは養育部族」で考える必要がある。そこで古人大兄皇子が、乙巳の変の起きた飛鳥板蓋宮から走って逃げた時に口走ったとされる、「韓人が入鹿を殺しつ」という言葉が大きな意味を持ってくる。「韓人」とは誰のことを言っているのか?。この謎はいまだに解明されていない。天智天皇は「韓人」なのだろうか・・・。
私は孝徳天皇が韓人だろうと見ている。刺客の連中を見れば、それがどこの部族のものかは一瞬で分かるからだ。古人大兄皇子は入鹿が殺される瞬間に現場に居たのである。そして海犬養勝麻呂と佐伯古麻呂は孝徳天皇の配下の暗殺集団である。古人大兄皇子は瞬時に悟ったに違いない、「孝徳にやられた!」と叫んで宮殿を飛び出した・・・。この推移を見れば、入鹿と古人大兄皇子は政権内で孤立していたと考えるのが順当である。その後の展開と蘇我蝦夷の自害までを見ると、東漢直の離反が引き金になったようだ。この東漢直と言うのは蘇我氏系で「天武天皇が育てられた一族」と言う話もあるが、まだよく分からない。
何れにしても「韓人」と言うのはキーワードである。
2、大和はなぜ「ヤマト」と読むのか
以前から不思議に思っていたことだが、学校で日本の古い呼称を「ヤマト」だと教えられた頃から疑問があった。何故「大和」を「ヤマト」と読むのか?。普通に考えれば読めない。漢字は音読みと訓読みがあり、「大」は「だい」と読み「おおきい」とも読む。つまり大雑把に言えば、音読みは中国の漢の読み方であり、訓読みは「日本語の意味を当てはめた」読み方である。だから大和は「大きい和」と考えられる。では「和」は何の意味か。まさか和を持って尊しの和ではないだろう。何とも意味不明である。大きな和というアプローチは上手く説明が出来ないようだ。だがこれは少し歴史をかじれば、和は「倭」を同じ音でもうちょっと良い意味の2文字に置き換えたものだと分かる。ではそもそもの「倭」とは何処を指すのであろう?
しかし「倭」は国名であるから、紀伊=木の国とか摂津=津の国という流れから考えれば、実際に「倭」の国と呼ばれる地域が存在していたと考えられるではないか。「倭」は古い地名だから、豊の国とか火の国などのような、シンプルな地名の一つだろうと想像はできる。だが現実には日本のどこにも「倭」と呼ばれた国または地域が存在していたとする資料は見当たらない。「わ」1字で表される名前で思い出されるのは、朝鮮半島で活躍した「倭族」である。だが、国の名前ではない。では邪馬台国の「ヤマダイ」が倭族の中心だったから、倭族の国=ヤマダイ=ヤマトとなったのだろうか。それもコジツケのような理屈で違うような気がする。
A.D.57年に後漢の光武帝から授けられた金印が「漢委奴国王印」であった事実から推定すると、委奴国=倭国と考えるのが一番納得がいく。つまり金印を貰った委奴国が権力者の交代によって後継国家「委国」となり、美称である「大」がくっつき、大委国と称したとも考えられる。「倭=イ」は元々が中国での東夷的表記名で、「委」は漢字を使い始めてから自分たちでつけた「正式国家名」ということのようである。ちなみに倭国というのは日本の記事には出てこなくて、高句麗や新羅などの文書に出てくるだけの呼び名だ。中国は周辺部族を「東夷西戎南蛮北狄」と呼び習わして、蔑称を名付けることで差別していた。だから日本のことを「倭=小さくて曲がっている?」国と呼んでいた、と考えられる。金印を与える時には流石に蔑称を使うことはせず、正式名称を刻印したのであろう。読み方は同じ「イ」だ。歴史書に言われる通称「倭=ワ」というのは、どうも誤りと私は思っている。A.D.57年の委奴国から6世紀の大委国まで、一貫して日本の中心国家は「委国」なのである。
しかし桓霊の間、倭国大乱の後に現地では宗主国「ヤマト」を戴いて安定を得、中国への外交正式文書には新しく「ヤマト」と名乗っていたことだろうと推測できる。つまり宗主国は「ヤマト」と称していたが、それは協議の末に置かれた議長国のようなものであり、周りの30国余りの従属国は「依然として、委国」と自称していたのではないか。伊都国が「世々王を伝え」と書かれている如く、実質的な権力者は伊都国と他の2、3の有力国家、おそらく親戚関係のような兄弟争いで分裂抗争を繰り返していたのだと私は思う。
3世紀の邪馬台国は自分たちを「ヤマトまたはヤマダイ」と自称していて、魏志倭人伝に記録される時には「邪馬台国」と表記され、「親魏倭王」の金印を貰った。これが本当に「倭王」と彫ってあったかどうかは実物が発見されていないので分からない(私は「親魏委王」と彫ってあったと解釈したいのだが・・・)。ところがそれが、日本の正式歴史書である「日本書紀と古事記」に全く載ってないというのは何故なんだろうか。考えられるのは邪馬台国とは1地方の名称で、今で言うならば神奈川県とか大阪府とかの数ある地域群の一つであると言う考え方だ。日本の宗主国として魏との交渉を行ったが、日本国内では「統一王朝を獲得したことは1度も無い」というのが本当のところではないだろうか。卑弥呼が死んで台与があとを継ぎ、その後は歴史の闇に忽然として消えてしまった。
初めから終わりまで日本の統一国家=実力者には「ヤマトのヤの字も出てこない」のに、何故奈良地方に突然「大和」などという名称がでてきたのか、それが疑問である。ヤマトという名称は、元々奈良盆地の東縁地域を表す辺境の名称だった、とネットでは書かれている。中国の魏と交渉を結んだ邪馬台国と「何の関係もない村の名前」だったのだ。だから日本書紀にも出てくるわけがないのである。それが天平時代に日本書紀が完成する頃、中国文書に出てくる「邪馬台国」をこの「ヤマト」と結びつけるアイディアが登場し、「倭」を無理やり「ヤマト」と読んで、奈良中心部を総称をするようになり、大倭国または大養徳国または大和と表記した、というのが私の考える「倭=ヤマト」の経緯である。大体漢字を少しは覚えたであろう日本国民が、自分から「倭国」などと言う蔑称をワザワザ「首都」の総称に使う「わけが無いではないか」。こういう常識が、日本の歴史学会には欠けている。
とにかく何か理由を考えなければ、普通に「倭」を「ヤマト」と読むのは不可能なのだ。
1、天智天皇は何氏の出身か?
古代は個人や家という考えはなく、自分の属している「部族」の勢力拡大を人生目標としていた、と私は思っている(大まかに言えば、である)。現代人のような個人の生活の充足や私利私欲で動いているのではないのだと思う。勿論多少はあっただろうが、それはあくまで「部族内権力闘争」であって、部族と部族の争いになれば一致団結し、勢力拡大に血道をあげるのが当然だった。では、中大兄皇子つまり天智天皇は、「何部族に属していた」のか?。これが大きな謎の一つである。
天智天皇=中大兄皇子は父が舒明天皇、母は舒明天皇の兄弟の茅渟王の娘・宝姫、後の皇極・斉明天皇であると日本書紀は書いている。舒明天皇は、応神天皇の系統が仁徳天皇以下武烈天皇の断絶で途絶えてしまい、すったもんだの挙げ句に「越前」から出てきた男大迹大王=継体天皇が、後を継いで王朝を開いた。遠く遡って、応神天皇につながる天皇家の一族という名目で、天皇位を継いだのである(だから「継体」という名を付けたと言うのは考えすぎだろう)。しかし一部の歴史家の中には、継体・安閑・宣化の一族が「何かの戦いで揃って死亡」したという説を説くものもいる。天皇家が万世一系という「お伽噺」を信じるほど私はお人好しではないので、一応は継体天皇で一度「別系統の部族」に権力が移動したと見ているのだが・・・。
そして継体天皇一族の次に天皇位を継いだ欽明天皇は、継体天皇の属する部族の別系統か、或いは全く関係がない新しい部族かも知れず、もしかすると元の武烈系統の部族から出た「後継者」ということも考えられる。何れにしろ欽明天皇の系統が勢力を拡大し、同時に蘇我氏が新勢力として頭角を現してきたというのが新しい展開である。蘇我氏が欽明王朝で順当に勢力を伸ばしていたそんな中で、推古女帝と蘇我馬子が相次いで亡くなり、舒明天皇が天皇位を継ぐ。その妻・宝皇女の母親は「吉備姫王」という、吉備地方を一大勢力圏とする部族(に関係あるらしい?)の一員なのが偶然なのか、あるいは深い意味があるのか。舒明天皇の父方は敏達天皇ー押坂彦人大兄皇子という、天皇家本流の系統だ。
敏達ー用明ー崇峻ー推古と兄弟間で回していた天皇位は、順当に言えば押坂彦人大兄皇子に継がせるのが常識である。だって名前が「大兄皇子」なのだ。この頃までは、男の兄弟が年の順に天皇位を継いでいたとするのが常識である。それが何故か上手く行かずに「天地開闢以来始めての女性天皇=推古」が立った。女性が天皇位を継ぐのは過去にもいくつか例があるが、必ず「次世代の天皇が成長するまでの代替」であり、中身のない名前だけの天皇である。当然この推古女帝も実体がわからない天皇で、蘇我氏の傀儡とも言う人がいるぐらい謎めいた天皇だ。では、誰が次の天皇位を継ぐ事になっていたのだろうか?
その推古が亡くなって跡継ぎを定めずにいたことから評議がなされて、蘇我氏一族の間に誰を立てるかという後継者争いが生じたと日本書紀にある。推古が立った時には押坂彦人大兄皇子では具合が悪かったのか、または年齢が若かったのか、またはその他の理由があったのかは不明のままだ。結局押坂彦人大兄皇子の息子、田村皇子=舒明天皇が権力を握ったことで、山背大兄王は天皇位からはずされた。此のあたり、天皇位は各部族の上に立つ実力者というのではなく、外部の有力部族が傀儡として担ぐ「名前だけの天皇」という形骸化したものになっているようにも取れる。とすれば押坂彦人大兄皇子派と厩戸皇子派との確執を棚上げする目的で推古が立った、と言うのが通説である。結局は厩戸皇子が亡くなって決着がついたが、舒明天皇も部族を束ねるというほどの実力はなく、蘇我本宗家の後押しを受けた形で、このまま順当に行けば「古人大兄皇子」にバトンタッチされる筈だった。
古人大兄皇子は蘇我氏の血が入った、息がかかった最有力候補と目されていた。舒明天皇が亡くなった時に古人大兄皇子が天皇位を継がなかったというのが何故なのか、これが謎である。だが年齢が天皇位に相応しくないのかどうか不明だが、一旦妻の皇極天皇が立つ。これは蘇我本宗家だけが絶大な権力を握っている状態から、蘇我氏内部での権力争いが徐々に激化してきて、群雄割拠に近い状態になっていたせいなのかとも思われるが、本当のところは分からない。しかも相当な年齢になってはいたが、山背大兄王がまだ皇位継承権者として存在していた。だから蘇我氏としては、一応皇極天皇を立てておき、その間に山背大兄王一族の粛清が「部族総意の元で」行われた、というのが現在の理解である。入鹿の横暴として描かれる事の多い山背大兄王殺害事件だが、政権の総意に基づいて行われたらしい。
こうして、晴れて蘇我入鹿をトップにした「一強独裁体制」が築かれた、と誰しもが思ったのではないだろうか。ところが、それを面白く思わなかった皇極天皇の弟の孝徳天皇と蘇我倉山田一派の「逆転のクーデター」が、世間に言う「乙巳の変」である。入鹿は蘇我氏の中で「余りにも独占し過ぎた」というのが第一の疑問だ。入鹿は相当に学問も出来たらしく、人格・頭脳も申し分ない「飛鳥朝随一の政治家」だった筈である。それが何故クーデターなどで暗殺されてしまったのか。舒明天皇の葬儀で誄をしたのが中大兄皇子だと言う日本書紀の記事は、古人大兄皇子より皇位継承順位が上だった、とも考えられるので、何もクーデターなどで急いで政権転覆する理由が彼には無いのである。或いはこの記事がそもそも、古人大兄皇子を抹殺するために挿入されたフェイクとも考えられる。
この乙巳の変は日本書紀などで相当に粉飾されていて、天智天皇と中臣鎌足の活躍が大々的にアピールされているが実態はむしろ、「孝徳天皇一派のクーデター」であり、天智天皇は単に「叔父に誘われて加勢」した程度のものだったろうと思う。むしろ皇位継承の観点からは、天皇位が別系統に移ってしまうかも知れないクーデターは、中大兄皇子にして見れば相当危ない賭けだったのではないか。天智天皇は舒明天皇と宝皇女の間に生まれた息子である。舒明天皇と蘇我氏の系統の女性との間に生まれた皇子が「古人大兄皇子」であり、天皇位争いの上では中大兄皇子と同じくらい有力で「既に皇極朝では政府の中枢にいた」とする人もいる。だが蘇我入鹿を倒すことで古人大兄皇子も一緒に除くことが出来るということなので、部族で言えば古人大兄皇子を倒すのが目的で、どっちかと言えば中大兄皇子は「河内蘇我氏系」の皇子だろうと考えられるのだ。
葛城王子というように、蘇我氏の本拠地の「葛城」を名乗っているので完全にそうだとは言い切れないが、権力を握っている蘇我入鹿と違う勢力の一員であるのは間違いない。この時代は一夫一婦制ではないので、個人の属する部族は父方よりも「母方もしくは養育部族」で考える必要がある。そこで古人大兄皇子が、乙巳の変の起きた飛鳥板蓋宮から走って逃げた時に口走ったとされる、「韓人が入鹿を殺しつ」という言葉が大きな意味を持ってくる。「韓人」とは誰のことを言っているのか?。この謎はいまだに解明されていない。天智天皇は「韓人」なのだろうか・・・。
私は孝徳天皇が韓人だろうと見ている。刺客の連中を見れば、それがどこの部族のものかは一瞬で分かるからだ。古人大兄皇子は入鹿が殺される瞬間に現場に居たのである。そして海犬養勝麻呂と佐伯古麻呂は孝徳天皇の配下の暗殺集団である。古人大兄皇子は瞬時に悟ったに違いない、「孝徳にやられた!」と叫んで宮殿を飛び出した・・・。この推移を見れば、入鹿と古人大兄皇子は政権内で孤立していたと考えるのが順当である。その後の展開と蘇我蝦夷の自害までを見ると、東漢直の離反が引き金になったようだ。この東漢直と言うのは蘇我氏系で「天武天皇が育てられた一族」と言う話もあるが、まだよく分からない。
何れにしても「韓人」と言うのはキーワードである。
2、大和はなぜ「ヤマト」と読むのか
以前から不思議に思っていたことだが、学校で日本の古い呼称を「ヤマト」だと教えられた頃から疑問があった。何故「大和」を「ヤマト」と読むのか?。普通に考えれば読めない。漢字は音読みと訓読みがあり、「大」は「だい」と読み「おおきい」とも読む。つまり大雑把に言えば、音読みは中国の漢の読み方であり、訓読みは「日本語の意味を当てはめた」読み方である。だから大和は「大きい和」と考えられる。では「和」は何の意味か。まさか和を持って尊しの和ではないだろう。何とも意味不明である。大きな和というアプローチは上手く説明が出来ないようだ。だがこれは少し歴史をかじれば、和は「倭」を同じ音でもうちょっと良い意味の2文字に置き換えたものだと分かる。ではそもそもの「倭」とは何処を指すのであろう?
しかし「倭」は国名であるから、紀伊=木の国とか摂津=津の国という流れから考えれば、実際に「倭」の国と呼ばれる地域が存在していたと考えられるではないか。「倭」は古い地名だから、豊の国とか火の国などのような、シンプルな地名の一つだろうと想像はできる。だが現実には日本のどこにも「倭」と呼ばれた国または地域が存在していたとする資料は見当たらない。「わ」1字で表される名前で思い出されるのは、朝鮮半島で活躍した「倭族」である。だが、国の名前ではない。では邪馬台国の「ヤマダイ」が倭族の中心だったから、倭族の国=ヤマダイ=ヤマトとなったのだろうか。それもコジツケのような理屈で違うような気がする。
A.D.57年に後漢の光武帝から授けられた金印が「漢委奴国王印」であった事実から推定すると、委奴国=倭国と考えるのが一番納得がいく。つまり金印を貰った委奴国が権力者の交代によって後継国家「委国」となり、美称である「大」がくっつき、大委国と称したとも考えられる。「倭=イ」は元々が中国での東夷的表記名で、「委」は漢字を使い始めてから自分たちでつけた「正式国家名」ということのようである。ちなみに倭国というのは日本の記事には出てこなくて、高句麗や新羅などの文書に出てくるだけの呼び名だ。中国は周辺部族を「東夷西戎南蛮北狄」と呼び習わして、蔑称を名付けることで差別していた。だから日本のことを「倭=小さくて曲がっている?」国と呼んでいた、と考えられる。金印を与える時には流石に蔑称を使うことはせず、正式名称を刻印したのであろう。読み方は同じ「イ」だ。歴史書に言われる通称「倭=ワ」というのは、どうも誤りと私は思っている。A.D.57年の委奴国から6世紀の大委国まで、一貫して日本の中心国家は「委国」なのである。
しかし桓霊の間、倭国大乱の後に現地では宗主国「ヤマト」を戴いて安定を得、中国への外交正式文書には新しく「ヤマト」と名乗っていたことだろうと推測できる。つまり宗主国は「ヤマト」と称していたが、それは協議の末に置かれた議長国のようなものであり、周りの30国余りの従属国は「依然として、委国」と自称していたのではないか。伊都国が「世々王を伝え」と書かれている如く、実質的な権力者は伊都国と他の2、3の有力国家、おそらく親戚関係のような兄弟争いで分裂抗争を繰り返していたのだと私は思う。
3世紀の邪馬台国は自分たちを「ヤマトまたはヤマダイ」と自称していて、魏志倭人伝に記録される時には「邪馬台国」と表記され、「親魏倭王」の金印を貰った。これが本当に「倭王」と彫ってあったかどうかは実物が発見されていないので分からない(私は「親魏委王」と彫ってあったと解釈したいのだが・・・)。ところがそれが、日本の正式歴史書である「日本書紀と古事記」に全く載ってないというのは何故なんだろうか。考えられるのは邪馬台国とは1地方の名称で、今で言うならば神奈川県とか大阪府とかの数ある地域群の一つであると言う考え方だ。日本の宗主国として魏との交渉を行ったが、日本国内では「統一王朝を獲得したことは1度も無い」というのが本当のところではないだろうか。卑弥呼が死んで台与があとを継ぎ、その後は歴史の闇に忽然として消えてしまった。
初めから終わりまで日本の統一国家=実力者には「ヤマトのヤの字も出てこない」のに、何故奈良地方に突然「大和」などという名称がでてきたのか、それが疑問である。ヤマトという名称は、元々奈良盆地の東縁地域を表す辺境の名称だった、とネットでは書かれている。中国の魏と交渉を結んだ邪馬台国と「何の関係もない村の名前」だったのだ。だから日本書紀にも出てくるわけがないのである。それが天平時代に日本書紀が完成する頃、中国文書に出てくる「邪馬台国」をこの「ヤマト」と結びつけるアイディアが登場し、「倭」を無理やり「ヤマト」と読んで、奈良中心部を総称をするようになり、大倭国または大養徳国または大和と表記した、というのが私の考える「倭=ヤマト」の経緯である。大体漢字を少しは覚えたであろう日本国民が、自分から「倭国」などと言う蔑称をワザワザ「首都」の総称に使う「わけが無いではないか」。こういう常識が、日本の歴史学会には欠けている。
とにかく何か理由を考えなければ、普通に「倭」を「ヤマト」と読むのは不可能なのだ。
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