トランプ氏の発言について、意外とまともというのが第一印象である。もちろん大統領候補としては全然だめだが、アメリカを理想国家とみる見方からごく普通の国という風に考え方を変えたら、あれはあれで結構的を射ているのじゃないかと思う。アメリカもすべての人類の最高の国家形態から、白人のキリスト教徒の国になると解釈すれば、一つの回答といえるんじゃないか。ただし、白人と黒人とヒスパニックとアジア人と、民族別の国家に分裂することを受け入れればの話だけど。こんなことを考えながら今週も始めます。
(18)税金の話 : いい加減にしたら、もう!
軽減税率をどうこう言ってるとのニュースがテレビで騒がしいが、そもそも税の原点が見えなくなっている不毛の議論ではないだろうか。税の基本は「国民に必要な費用を国民に負担してもらう」ことである。国全体の発展と国民の健康で文化的な生活を上手くバランスして、暮らしやすく安全な国家を作るための税であるべきだ。であるから国をどう作っていくかという青写真が、何よりも最初になくてはならない。本来政党と言う以上、この青写真の一致している者が集まって国の舵を切るのが筋である。その党の青写真に賛成している場合は信任投票するという方法で、間接的に国の方針を選ぶことが出来る・・・これが選挙である。
今は自民党・公明党と民主党・維新の党・その他の野党との区別がはっきりしないのが最大の問題だ。共産党だけは違っているようだが、名前だけで嫌われているのも解せない。若者は選挙離れが加速していると言うが、意識が足りないのではなく似た者同士で争う構図に嫌気がさしているのが原因なのである。青写真をはっきり示すことが政治意識を高める、そういう意味では軽減税率の論議はもっと違った形にならなければいけない。
私の考える青写真は、1. 国民全員が生活程度は下がるが同じように幸せに生きることを目指す社会 2. 自由競争の論理で強いものだけが生き残り弱者は貧困の中に喘ぐ社会、以上の二つである。「これじゃ選挙にならないじゃないか、1. が勝つに決まっている」と仰る方が大多数であろう。でも本当にそうだろうか、国民は今より生活程度が下がることは絶対嫌だと思ってないだろうか。自由競争社会でありながら弱者救済を求めるのは根本的なルール違反である。ラーメン屋だって売れている店はやる気満々で夢を語るが、売れない店は借金を残して夜逃げする、それが現実である。では、失敗したら競争のフィールドから出て行き最低限度の生活は保障する、という制度はどうだろう。それが今の政党一般の共通の折衷案なんだろうと思う。そこでは「どの程度を最低限度とするか」の議論で争っているに過ぎない。だが弱肉強食のグローバル社会では、勝つ者より負ける者が圧倒的に多い。今のままでもうちょっと良い暮らしをしたいと思っている人が大半なのに、すべて大企業・大資本の力の前に蹴散らされてどんどん貧しくなって行く。どうしたら頑張った分だけ幸せになれる理想的な自由競争の社会で弱者を救済しつつ経済が発展するモデルを見つけられるのか。
答えは社会の仕組みではなく、個人の価値観にあると私は思っている。そもそも軽減税率で税金を増やしてしかも、年収が規定の高さに達しない弱者を救済しようというのは無理な相談だ。商品には金持ちも貧乏もない。
私なりの軽減税率とは
1.青写真に則って、必要なものと必要でないものに分け税率を変える。貧乏だから税率を下げるのではなく、無駄だから高くするのだ。タバコ税などはその典型である。税率は25%とかの高率も視野に入れ8%とか10%とかにこだわらない。
2.年収の少ない家庭や老齢介護・児童補助など苦しい生活の中で改善の見込みが少ない家庭は、事情に応じて「最低限度の生きる希望」をなくさないように、税率などで対処するのではなく社会保障でカバーする。
以上だ。
だいたち2%の差など意味がない、早晩25%位まで安倍政権は考えているであろう。どれが必要でどれが必要でないかの区別こそ、最初に言ったように青写真の議論が不可欠なのだ。テレビで見る元気なお年寄りは、皆んな贅沢なんか一つもしていないに関わらず幸せ一杯に生きている。80歳でも働くこと、働いている事に幸せを感じること、これが真実だと思う。私は野党の中に明確な青写真を掲げて、新しい日本を作っていこうという人達が出てくることを期待している。その時軽減税率の論議は、もう一度最初からやり直せば良いのではと思っている。
たなみに不動産や家賃にかける費用を撤廃・無償化し高級車やクルーザーや自家用機を買わなければ、案外と国民全員の年収を上げなくてもソコソコ幸せに暮らしていけると思うけどね。
(19)腸の話 : 腸が全ての始まり
ナマコという生き物は心臓も脳もなくて、身体全部が腸で出来てるそうである。生物の進化の道筋から言うと、エネルギー産生の要求が高くなるのに応じてより高度な免疫機能の仕組みと活発な活動力、そして長期間の胎生及び幼児保育となる。いわゆる哺乳類の誕生である。ナマコが進化の過程で置き去りにされたと言うつもりはない。ナマコはナマコなりに最高度に洗練された生物である。その証拠に、少なくとも何千何万年という間生き延びているし今後も生き続けていくであろう事は確実である。生物は可能な限りの多様性を持って進化する。ナマコも人間も同等の価値を持って進化したので、同じ腸という臓器を持つ仲間でもある。
ここで考えていただきたいのは、腸だけの生物が我々の身近に普通に存在するのに、心臓だけとか脳だけとかという生物は思いつかない事である。人は良く「人間は考える葦である」とか「頭で考えず、心で判断せよ」とか言うように、脳または心臓を「人間」の精神の拠り所にしているが、「脳は間違う」と言う事が最近多くの医学者から言われている。ストレス食いなど明らかに身体に悪いのに、脳はむしろガツガツ食べに行く。ナマコはそんな事はしないのじゃないだろうか。
私は以前から人間の本質は「腸」であると思っているが、図らずもナマコがそれを証明してくれたのである。脳や心臓ではなく「腸=消化器が人間である」とわかったのであるから、人間の「魂」も腸の形をしていると思ってほぼ間違いないのじゃないか。つまり、一番大事なのは「腸」である。従って「腸」のいう事をひたすら聞いていれば、万事上手くいくという事である。
虫が好かないとか腹の虫が収まらないとか、腹黒いとか腹を探られるとか、何事も「秘めたる」感情や思惑は昔から「腹」をもって表した。昔の人は良く知っていたな~と思う今日この頃。皆さん、腸が一番偉いのですよ、ゆめゆめおろそかにするなかれ、です。
(20)絵の話 : 絵画は象徴である
人は素晴らしい絵を見ると「まるで写真みたい」などと意味不明なことを口走る。バカ言っちゃいけないよ、写真みたいに人物や風景を描くなんてことは「出来て当たり前」なんであって、そんなことは画家である以上お茶の子さいさいに出来たのである。但し、誰もそんなことを画家に求めてはいなかったことも、また確かであった。そう、画家に求められたのは神話の1シーンや教訓的な寓話もしくは偉大な王侯の晴れやかな姿である。ティツァーノもレオナルドもラファエルロも、皆んな大工房で王宮や礼拝堂の壁画を描いた。風景画で室内を飾るという趣味は、ターナーやコンスタブルのイギリス田園風景が始まりとされるが、ルネッサンス以来の絵画の伝統には単なる風景を描いた絵などは含まれていない。だいたい、人の家に行って風景画を見せられてお客がはたして喜んだろうか?田園風景を見たければちょっと足を伸ばせば良いだけの事じゃないのか。そう、まだまだ人々は田園風景の真っ只中に暮らしている時代である、なにもわざわざ絵に描く必要はさらさらなかったのだ。じゃあ何を絵画に求めたのか?
もうお分かりだろうが、人々は絵画に「実際には存在しないもの」を求めたのである。皆さんもルネッサンス期の絵画展に行ったら、絵がどれだけ上手に描けているかを見るのではなく「何の題材をどういう意味で描いたか」に注目して見てはどうだろうか。19世紀末から20世紀初頭にかけての一大ムーブメントである印象派の絵画はどうかと言うと、やはり見たものを見た通りには描いていないことに気がつくはずである。当たり前だが、見たものを見た通りに描く画家なんて、写真家以下の素人でしかない。ユトリロの描くパリは、誰も思い描いた事のないパリだった。家々の配置は確かに実際の建物と合っているかも知れない、しかし全体をあの白い色調の中に沈める時、ユトリロにしか見えない世界が現れる。古代からズーッと現代まで、絵は何かを象徴しているのだ。写真も細部をとことんこだわっていくと、もはや写真ではなく絵画になってしまう。その何かを言葉でなく「絵画という視覚」で伝えるために、画家は絵を描き続けるのである。絵画を象徴として見ると、また新たな魅力に気がつく事と思われる。どうぞお試しを。
(21)地方の話 : 一極集中と過疎化
日本を一つの企業と考えると、効率はとても重要な要素である。効率を求めるとどうしても一極集中にならざるを得ない。例えば官公庁は全部、東京に集まるのが便利だった。そして地方は過疎化が進み、田舎といえば80過ぎた老人達が後継もなく働いている。日本は、狭い国土に一億二千万の人が住んでいる人口過密な国であるが、島根県あたりへ行くとまだまだ広大な平野が残っている。
江戸時代は300諸藩に分かれていたというから名君の治下大発展を遂げた藩もあれば愚かなトップに悪の蔓延る落ちこぼれ藩もあった筈。戦のない世の中でも貧富の差は大きかったと思うが、全般的にはつましいながら平和で生活は回っていたと言える。そこで現代でも連邦制を取り入れたらどうだろう。
日本を色々な個性を持った「地域」の集合と捉えると、豊穣で技術に裏付けられたモノづくりの百花繚乱たる世界が見えてくる。これこそ日本人の最も得意とする分野ではないか。連邦制、真剣に考えても良いかも知れない。日本が世界と戦うと「非効率な地方」は切り捨てられてしまう。しかし日本を連邦制国家とすれば、狭い国土の中で切磋琢磨しあう「中小企業のルツポ」が現出する。国としては世界のベストテンに程遠いが、暮らしやすく幸せがいっぱいの国と言われるのである。これは住んでいる者には素晴らしいことだと思う。
私は思う「世界で勝てなくても別に構わないじゃないか、幸せならば」とね。ま、世界で一番になることが幸せと思っている人が多いから、賛成する人は少ないかも。
これを書いている時にフジのプライムニュースでたまたま石破議員が同じような意見を展開していた。本質的に私の案は「世界を捨てて、日本という枠組みの中で」活性化を図るのに対し、彼の案は「それによって、今より活性化して世界と太刀打ちできる」という点で異なるが、それでもやらないよりマシである。石破さんは「喋り方がゆっくり過ぎて何か腹黒い印象を拭えない」のが気に入らないが、まぁ意見としては賛成する。せいぜい頑張って欲しいものだ。
(22)映画の話 : MGMのミュージカル
私の大好きなミュージカルについて語ることができて光栄である。この間、「蝶々夫人」を通しで聴く機会があった。久しぶりに用事があって御徒町へ行き、ついでに少しゴルフの安売りを冷やかしてまた同じ小田急線で帰ったが、行きと帰りの2時間ばかりをBOSEのノイズキャンセラー・ヘッドフォンでじっくり聞いたのだ。話は横道に逸れるが、電車で聴くにはこれが抜群である。BOSEは可聴域の音再生に優れていて愛用の逸品である。因みにプッチーニはミリアム・ガウチの愛蔵盤で聞いた。もう少し個性を楽しむのならミレッラ・フレーニのアリア集もお勧めである。おっと話が違う方に行きそうだが、ミュージカルはプッチーニなどのオペラの流れを発展させて当時のアメリカで花開いた一大エンタテイメントである。今回聞いていて「なるほどなぁ~」と思う程、音楽の系統がスムーズに繋がるのだ。
本題に戻ると、やはり何と言ってもフレッド・アステアである。まぁ変な顔で主役を務めるが、タップは華麗にして優美。お相手は美人のジンジャー・ロジャースでドン決まりである。私はDVDで5~6枚持っているが、ミュージカルの良いところは映画と違って何回見直しても飽きないことだと思う。ミュージカルは筋書きのみでできているわけではなく歌と踊りが主役であるから、見せ場は必ず歌のシーンかダンスのシーンかそれの混合のシーンと決まっている。それが楽しくて仕方がない。ブロードウェイでヒットすると同じ演目を何十回観たとかの話をよく聞く。映画は、もちろん新作が次々と作られるからということもあるが、同じ映画を見るなんてことは余程好きでマニアックな興味のある人は別として余り無いと思う。
ミュージカルのスターは何よりタップがうまくなければならない。「雨に唄えば」のジーン・ケリー、「イースター・パレード」のアン・ミラー、「踊るニューヨーク」のエレノア・パウエルなど、1930年代の大恐慌以後には名手達人を綺羅星のごとくに輩出した。その中でもフレッド・アステアは大のお気に入りである(というより本当はジンジャー・ロジャーズがお目当である)。彼らの踊りは、弾ける躍動感・しっとりとした優雅さ・ロマンチックな魅惑、そして堅固なテクニックに裏打ちされた華麗なフットワークとどれを取っても敵無しの独壇場だ。極め付けはジンジャー・ロジャーズの、可憐でゴージャスな美貌とスタイル抜群の身のこなし&美脚である。この不世出のゴールデン・デュオをDVDで好きな時に自由に見られるというのは何という幸せだろうか。
人によっては「美空ひばりのステージを観る幸せ」に感謝するだろうし、「1966年のイングランドのワールドカップ決勝」を最高の映像記録と称賛する人もいるだろう。だが私は、アステア・ロジャーズの「トップ・ハット」を一応挙げておこう。しかし、幾つかあるミュージカルは皆とても魅力的で優劣を付けるのは難しい。ジーン・ケリーのコミカルでダイナミックな演技も忘れ難いが、「私を野球に連れてって」はエスター・ウィリアムズがたまらない。レスリー・キャロンとの「巴里のアメリカ人」はシリアスな演技もこなせる幅広い役所を堪能できる名作。そして「雨に唄えば」、可笑しくて心に沁みる歌と踊りには脱帽である。「ジーグフェルト・フォーリーズ」は若き日のラナ・ターナーが燦然と輝く美貌で周囲を圧倒していて、シナトラがメロメロになるのも無理の無い美しさである。
そして最高の中の最高(つまりザ・ベスト・オブ・ザ・ベスト)のミュージカルといえば、アステアがジュディ・ガーランドとコンビを組んだ「イースター・パレード」と言いたい。山あり谷ありの紆余曲折を経て目出度く主演の二人が結ばれるお約束のハッピーエンドであるが、そんなに簡単に話は運ばないのである。歌もロマンチックで踊りは笑いあり涙ありの全部入りの娯楽感動巨編で何回見てもアービング・バーリンの名曲が美しい名作。今年のクリスマスはDVD見まくりで決まりだわ!
あっ、忘れてた。クリスマスといえばあの映画、ジャック・レモンとシャーリー・マクレーンが名監督ビリー・ワイルダーと組んだ「アパートの鍵貸します」、これを見ないでクリスマスは過ごせない。あっ、また忘れてた。ブルース・ウィリスの「ダイ・ハード」もクリスマスだっけ。
映画&ミュージカルの話は、とても一回では終わらない。この調子では残念ながら、やはり今年も1人でクリスマスを過ごすことになりそうです。皆さんは街に繰り出して、表参道のイルミネーションなどでクリスマスの雰囲気を大いに楽しんで下さい。
それでは来年またお会いしましょう。メリークリスマス&ハッピーニューイヤー!
ーーーーー◇◇ーーーーーー
次回は1月3日(日曜日)にアップします、乞うご期待!
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(18)税金の話 : いい加減にしたら、もう!
軽減税率をどうこう言ってるとのニュースがテレビで騒がしいが、そもそも税の原点が見えなくなっている不毛の議論ではないだろうか。税の基本は「国民に必要な費用を国民に負担してもらう」ことである。国全体の発展と国民の健康で文化的な生活を上手くバランスして、暮らしやすく安全な国家を作るための税であるべきだ。であるから国をどう作っていくかという青写真が、何よりも最初になくてはならない。本来政党と言う以上、この青写真の一致している者が集まって国の舵を切るのが筋である。その党の青写真に賛成している場合は信任投票するという方法で、間接的に国の方針を選ぶことが出来る・・・これが選挙である。
今は自民党・公明党と民主党・維新の党・その他の野党との区別がはっきりしないのが最大の問題だ。共産党だけは違っているようだが、名前だけで嫌われているのも解せない。若者は選挙離れが加速していると言うが、意識が足りないのではなく似た者同士で争う構図に嫌気がさしているのが原因なのである。青写真をはっきり示すことが政治意識を高める、そういう意味では軽減税率の論議はもっと違った形にならなければいけない。
私の考える青写真は、1. 国民全員が生活程度は下がるが同じように幸せに生きることを目指す社会 2. 自由競争の論理で強いものだけが生き残り弱者は貧困の中に喘ぐ社会、以上の二つである。「これじゃ選挙にならないじゃないか、1. が勝つに決まっている」と仰る方が大多数であろう。でも本当にそうだろうか、国民は今より生活程度が下がることは絶対嫌だと思ってないだろうか。自由競争社会でありながら弱者救済を求めるのは根本的なルール違反である。ラーメン屋だって売れている店はやる気満々で夢を語るが、売れない店は借金を残して夜逃げする、それが現実である。では、失敗したら競争のフィールドから出て行き最低限度の生活は保障する、という制度はどうだろう。それが今の政党一般の共通の折衷案なんだろうと思う。そこでは「どの程度を最低限度とするか」の議論で争っているに過ぎない。だが弱肉強食のグローバル社会では、勝つ者より負ける者が圧倒的に多い。今のままでもうちょっと良い暮らしをしたいと思っている人が大半なのに、すべて大企業・大資本の力の前に蹴散らされてどんどん貧しくなって行く。どうしたら頑張った分だけ幸せになれる理想的な自由競争の社会で弱者を救済しつつ経済が発展するモデルを見つけられるのか。
答えは社会の仕組みではなく、個人の価値観にあると私は思っている。そもそも軽減税率で税金を増やしてしかも、年収が規定の高さに達しない弱者を救済しようというのは無理な相談だ。商品には金持ちも貧乏もない。
私なりの軽減税率とは
1.青写真に則って、必要なものと必要でないものに分け税率を変える。貧乏だから税率を下げるのではなく、無駄だから高くするのだ。タバコ税などはその典型である。税率は25%とかの高率も視野に入れ8%とか10%とかにこだわらない。
2.年収の少ない家庭や老齢介護・児童補助など苦しい生活の中で改善の見込みが少ない家庭は、事情に応じて「最低限度の生きる希望」をなくさないように、税率などで対処するのではなく社会保障でカバーする。
以上だ。
だいたち2%の差など意味がない、早晩25%位まで安倍政権は考えているであろう。どれが必要でどれが必要でないかの区別こそ、最初に言ったように青写真の議論が不可欠なのだ。テレビで見る元気なお年寄りは、皆んな贅沢なんか一つもしていないに関わらず幸せ一杯に生きている。80歳でも働くこと、働いている事に幸せを感じること、これが真実だと思う。私は野党の中に明確な青写真を掲げて、新しい日本を作っていこうという人達が出てくることを期待している。その時軽減税率の論議は、もう一度最初からやり直せば良いのではと思っている。
たなみに不動産や家賃にかける費用を撤廃・無償化し高級車やクルーザーや自家用機を買わなければ、案外と国民全員の年収を上げなくてもソコソコ幸せに暮らしていけると思うけどね。
(19)腸の話 : 腸が全ての始まり
ナマコという生き物は心臓も脳もなくて、身体全部が腸で出来てるそうである。生物の進化の道筋から言うと、エネルギー産生の要求が高くなるのに応じてより高度な免疫機能の仕組みと活発な活動力、そして長期間の胎生及び幼児保育となる。いわゆる哺乳類の誕生である。ナマコが進化の過程で置き去りにされたと言うつもりはない。ナマコはナマコなりに最高度に洗練された生物である。その証拠に、少なくとも何千何万年という間生き延びているし今後も生き続けていくであろう事は確実である。生物は可能な限りの多様性を持って進化する。ナマコも人間も同等の価値を持って進化したので、同じ腸という臓器を持つ仲間でもある。
ここで考えていただきたいのは、腸だけの生物が我々の身近に普通に存在するのに、心臓だけとか脳だけとかという生物は思いつかない事である。人は良く「人間は考える葦である」とか「頭で考えず、心で判断せよ」とか言うように、脳または心臓を「人間」の精神の拠り所にしているが、「脳は間違う」と言う事が最近多くの医学者から言われている。ストレス食いなど明らかに身体に悪いのに、脳はむしろガツガツ食べに行く。ナマコはそんな事はしないのじゃないだろうか。
私は以前から人間の本質は「腸」であると思っているが、図らずもナマコがそれを証明してくれたのである。脳や心臓ではなく「腸=消化器が人間である」とわかったのであるから、人間の「魂」も腸の形をしていると思ってほぼ間違いないのじゃないか。つまり、一番大事なのは「腸」である。従って「腸」のいう事をひたすら聞いていれば、万事上手くいくという事である。
虫が好かないとか腹の虫が収まらないとか、腹黒いとか腹を探られるとか、何事も「秘めたる」感情や思惑は昔から「腹」をもって表した。昔の人は良く知っていたな~と思う今日この頃。皆さん、腸が一番偉いのですよ、ゆめゆめおろそかにするなかれ、です。
(20)絵の話 : 絵画は象徴である
人は素晴らしい絵を見ると「まるで写真みたい」などと意味不明なことを口走る。バカ言っちゃいけないよ、写真みたいに人物や風景を描くなんてことは「出来て当たり前」なんであって、そんなことは画家である以上お茶の子さいさいに出来たのである。但し、誰もそんなことを画家に求めてはいなかったことも、また確かであった。そう、画家に求められたのは神話の1シーンや教訓的な寓話もしくは偉大な王侯の晴れやかな姿である。ティツァーノもレオナルドもラファエルロも、皆んな大工房で王宮や礼拝堂の壁画を描いた。風景画で室内を飾るという趣味は、ターナーやコンスタブルのイギリス田園風景が始まりとされるが、ルネッサンス以来の絵画の伝統には単なる風景を描いた絵などは含まれていない。だいたい、人の家に行って風景画を見せられてお客がはたして喜んだろうか?田園風景を見たければちょっと足を伸ばせば良いだけの事じゃないのか。そう、まだまだ人々は田園風景の真っ只中に暮らしている時代である、なにもわざわざ絵に描く必要はさらさらなかったのだ。じゃあ何を絵画に求めたのか?
もうお分かりだろうが、人々は絵画に「実際には存在しないもの」を求めたのである。皆さんもルネッサンス期の絵画展に行ったら、絵がどれだけ上手に描けているかを見るのではなく「何の題材をどういう意味で描いたか」に注目して見てはどうだろうか。19世紀末から20世紀初頭にかけての一大ムーブメントである印象派の絵画はどうかと言うと、やはり見たものを見た通りには描いていないことに気がつくはずである。当たり前だが、見たものを見た通りに描く画家なんて、写真家以下の素人でしかない。ユトリロの描くパリは、誰も思い描いた事のないパリだった。家々の配置は確かに実際の建物と合っているかも知れない、しかし全体をあの白い色調の中に沈める時、ユトリロにしか見えない世界が現れる。古代からズーッと現代まで、絵は何かを象徴しているのだ。写真も細部をとことんこだわっていくと、もはや写真ではなく絵画になってしまう。その何かを言葉でなく「絵画という視覚」で伝えるために、画家は絵を描き続けるのである。絵画を象徴として見ると、また新たな魅力に気がつく事と思われる。どうぞお試しを。
(21)地方の話 : 一極集中と過疎化
日本を一つの企業と考えると、効率はとても重要な要素である。効率を求めるとどうしても一極集中にならざるを得ない。例えば官公庁は全部、東京に集まるのが便利だった。そして地方は過疎化が進み、田舎といえば80過ぎた老人達が後継もなく働いている。日本は、狭い国土に一億二千万の人が住んでいる人口過密な国であるが、島根県あたりへ行くとまだまだ広大な平野が残っている。
江戸時代は300諸藩に分かれていたというから名君の治下大発展を遂げた藩もあれば愚かなトップに悪の蔓延る落ちこぼれ藩もあった筈。戦のない世の中でも貧富の差は大きかったと思うが、全般的にはつましいながら平和で生活は回っていたと言える。そこで現代でも連邦制を取り入れたらどうだろう。
日本を色々な個性を持った「地域」の集合と捉えると、豊穣で技術に裏付けられたモノづくりの百花繚乱たる世界が見えてくる。これこそ日本人の最も得意とする分野ではないか。連邦制、真剣に考えても良いかも知れない。日本が世界と戦うと「非効率な地方」は切り捨てられてしまう。しかし日本を連邦制国家とすれば、狭い国土の中で切磋琢磨しあう「中小企業のルツポ」が現出する。国としては世界のベストテンに程遠いが、暮らしやすく幸せがいっぱいの国と言われるのである。これは住んでいる者には素晴らしいことだと思う。
私は思う「世界で勝てなくても別に構わないじゃないか、幸せならば」とね。ま、世界で一番になることが幸せと思っている人が多いから、賛成する人は少ないかも。
これを書いている時にフジのプライムニュースでたまたま石破議員が同じような意見を展開していた。本質的に私の案は「世界を捨てて、日本という枠組みの中で」活性化を図るのに対し、彼の案は「それによって、今より活性化して世界と太刀打ちできる」という点で異なるが、それでもやらないよりマシである。石破さんは「喋り方がゆっくり過ぎて何か腹黒い印象を拭えない」のが気に入らないが、まぁ意見としては賛成する。せいぜい頑張って欲しいものだ。
(22)映画の話 : MGMのミュージカル
私の大好きなミュージカルについて語ることができて光栄である。この間、「蝶々夫人」を通しで聴く機会があった。久しぶりに用事があって御徒町へ行き、ついでに少しゴルフの安売りを冷やかしてまた同じ小田急線で帰ったが、行きと帰りの2時間ばかりをBOSEのノイズキャンセラー・ヘッドフォンでじっくり聞いたのだ。話は横道に逸れるが、電車で聴くにはこれが抜群である。BOSEは可聴域の音再生に優れていて愛用の逸品である。因みにプッチーニはミリアム・ガウチの愛蔵盤で聞いた。もう少し個性を楽しむのならミレッラ・フレーニのアリア集もお勧めである。おっと話が違う方に行きそうだが、ミュージカルはプッチーニなどのオペラの流れを発展させて当時のアメリカで花開いた一大エンタテイメントである。今回聞いていて「なるほどなぁ~」と思う程、音楽の系統がスムーズに繋がるのだ。
本題に戻ると、やはり何と言ってもフレッド・アステアである。まぁ変な顔で主役を務めるが、タップは華麗にして優美。お相手は美人のジンジャー・ロジャースでドン決まりである。私はDVDで5~6枚持っているが、ミュージカルの良いところは映画と違って何回見直しても飽きないことだと思う。ミュージカルは筋書きのみでできているわけではなく歌と踊りが主役であるから、見せ場は必ず歌のシーンかダンスのシーンかそれの混合のシーンと決まっている。それが楽しくて仕方がない。ブロードウェイでヒットすると同じ演目を何十回観たとかの話をよく聞く。映画は、もちろん新作が次々と作られるからということもあるが、同じ映画を見るなんてことは余程好きでマニアックな興味のある人は別として余り無いと思う。
ミュージカルのスターは何よりタップがうまくなければならない。「雨に唄えば」のジーン・ケリー、「イースター・パレード」のアン・ミラー、「踊るニューヨーク」のエレノア・パウエルなど、1930年代の大恐慌以後には名手達人を綺羅星のごとくに輩出した。その中でもフレッド・アステアは大のお気に入りである(というより本当はジンジャー・ロジャーズがお目当である)。彼らの踊りは、弾ける躍動感・しっとりとした優雅さ・ロマンチックな魅惑、そして堅固なテクニックに裏打ちされた華麗なフットワークとどれを取っても敵無しの独壇場だ。極め付けはジンジャー・ロジャーズの、可憐でゴージャスな美貌とスタイル抜群の身のこなし&美脚である。この不世出のゴールデン・デュオをDVDで好きな時に自由に見られるというのは何という幸せだろうか。
人によっては「美空ひばりのステージを観る幸せ」に感謝するだろうし、「1966年のイングランドのワールドカップ決勝」を最高の映像記録と称賛する人もいるだろう。だが私は、アステア・ロジャーズの「トップ・ハット」を一応挙げておこう。しかし、幾つかあるミュージカルは皆とても魅力的で優劣を付けるのは難しい。ジーン・ケリーのコミカルでダイナミックな演技も忘れ難いが、「私を野球に連れてって」はエスター・ウィリアムズがたまらない。レスリー・キャロンとの「巴里のアメリカ人」はシリアスな演技もこなせる幅広い役所を堪能できる名作。そして「雨に唄えば」、可笑しくて心に沁みる歌と踊りには脱帽である。「ジーグフェルト・フォーリーズ」は若き日のラナ・ターナーが燦然と輝く美貌で周囲を圧倒していて、シナトラがメロメロになるのも無理の無い美しさである。
そして最高の中の最高(つまりザ・ベスト・オブ・ザ・ベスト)のミュージカルといえば、アステアがジュディ・ガーランドとコンビを組んだ「イースター・パレード」と言いたい。山あり谷ありの紆余曲折を経て目出度く主演の二人が結ばれるお約束のハッピーエンドであるが、そんなに簡単に話は運ばないのである。歌もロマンチックで踊りは笑いあり涙ありの全部入りの娯楽感動巨編で何回見てもアービング・バーリンの名曲が美しい名作。今年のクリスマスはDVD見まくりで決まりだわ!
あっ、忘れてた。クリスマスといえばあの映画、ジャック・レモンとシャーリー・マクレーンが名監督ビリー・ワイルダーと組んだ「アパートの鍵貸します」、これを見ないでクリスマスは過ごせない。あっ、また忘れてた。ブルース・ウィリスの「ダイ・ハード」もクリスマスだっけ。
映画&ミュージカルの話は、とても一回では終わらない。この調子では残念ながら、やはり今年も1人でクリスマスを過ごすことになりそうです。皆さんは街に繰り出して、表参道のイルミネーションなどでクリスマスの雰囲気を大いに楽しんで下さい。
それでは来年またお会いしましょう。メリークリスマス&ハッピーニューイヤー!
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