アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
著作物を勉強、講義、討議する会です。

アルビン・トフラーの青年~壮年時代プロセスについて

2011年05月14日 23時52分02秒 | 第三の波
過去の資料の中で、トフラーは何度も日本を訪れており、特にNHK関係の資料ならびに
インタビューが多数あります。
今回は、これらの記事の中で、1982年の取材ノートを参考にしながら、トフラーの
思想(未来学)形成を学びたいと思います。

1.アルビン・トフラーの青年(1950)~壮年(1981)時代プロセス  NHK資料より
取材ノート 鈴木健次
 「第三の波」の撮影は、昨年(1981年)9月、新潟湾で荷役中の帆走タンカー「新愛徳丸」にトフラ-夫妻を迎えて始まった。コンピューターの最新技術を利用して、再生可能な風力エネルギーを最大限に活用するこの船を、第三の波の象徴として選んだのである。もっともタンカーといっても小さな船で、船長が招じ入れてくれたサロンなるものも6畳くらいしかない。ここに15人のスタッフが機材と共に乗り込んだのだから、相当な混雑である。おまけに陽はカンカン照り、重油をおろすにつれて船体は傾き、発電用のエンジンは轟き音をたてる。NHKのスタッフのなかには、気分が悪くなるものも出る始末だった。
   ところが、トフラー夫妻は平然たるもの、「アルビンと私が働いていた工場なんて、とてもこんなものではなかったのよ」というハイジ夫人の言葉が印象的だった。
   1950年、22歳の痩身の青年だったアルビン・トフラーは、インクの香りも新しいニューヨーク大学の卒業証書を手に、ガールフレンドと連れ立ってアメリカ中西部に移った。自動車産業などで有名なこの地帯は、世界の心臓といわれた50年代のアメリカのなかでも、その鼓動の源泉といってよかった。彼はそこで就職し、同窓だったガールフレンド、ハイジと結婚した。共稼ぎだった。2人ともエリート社員だったわけではなく、溶接工、組立工などとして粉塵を吸い、チェーンのかみ合う音のなかで、身も心もきしみ出すような単純作業を繰り返していたのである。
   今回の取材で日産自動車の工場を訪れたトフラーは、溶接ロボットがずらりと並んで稼動する光景を見てこう言った。「このロボットのやっているのとまったく同じことを、僕がやっていたんだ。アッセンブリーラインの流れに必死に追いつきながらね」。彼の脚には、アセチレンの火花でやけどした当時の傷跡が残っている。年老いた女工が機械に指4本もぎ取られ、血まみれになっているのを助け出したこともあった。「畜生!これじゃあもう働けやしない」。その時の老女工の叫びが、今でも彼の耳にこびりついているという。
   その後トフラーは、組合新聞の記者、「フォーチュン」誌の編集者などを経て、ミリオンセラー・ライターに転身する。しかし、こうした経歴を持つ彼が、現在工場で進行中の変化に、きわめて深い関心を払うのは当然であろう。世界各国での撮影を終わったトフラーに、いちばん印象に残った取材は?ときくと、直ちにシリコンバレーという答えが返ってきた。工場の設備や製品が特に先駆的なのではない。だがそこには、新しい労働文化ともいうべきものが生まれていると言う。
   トフラーが訪れたコンピューター会社、アップルの社長は30歳そこそこで、Tシャツにジーンズ姿、はだしで彼を出迎えた。もちろん社員も思い思いの服装で、完全なフレックス・タイムである。日本の企業の多くが画一的な採用試験を実施し、採用者に制服を着用させ、社歌を斉唱させて従業員の質や考え方を同質化しようとしているのに比べると、きわめて大胆に多様性を認めようとしている。
   6,000人の博士が働いているというシリコンバレーでは、かつての労働集約型の企業が姿を消し、頭脳集約型に変わろうとしているのだ。それとともに一定のタイプ、一定の水準の人間ばかり採用せず、さまざまな能力を持つさまざまなタイプの人間が自由に働き、自由に意見を交換するなかから、時代に対応する創造的アイデアが生まれるという考えが一般化してきたのである。
 今回の取材を通じて、トフラーは日本がアメリカと共に、第三の波の先端を行く国であることを再認識したと言っている。大企業を中心とする終身雇用制が、ロボットに代表される新しいテクノロジーの導入に際して、失業という直接のインパクトから日本人を守っており、それが新しい産業に対する抵抗を少なくしている点にも注目していた。しかし、彼は「超大国日本」を無条件に信じているわけではない。それは神話にすぎず、欧米の政界や財界の指導者が、自分たちの重大な失策を糊塗するために、その神話を意図的に利用しているのだと彼は言う。第三の波の社会に移行するに当たって、「株式会社日本」の均質性と極端な中央集権は、むしろマイナスに作用しかねないと警告している。
   トフラーは特に、日本の家族制度が新しい産業のあり方に対応する変化をとげないと、第三の波への移行を阻害することになるだろう、と語っていた。
   私はニューヨークのトフラーの自宅で、生まれてはじめてワードプロセッサーを見た。日本に、オフィスオートメーションのブームが押し寄せる直前である。データーバンクと結びついたこの機械を利用し、しかもハイジ夫人の「同僚として、知的伴侶として、友人として、恋人として、そして妻として、通常考えられる域をはるかに超えた協力を得て」、彼は『第三の波』を書いた。かつて第二の波を象徴する工場労働者だったトフラー夫妻は、見事に第三の波のエレクトロリック住宅(コテッジ)の生活に移行したと言ってよいかも知れない。
   それはともかく、原作者といっしょに台本から繰り上げていく今回のような共同制作は、NHKでも初めての試みであった。日米の間では、番組の好みも制作体制もまるで違う。私たちの間には、毎日のように電話やテレックスが行き交い、ニューヨークで、東京で、ロスで、直接談判も回を重ねた。『フューチャー・ショック』の著者も、あらためてカルチャー・ショックを実感したようだ。  彼の発言を、内緒でちょっと紹介しよう。
   「地球の反対側では、一つの意味を持たせたテレックスが、別の意味を持つこともあるらしいね。僕は、情報システムの発達を前提にしてエレクトロニック住宅なんて言っているが、こうして君と顔と顔をつき合わせて話しあって、初めて問題を解決できたわけだ」。
   エレクトロニック住宅(コテッジ)、生産=消費者(プロシューマー)など耳新しい言葉を駆使しながら、第三の波が歴史上初めて、多様な価値観を許容する人間性にあふれた、健全な文明をもたらす可能性があると説くトフラーの主張には、反論も反証もあるかと思う。日本で最後の撮影を終えた彼は、こう言い残して帰国した。
 「僕は社会批評家だから、面白いテレビ番組を提供するだけでは満足できない。望ましい社会変化を推進したいと思っているのだ。番組を見た人々が番組に呼応して、革命的な変革を必要としている企業や学校や家庭のなかで、未来に関する議論と行動を起こしてくれることこそ、僕のもっとも願うところだ」。 1982年4月NHK「第三の波」プロジェクト  チーフプロデューサー
 *出典:写真でみる第三の波 21世紀のパスポート P.154~P.156 日本放送出版協会