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誤解せられざらんことは不可能である。この世はもとより誤解の世である。ゆえに、いかなる真理、いかなる人たりといえども誤解せらるるが当然である。主イエス・キリストが誤解せられた。パウロが誤解せられた。ルーテルが誤解せられた。しかして今なお誤解せられつつある。
彼等は世人によってのみならず、彼等の弟子と称する者らによって誤解せられた。また今なお誤解せられつつある。われら、よし完全の人たるを得、完全の真理を宣(の)べ伝うるを得るとも、世の誤解をまぬかれないのである。
されば誤解を恐れずして進むべきである。時を得るも時を得ざるも、真理と信ずる事を大胆に唱えて進むべきである。社会の誤解、教会の誤解、信者の誤解、不信者の誤解・・・・彼等は人である。ゆえに正当に人を解することが出来ない。「われらをさばく者は主なり」(コリ前4:4)である。
世に愚人多しといえども、世の誤解を恐るる者のごとき愚人はいない。しかもかかる愚人ははなはだ多いのである。われ自身がややもすればかかる愚人となるのである。警むべきである。 (内村鑑三)
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