河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

俄35 / 聖なる俄

2024年01月21日 | 祭と河内にわか

「俄」は、地域共同体のメンバーが他のメンバーを相手に、地域共同体の皆に演じる祝福芸である。
俄の面白さは〈素人性〉と〈方言性〉という〈土着性〉にある。

:おい、八兵衛!
:なんじゃい?
:われとこの嫁はんのお六さん、このごろ太ったんとちゃうか!
:ええ? さよか?
:ええもんばっかし食わしてたらあかんで!
:ええもんみたい食わしとるかい!
:せやけど、腹がえらい膨れてきよったと、ここらのもんが言うとるで!
:ちゃうがな、子ぉーでけたんや。
:ええ、どこでこーろげたんや?
:転ろげたんやなしに、子が出来よったんやがな。
:ええ、八とお六がエエことしてお三(産)かいな!
:ややこしものの言いよさらすな!
:ややこしいけど、ややこ欲しいやろ!
:またニワカ(駄洒落)かい!
:ええもん食わしたり。
:われ、先っきええもん食わすな言うたやないかい。
:それとこれとは話は別っちゃ。これ食わしたり。
:なんやそれ、ウメとアンズの実やないかい?
:これで安産まちがい無っしゃ!
:ウメとアンズで安産まちい無しとは? ハテ?
:アンズよりウメが安いや!
(案ずるより産むがやすし)

俄の本質には、その場限りの〈一回性〉、何が起こるかわからない〈意外性〉、それを切り抜ける〈即興性〉、笑いで吹き飛ばす〈滑稽性〉、良くも悪くも良しとする〈遊戯性〉、最後にすべてを納得させる〈饗宴性〉、より良かれを神仏に祈る〈神事性〉がある。
そんな俄を・・・、神社合祀によって臣民に国家の精神を高揚させる場となり、しかも、楠公遺跡の神聖な神社聖地となった神社で奉納するとなれば、どのような俄をすればよいのか。
俄の〈本質〉の多くが、戦争に向かう中で、少しずつそぎ取られ、封じ込められていく。
そうしなければ村の住民に恥をかかせることになる。
そうならないためには、すでに世間で認知されているものを演じるのが手っ取り早い。

歌舞伎「勢州阿漕浦(せいしゅうあこぎがうら)」の俄

 庄屋の彦作が、病気の母親のために禁漁を犯した平治の住み家に来る
彦作 いるか? 
平治 (戸を開けて)これは庄屋様、朝の早くから、いかなるご用か?
彦作 平治どんに、ちょっとたずねたい。昨日の夕べに、阿漕浦に行てはおらぬか?
平治 何を申されまするる。阿漕浦は帝の祖先を御まつりする大神宮の漁場にて、我々臣民は、近寄ることすらできませぬわい。
彦作 ふーん、貴様は知るまいが、その大切な殺生禁断の場所へ、夜な夜な網を入れる者が有りて、夕べとらえようとした時、つい取り逃がし、そのとき笠が有ったげな。その笠に「平」の字と書いてあった。ひょっと此方(こなた)ではあるまいか。此方が変な顔しても、これに言い抜けはあるまい。
女房 うちの人に限って網を打つなどする人やない。わたしらを奈落の底へ落とす気かえ。
平治 あばらやなれども平治が住み家。畏れもおおき大神宮様の漁場に網打ったとは聞きづてならん。踏み込んだが最後、そのままにはおかぬ。女房、腰の物(刀)持って来い。
女房 はい。 ※平治に暦を渡す。
平治 この暦で腰の物とは。はて?。
彦作 はて?
平治 はてわかった! この中に大小があるわい。
 (大の月と小の月がある)

日々の生活の中で演じられた素朴な河内俄は、いかにも高尚な地歌舞伎、地芝居になっていく。

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俄34 / 大楠公

2024年01月20日 | 祭と河内にわか

楠木正成が、多くの人々に親しまれるようになったのは、江戸時代初期、南北朝の争乱を描いた『太平記』の注釈書『太平記評判秘伝理尽紗』が成立してからだ。
大名・武士・儒学者にとって正成は、理想の政治家・指導者、兵学者だった。
やがて、この『太平記評判秘伝理尽砂』を台本にした「太平記読み」が民衆にも広まり、17世紀後半には講談に発展する。
民衆にとっての正成は、天皇に尽くす忠臣ではなく、権力に対して反逆し、強きをくじき弱気を助ける正義の味方だった。
反体制のシンボルとして、由比正雪や大石内蔵助は楠木正成の生まれ変わりとして歌舞伎や浄瑠璃の題材にもなった。

この楠公像が一転したのは、『大日本史』を編集した徳川光圀が、1692年、湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立してからだ。
その後、水戸藩士の会沢正志斎が『新論』を著し、万世一系の国の形(国体)を説いて、楠木正成を神として祀ることを主張した。
殊に吉田松陰が信奉したことにより、幕末の志士や明治の政治家の間にも、楠公崇拝が広がってゆく。
明治になり、その崇拝を目に見えるものにするために楠公遺跡が整備される。
明治5年(1872) 湊川神社創建
明治7年(1874) 千早城址の社殿を修復
明治11年(1878) 楠公誕生地碑が建立
明治12年(1879) 千早城址の社殿を千早神社と改称
明治13年(1880) 観心寺の楠公首塚の修理

近鉄富田林駅前に大きな石の碑がある。
「楠氏遺跡里程標」と大書され「明治三十四年十一月建 楠氏紀勝會」とある。
明治31年に河陽鉄道の古市-富田林間が開業し、富田林駅が楠公遺蹟めぐりの出発地になった。
楠公遺蹟を持つ地元の人々の間にも関心が高まり、人々を遺蹟に向かわせる動きが始まった。
明治31年(1898) 河陽鉄道が古市-富田林を開業
明治33年(1900) 皇居外苑に大楠公馬上像完成
明治34年(1901) 富田林駅に「楠子遺跡里程標」建立
明治35年(1902) 河南鉄道長野線開業
明治36年(1903) 『楠氏遺蹟志』発刊、楠公遺蹟めぐりを奨励
明治37年(1904) 富田林中学(現富田林高校)で5/25に楠公祭、日露戦争
明治38年(1905) 小学校で楠公追慕式が始まる

『楠氏遺蹟志』の序は次のようにいう。
 忠に励み、孝を重んずるは、国民の大道なり。国危うして忠臣顕(あら)われ、家貧しうして孝子を出だす。
強きをくじき弱気を助ける庶民のヒーローだった大楠公楠正成は、忠臣として神格化され、忠孝の模範として国民に崇められるようになっていく。
千早赤坂の建水分神社(たけみくまりじんじゃ=上水分社)は、楠正成の産土神(うぶすなかみ)である。
喜志の美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ=下水分社)もまた、楠正成と浅からぬ関係がある。
神社合祀によって、神社は宗教施設ではなく、臣民に国家の精神を高揚させる施設に変貌した。
そのうえ、楠正成に関わりのある神社仏閣は楠公遺跡の聖地として変貌した。
そして、秋祭りの宮入りで奉納するようになった河内俄もまた変貌していく。

※豊原國周 筆『地名十二ヶ月之内 九月 楠正成 市川右團次』明治15 [1882]. 国立国会図書館デジタルコレクション 

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俄33 / 神社合祀

2024年01月19日 | 祭と河内にわか

明治時代の下水分社(美具久留御魂神社)氏子町関連の年表である。

明治元年(1868)  神仏分離令 廃仏毀釈
明治5年(1872)  富田林尋常小学校(興正寺別院)
明治6年(1873)  新堂尋常小学校・富田林に芝居小屋
明治8年(1875)  喜志尋常小学校開校(明尊寺」
明治22年(1889) 河南橋架設 美原太子線開通
明治22年 町村制の施行=富田林村・新堂村 ・喜志村(単独村制)
明治27年(1894) 日清戦争
明治31年(1898) 河陽鉄道開通 道明寺-富田林、 国道170号線・楠公道路開通・高野鉄道 堺東-長野間開通
明治35年(1902) 河南鉄道 長野線開業
明治37年(1904) 日露戦争
明治39年(1906) 神社合祀 下水分は40年合祀

 

鉄道と道路の開通は富田林を大きく変えていく。駅前が繁華街になり、新しい道路にそって家が建っていった。
上の地図は『河南鉄道路線案内』(明治三十五年)のもので、下水分社の案内文に「祭礼は例年七月十五日・十月十五日神輿の渡御ありて雑沓する」と書かれている。
「里程案内」には「壺井八幡宮 十五丁 金十二銭」とある。まだまだ人力車の時代だった。
明治39年(1906)神社合祀(じんじゃごうし)が勅令によって進められた。
各集落ごとにある神社を合祀して、一町村一神社を標準とせよというものだ。
このとき下水分社では平村の貴平神社、尺度村の利雁神社が合祀されている。全国でいえば十九万社有った神社が十二万社に統合されている。
神社と氏子を一つにして地方行政を国家神道で一括化しようとした政策だった。
おそらく、この神社合祀以降、氏子意識を高めるために、祭礼で〈にわか〉が奉納されるようになったのではないかというのが多くの古老の意見である。
もし、明治40年から、秋祭りの宮入での奉納にわかが始まったのだとしたら、河内にわかが大きく変わったのはこの時にちがいない。

「歴史36/祭じゃ俄じゃ」で戦後初めて秋祭りで俄を演じた「ミッツォはん」が、「神仏分離」「神社合祀」という言葉をよく口にした。
昭和生まれのミッツォはんが、なぜ神社合祀という言葉を口にするのか不思議だったが、詳しくは聞かなかった。
しかし、ようやく今になって、明治40年の神社合祀から、秋祭りの宮入での俄奉納が始まったことを、徳ちゃんのオッチャンあたりから聞いていたのだと思う。
明治政府は神仏分離で、天皇家の信仰は神道であることを明らかにし、神社を国家の管理下においた。
そして、神社合祀で、神社の氏子区域と行政区画を一致させることで、町村唯一の神社の威厳を高め、地域活動の中心にしたのである。
神社は宗教施設ではなくなり、国家精神を高揚させる施設に変貌していく。
もう一つ、明治時代になって大きく変わったものがある。

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俄32 / 瞼の母

2024年01月18日 | 祭と河内にわか

「歴史36戦後/ 祭りじゃ俄じゃ」で使われた俄です。
[番場の忠太郎・小浜(母)・お登世(妹)]


   (下手から忠太郎が登場)
忠太郎 母の面影瞼の裏に、描きつづけて旅から旅へ。昨日は東と訊いたけど、今日は西だと風便り。縞の合羽が涙に濡れて、母は俺らをどうして捨てた。恨む心と恋しい想い。宿無し鴉の見る夢は、覚めて悲しい幕切れさ。生れ故郷も遥かに遠い、母恋い番場のこの俺さ。もしやもしやと逢う度毎に、尋ね尋ねてやって来た。此処はお江戸の柳橋、人に知られた水熊よ。ご免めんなすって、おかみさん。
 (上手から小浜が登場)
小浜 中へ入って、用があるんならさっさと言っておくれ。わたしゃ忙しいんだから。
忠太郎 ご免こうむります。(敷居を越えて下手に坐り、しばらく何も言えずにいる)
小浜 何とか云わないのかい。用があって来たんだろう。
忠太郎 おかみさん、当って砕けろの心持で、失礼な事をお尋ね申しますでござんすが、おかみさん、もしやあっしぐらいの男の子を持った覚えはござんせんか?
小浜 あっ! 
忠太郎 覚えがあるんだ、顔に出たそのおどろきが。ところは江州坂田の郡(こおり)醒ケ井村から南ヘー里、磨針峠の山の宿場で番場という処がござんす。おきなか屋忠兵ヱという、六代続いた旅館へ嫁に行き、男の子をひとり生みなすった。そしてその子が五つの時に家を出た。罪は父親にあったと訊きました。おっ母さん、あっしが伜の忠太郎でござんす。
小浜 私には、おまえのような子はいないよ。確かに番場で忠太郎という子を生んだが、五歳のときに死んじまったよ。どこのどなたか知らないけれど、やけに芝居が上手いじゃないか。ちょっと小金がたまったら、やれ親戚だ倅だとうるさいことだよ。たとえお前が忠太郎だとしても、そんな姿で訪ねて来たんじゃ、誰が喜んで迎えるもんかい。母を探しにきたのなら、なんで気質の姿で訪ねてこないんだよ。
忠太郎 それじゃあおかみさん、どうあっても倅じゃないと・・・。
小浜 うるさいね!
忠太郎 よしやがれ! おい小浜、やい小浜! なんてえ面しやがるんだ! 赤の他人なら小浜で充分だ! おい、おかみさん、なんとか言いなさったねえ。親子の名乗りがしたかったら堅気の姿で訪ねて来いと・・・笑わしちゃあいけねえぜ、親に放れた小僧ッ子が、グレて堕ちたは誰の罪。何んの今更どうなろう。よしや堅気になったとて、喜ぶ人はござんせん。それにもう一つ、おいらのことをゆすりと言いなすったが、春秋数へて二十年。想い焦がれて逢いに来た。たった一人の母だもの。どんなお方であろうかと、寝ても覚めてもその事ばかり、無事でいたならよいけれど暮らしに困っている時は、助けにやならぬと百両を、肌身離さず抱いていた。もしやもしやと逢う度ごとに、尋ね尋ねて目が昏れりや、夕餉(ゆうげ)の煙りが切なくて、窓に灯りがともる頃、人の軒場に佇ずんで、忍び泣きしたこともある。夢に出て来た瞼の母は、こんな冷たい女(ひと)じゃない。逢わぬ昔が懐しいやい! 御免なすって!
 (忠太郎は下手に入る)

 (かわりに下手からお登世が登場)
お登世 おっかさん、
小浜 お帰り、早かったねえ。
お登世  おっかさん、今、出て行ったのは、いつもおっかさんが話していた、番場に残した忠太郎兄さんじゃないの? 
小浜 お前、見たのかい。
お登世 ううーん。話は残らず隣の部屋で聞きました。それでもあなたは母ですか。子を持つ親というものは、そんな邪険なものでない。母に捨てられ父には死なれ、広い世間にただ一人、そんな兄さんを一人で返す親はない。たった一人の兄さんとともに涙を流したい。
小浜 お前の心に対してもおッかさんは恥かしい。思いがけない死んだとばかり思っていた忠太郎が名乗って来たので、始めの内は騙かたりだと思って用心し、中頃は家の身代に眼をつけて来たと疑いが起り、終いには――終いにはお前の行く末に邪魔になると思い込んで、突ッぱねて帰してやったんだが――お登世や、あたしゃお前の親だけれど、忠太郎にも親なんだ、二人ともおんなじに可愛い筈なのに何故、何故お前ばかりが可愛いのだろう。
お登世 おんなじおッかさんの子じゃありませんか。
小浜 おっかさんが悪かった。許しておくれ。お前の事や水熊のことを考えて邪険に帰したおっかさんが悪かった。お登世、おまえも一緒にきておくれ。
 (二人が外に出ると猛吹雪)
小浜 忠太郎~
お登勢 兄さ~ん
 (二人が下手に入る)

 (上手から忠太郎が出てくる)
忠太郎  あの声は、おっかさんと妹だ! 何を言ってやんでえ! 何が今更忠太郎だ。ままよ浮世を三度笠、六十余州の空の下、股旅草軽(わらじ)を穿くだけよ。
 (奥から 二人が呼ぶ声)
忠太郎 誰が、誰が逢ってやるもんか。それでいい、逢いたくなったら、俺ア瞼をつぶるんだ。
 (二人が呼ぶ声が近づいてくる)
忠太郎 あゝまだおっ母さんが、あんなに俺を呼んでいる、妹もあんなに一生懸命呼んでいる。
 (忠太郎はいてもたってもおられなくなり)
忠太郎 おっ母さん! 忠太郎は此処だよ、おっ母さん!
 (上手から二人が出てくる)
小浜 忠太郎、忠太郎!
お登世 兄さん!
 (三人がしっかりと抱き合う)
お登勢 兄さんがお腹をすかしているだろうと、慌てて袂(たもと)に入れた、これで一つになれたのかしら。
 (袂から丼ぶり鉢を取り出す)
忠太郎 何や! 空の丼ぶり鉢やないかい!
小浜 これで一つになれたとわ?
お登世 はて!
忠太郎 はて?
お登世 はーて、わかった!
三人 苦労な七坂乗り越えて、末広がりの八(鉢)の中、やっと一つの親子丼になれたわい!

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俄31――もどり駕籠

2023年08月28日 | 祭と河内にわか

元々は歌舞伎「戻駕色相肩(もどりかごいろにあいかた)」を題材にした沖縄舞踊があって、それを喜劇にしたのを俄にしたものです。ダンスの上手な演者が息を合わせて、踊るように駕籠を担げば、それだけで面白いと思います。ただし、台本中ではムーンウォークとしましたが、地車の上なので、前に進まずに前に進んでいるようなダンスです。
詳しくは「沖縄喜劇『戻り駕籠』」のユーチューブをご覧ください。駕籠は竹竿に段ボールで駕籠の絵を画くだけでOKです。

三人俄『もどり駕籠』
(次郎吉・藤四郎・車太夫)

   下手から次郎吉が登場。
次郎吉 わいは、次郎吉という籠かきや。
       上手から藤四郎が登場。
次郎吉 さあ、お客さん迎えに行くで。今日もよろしく頼むで、藤四郎。
藤四郎 こっちこそ頼むで、次郎吉。
         後ろに段ボールで作ったぺらぺらの籠。二人でかつぐ。
次郎吉 ほな行くで。
藤四郎 えっさ。(これを合図に)
二人  えっさ、えっさ、えっさ、えっさ。(右を向き足踏み四回)
二人  えっさ、えっさ、えっさ、えっさ。(前を向き杖で地面をたたく四回)
二人  えっさ、えっさ、えっさ、えっさ。(右を向きムーンウォーク四回)
        以下、どちらかが「えっさ」と言いながらムーンウォークしながら。
次郎吉 楽なにわかや。
二人  えっさ、えっさ、えっさ、えっさ。(右を向きムーンウォーク四回)
藤四郎 しかし、疲れるな。
二人  えっさ、えっさ、えっさ、えっさ。(右を向きムーンウォーク四回)
次郎吉 そこの地蔵さんのとこで待ったはるはずや。
二人  えっさ、えっさ、えっさ、えっさ。(右を向きムーンウォーク四回)
藤四郎 着いたことにしよ。
二人  えっさ、えっさ、えっさ、えっさ。(右を向きムーンウォーク四回)
次郎吉 そやな。よし着いた。
二人  えっさ、えっさ、えっさ、えっさ。(前を向き杖で地面をたたく四回)
              (止まる)

次郎吉 ああ、えら。
藤四郎 ・・・・。
次郎吉 (怒って)なんかしゃべれ。
藤四郎 まだ、来たはれへんがな! 客はどんな人や?。
次郎吉 大阪の遊郭に揚がってて、おかんの病気の見舞いに帰ったはった車太夫という女の人や。
藤四郎 車太夫。さぞべっぴんさんやろな!
次郎吉 浜辺美波と広瀬すずを足して二で割ったみたいやろな。
藤四郎 そんなべっぴんさんが、わしをちらっと見て「まあ、粋でいなせなお兄さん」なんて言うて、すり寄ってきたらどないしょ。
次郎吉 そんなサルみたいな顔したのにほれるかい。わしの方見て、「まあ、りりしくて頼りがいがあるお方」やと、わしの方にすり寄って来るわい!
藤四郎 なんで、そんなイノシシみたいな顔したんにほれるねん。
次郎吉 (怒って)なんやと。
藤四郎 (怒って)何を!
   二人がとっくみあいの喧嘩をする。

        そこへ、期待を裏切らぬ、ど派手な化粧をした狸のような車太夫が上手から登場。たもとで顔を隠している。
         二人は喧嘩をやめ、プロポーズする格好。車太夫が顔を現すと、恐怖で身震いをして、どうぞどうぞと相手に譲る仕草。
         それを見た、車太夫が、ムッとして
車太夫 (藤四郎に)  まあ、粋でいなせなお兄さん。
藤四郎 来るな。あっち行け。
車太夫 (次郎吉に)   まあ、りりしくて頼りがいがあるお方。
次郎吉 あかん。藤四郎、おまえにやるわ!
藤四郎 わいもいやや、おまえがもっていけ!
次郎吉 おまえや。
藤四郎 おまえじゃ。
         再び、喧嘩をし出す。
         車太夫が、うちわとてぬぐいを取り出して男口調で、
車太夫 おいおいおいおい、喧嘩はこれで、やめとかんかい!
次郎吉 なんや、それ。(ひったくる) てぬぐいうちわやないかい。これで、けんかするなとは。はて?
藤四郎 はて?
次郎吉 はて!わかったわい。内輪で木綿な じゃ。

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