河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

歴史33 大正――人情大相撲⑥

2022年12月30日 | 歴史

「ほんまに、人情味のある、優しい、兄貴あった・・・」
そう言って春やんは鼻をすすり、ちびりと酒もすすった。
オトンは何も言わなかった。
私は、勇ましくも、なんとも悲しい話で聞かなければよかったと思った。
「そやから、本来ならば『篠ヶ峰』と彫った墓石にするものやが、陸軍歩兵何某と書かれた立派な墓に入ってしまいよった」
「兄弟の中にひとりぐらい賢いやつがおらんとあかん。わしが中学校までやってもらえたのも兄貴のお陰や」とも言った。

気をとり直したのかオトンが言った。
「ほんで、春やん、今日はなにしに来たんや?」
「ああ、そやそや。喜志の宮さんのお札と祝い箸を配りにきたんあった」
「もう、そんな時期か・・・」
「はやいなあ。来年は戦争も災いもない良いとしでありますようにやなあ」
そう言ってお札と祝い箸をテーブルの上に置き、「ごっつぉはん!」と言って歌いながら玄関へ出た。
♪櫓太鼓は何処で鳴る
五丈三尺空で鳴る
繻子の締め込みばれん付き
十と六俵上がったら
力士も戦場も同じこと
勝つも負けるも力と技よ
裸芸者であるけれど
これも御国(みくに)の花の数♪

ずいぶんと長い話だった。春やんが帰ってから気が付いた。
あっ! ポッキーが空になってるがな!
時計を見て気が付いた。
あっ! 『てなもんや三度笠』も『ウルトラQ』も終わってるがな!

※写真は円谷プロ・江崎グリコのHPより借用
※歌は京山幸枝若「雷電八角遺恨相撲」より引用

【補筆】
実を言うと、これは春やんから聞いた話ではない。
私が町会の役員をしていた時に、年末の勘定会議(年初にある総会の打合せ)で、隣に座った古老から聞いた話である。
会議が終わると膳折と酒が出て慰労会になる。その時、その古老が言った。
「昔、この川面に相撲取りがいたのを知ってるか? 大阪相撲までいって、そら強かった! せやけど戦争で死んでしまいよった」
酒の勢いで話したのか、あまり話したくなかったのか、あとは私の質問にぽつりぽつりと答えてくれるだけだった。
それを、今年の年末になってふと思い出した。
それでもって、春やんを担ぎだして、代わりに語ってもらった。

▲明治6年(1873)に徴兵令が発せられた。 男子は満20歳で徴兵検査を受け、検査合格者(甲・乙種)の中から抽選(くじ引き)で「常備軍」の兵役に3年間服することになつていた。
たとえば、大正10年(1921)の徴兵検査受検者約55万人のうち、実際に現役入営したのは約13万6000人となっている。平時には4人に1人しか軍隊に入らなかった。
▲1927年(昭和2年)、東京相撲協会と大阪相撲協会は解散し、全国の協会・組合が統合されて「大日本相撲協会」が発足した。

この一年間、つたないブログをご覧いただきありがとうございました。
来年も、よろしくおねがいします。

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歴史33 大正――人情大相撲⑤

2022年12月29日 | 歴史

「ほんでどないなったんや?」
「死によった」
「なんでや?」

内地で半年ほど訓練した後に満州に派遣された。一年ほどした後の昭和6年(1931)9月18日に満州事変が起こったんや。
後に記録班あった戦友から聞いた話やが、奉天北大営の攻撃、紅頂山兵営の攻撃を戦い、12月15日の馬家要塞の戦闘に先乗り部隊の軽機関銃手として従軍した。
夕暮れ時、敵が攻撃をかけてきた。小高い丘から、しかも夕陽を背にしてるのを利用した奇襲攻撃や!
こっちは先乗り部隊の百数十名の兵で、五倍ほどの大敵を相手の戦いあったそうや。
兄貴は小隊長のところへ詰めより、
「ここは敵と四つに組んでは勝ち目はなし。左右に換わって敵の横腹を攻めるのが得策。その頃には後方部隊も到着し、三方から攻撃が可能です。それまで私が敵を食い止めます」
18歳のときの八朔相撲のお返しや! 小隊長は了解し、左右に部隊を退かせた。
塹壕(ざんごう=防御溝)に独り残った兄貴が大きな声で歌い出した。

♪勝てば極楽 負ければ地獄ヨー
とかく浮世は罪なとこ
負けちゃならぬと思えども
俺もやっぱり人の子か
流れ流れる浮雲に
行方定めぬ旅空で
遠い故郷偲ぶたび
熱い涙がついほろり
と言うて戻れる訳じゃなし
ここが我慢のしどころよ
どんと大地を踏み締めて
一押し二押し三に押し
押せば目も出るヨーホホイー
アー アアアアー
花も咲くヨー♪  (相撲甚句より)

歌いながら服を脱ぎ、腹に巻いてた晒(さらし)をとって木の棒にくくりつけた。
「篠ヶ峰関」と書かれた大坂相撲の時の幟(のぼり)あった。
その幟を立てると、満州の風を受けて威勢よくはためいた。
次にズボンを脱いで褌(ふんどし)一丁にになると、小銃を天に向かって一発、二発と撃った。が、反撃が無い。
満州の北はモンゴル相撲で有名なところ、日本の相撲に見とれているのかと合点して、
塹壕から外に出ると、どすこーい、どすこいと四股を踏み出した。
足先が頭より高くあがるような、そらみごとな四股あったそうや。
それでも攻撃がないので、手を大きく広げて柏手をうち、つつつつつつっとすり足で前に進み、雲竜型の土俵入りを始めた。
時間かせぎの土俵入りや。そら、ゆっくりゆっくりや。さぞかし力がこもっていたことやろ!

これが篠ヶ峰の最初で最後の土俵入りあった・・・。
その時・・・、バリバリと機関銃の銃声がして兄貴を撃ち抜いた・・・。
そのすぐ後や、突撃してくる敵兵に、後方部隊から大砲が次々と撃ち込まれた。左右からは先乗り部隊が銃声を浴びせた。
敵兵は壊滅。我が軍は戦死者一名の大勝利や・・・。
篠ヶ峰の最期の白星・・・、いや、大金星や!
ほんまに人情味のある優しい兄貴あった・・・。

⑥につづく
※写真は『満州事変写真帖』(国立国会図書館デジタルコレクションより)

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歴史33 大正――人情大相撲④

2022年12月28日 | 歴史

大坂相撲は春夏秋冬10日ずつの本場所に、東京相撲との対抗戦を加えた五場所を中心に興行していた。
今の本場所といっしょで、一日一番の取り組みや。
兄貴は千田川親方の許しを得て篠ヶ峰の四股名で土俵に上がり、序ノ口、序二段、三段目、幕下、十両と勝ち進んだ。
一年後の22歳の夏場所では幕下の前頭八枚目まで出世しよった。
それからは前頭あたりを勝ったり負けたりして、23歳の5月場所の新番付では前頭三枚目まで上がってた。そのときや、事件が起きたんは。

「そのときや、事件が起きたんは」と繰り返して、春やんはぐびりと酒を飲んだ。
そして、アテがなくなったのか、私が食べていた、その年発売されたポッキーを一本取って、トッポジージョのようにかじった。
そして、「乙な味やなあ」と言って、ポッキーをもう一本取った。
春やん、あかんで、僕のや。困っちゃうなあと思ったが、オトンが「また買うたるさかい」と小声で言ったのであきらめた。
「龍神事件が起きたんや・・・びっくりしたなーもーやがな!」と言って話し出したのだが、長ったらしかったのでウィキペディアふうにまとめると、
――大正12年5月場所初日の二日前の夜、横綱宮城山を除く十両以上の全力士の代表として、4大関以下10名が高田川、岩友の両取締を訪ねて大坂相撲協会を訪問し養老金問題に関する7箇条の要求書ならびに出願書を提出し交渉を開始した。
協会は将来に禍根を残してはならないと強硬な態度を示したので、力士会側も加盟力士および行司は全員大阪を引き上げ、堺市大浜公園九万楼に集合し結束を固めた。その後すぐに拠点を大浜公園近くの龍神遊郭内に移した。そのため同事件は「龍神事件」と呼ばれる――。

「まあ言うたら、力士がストライキを起こしよったんや!」
「ほんで結果はどないなってん?」
「協会側に押し込まれて、なんやかんやとあった後に、千田川親方が怒って引退を表明した。それに従って門下の20数名の力士も師匠に殉じて断髪引退してしもうた」
「兄貴は?」
「名誉の殉死や! ざん切り頭で家に帰って来た。周りの皆のこと考える優しい兄貴あった・・・」

「それからどないしてん?」
「しばらくは家の百姓を手伝うていたが、『家は長男が継ぐので、いつまでも家に居てるわけにはいかんやろ』と、八卦の又の親分さんが声かけてくらはった。
その時は親分やなしに喜志村の村会議員をしたはった。駅前に家も借りてくらはって、親分の手伝いしたり、大碇の親方も歳あったんで部屋で相撲教えたりして、けっこうな給金をもろてた」
「そらよかったがな!」
「ところがや。六年ほど経った昭和の4年の冬に入営通知が届いたんや。徴兵検査では甲乙丙丁の甲をもろていたんで不思議やなかった。
入隊するニ日前に、まだ出来たばかりの門前屋(滝谷不動)に泊まって、長男・兄貴。わしとで風呂で背中を流し合ううた。兄貴の広い背中を洗うていたら、肩がひくひくと動いているのがわかった・・・」
ほんまに優しい兄貴あった・・・」

「ほんでどないなったんや?」
「死によった」

⑤につづく
※絵葉書は「大阪名所絵葉書」の大坂国技館(大坂市立図書館アーカイブより)
※挿絵は『桂川力蔵 : 少年講談』(国立国会図書館デジタルコレクションより)
※写真は『満州事変写真帖』(同じ)

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歴史33 大正――人情大相撲③

2022年12月27日 | 歴史

大碇の部屋に入ったその翌年や。兄貴は二十歳になっとった。
三月から始まった興行から勝ち進んで、9月の道明寺天満宮の八朔相撲の時あった。
このときは東の張出横綱まで上がってた。東西の正横綱が二人、張出横綱が二人やから番付では三番目や。
下から勝ち抜いてきた大関とが一番目や。これを下手で投げ倒し、二番目の西の張出横綱を掬(すく)い投げ、三番目は西の横綱を首投げして、いよいよ結びの大一番、東の横綱との一戦になった。
この一番をみなければ、男と生まれた甲斐がない。見に行かなければ先祖の位牌に申し訳があい立たんと、押すな押すなの人の声。
押すなと言うたら押すのじゃない!
そんなに押したら背中の握り飯や潰れて、梅干しゃ裸で風邪をひくやないかい!

大入り満員札止めの中、呼び出しが、どとんとんとんと駆け上がって、西と東と読み上げる。
名乗り上げられ東西より、肩で風切る両横綱が土俵の上へと姿を見せる。
行事式守与太夫が、一味清風の軍配片手に割って入った土俵の真ん中。
じりりじりりと仕切りをつける。
つく息引く息阿吽の呼吸がぱったり合った。
ハッケヨイヤと軍配かえった。
ヨイショ キタサのどっこいしょと、土俵の真中で両力士が、火花を散らしてがっちり組んだ
ところで、ちょうど時間と相成りました。
お叱りもなく最後まで、ようこそご静聴いただきました。
このまた続きはレコードでどうかお聞きを願いましょ。
お粗末でした。まずこれまで。

「ちょ、ちょ、ちょっと待ちいな。そら京山幸枝若の河内音頭やないかいな」とオトンが言った。
「ええ文句やなあ・・・」
「感心してる場合かいな! 相撲はどないなってん?」
「負けた」
「はあ? 負けた! なんでやねん?」
「相手の横綱はこの取り組みに勝つだけで五人抜き相当や。それに賞金ももらえるがな。がっぷり四つに組んでくると兄貴は思ってた」
「そらそうや! 大鵬くらいの横綱になったら横に換わったりせえへんやろ!」
「それが右に換りよったんや! 力んだ兄貴はとんとんとんと土俵際、そのまま送り出されて負けや」
「なんちゅう卑怯なことさらしょんねん! そらあかんやろ!」
「それが良かったんや!」

オカンが持ってきた一升瓶の酒をオトンが春やんのコップに注いだ。
春やんは里芋を箸にさして口にほうばり、ねちゃねちゃと噛んで、酒といっしょにごくりと飲みこんだ。
「どこがええねんな!」とオトンが言い返した。
「この八朔相撲を大坂相撲の千田川親方が観にきてたんや」
「野球でいうたらスカートというやっちゃ!」
「それもいうならスカウトや! 兄貴の師匠の大碇という人は千田川親方と相撲を取ったこともある仲良しあったんや」
「なるほど」
「負けた相撲は度外視して、前の三番を見るかぎり、力と技では篠ヶ峰が優っている。是非とも我が部屋に来てほしい。これは支度金にと500円を差し出した」
「500円? 安っすいなあ」
「大正時代の500円や。給料が50円の時代や!」
「ほんで篠ヶ峰はどないしたんや?」
「願ってもないことと、心良う承諾したがな。ほんでもって500円はすっくり親に渡しよった。ほんまに優しい兄貴あった・・・」

④につづく
※上の絵は『河内名所図会』(国立国会図書館デジタルコレクションより)
※挿絵は『桂川力蔵 : 少年講談』(国立国会図書館デジタルコレクションより)
※日本郵便切手「相撲絵シリーズ」
※一部に京山幸枝若「雷電八角遺恨相撲』の歌詞を引用

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歴史33 大正――人情大相撲②

2022年12月26日 | 歴史

村相撲は野外でやるんで冬場の興業はない。八卦の又の親分さんとこの仕事を手伝い、あとはひたすら稽古の毎日や。
三か月余りたった3 月 25 日 羽曳野誉田八万能まつりの宮相撲が兄貴の初土俵あった。
村相撲とはいえ、大きな興行ともなると、頭取が15名、相撲取りが700名、行司45名、世話人(スポンサー)100名という大所帯や!
勝負は5 人抜きの勝ち抜き戦やから朝から晩まで取り組みが続いた。
朝の早よから大勢の人がひっきりなしに集まって来た。
昔は、村相撲が庶民の一番の娯楽あったんや。
まどろむ暇もあらばこそ決戦告げる暁の、5丈3尺櫓の上でドドンと鳴りだす一番太鼓。
一番太鼓で目を覚まし、二番太鼓で身支度をし、三番太鼓で場所入りや。

強いとはいえ力の世界。兄貴は番付け序の口からの取り組みあった。
初の土俵の一人目は、立ち上がるなり張り手を一発。これで相手は膝を付く。
二人、三人、四人目を右に左に投げ飛ばす。
いよいよ五人目、立ち上がるなり得意の張り手。ひるんだ相手の右手を背中に担いで一本投げや!
あっという間の五人抜き。行司が軍配を挙げて勝ち名乗り。
「東、篠ヶ峰!」
祝儀袋がはさまれた御幣棒を兄貴に手渡した。
それからあちこちの祭りの興行に出て次々と五人抜きしよった。
たまに家に帰って来たときは、何十本もの御幣棒と祝儀袋束にしてオトンに渡しとった。
ほんまに優しい兄貴あった・・・。

次の大きな興行は8 月 25 日の河内長野観心寺相撲あった。
このときは、序二段・三段目・幕下を飛び越して十両になってた。
ほんでもって、ここでも五人抜きや!
次の大興行は9月1日 道明寺天満宮の八朔相撲や。この取り組みで給金が決まるという興行や!
このときには力に技がくわわって強い者なしや。番付は幕内の前頭五枚目に上がっていた。
ほんでもって、番付が上の力士を投げ飛ばして五人抜きや!
次の10 月 2 日 酒屋神社相撲(松原)では前頭筆頭になってた。
ほんでもって、もはや敵なしで小結、関脇を投げ飛ばして五人抜きや!

10月17日は喜志の宮さんの秋祭りや。17日の後宴祭には八卦の又の親分が勧進元の宮相撲があった。
兄貴も出よった。
この時は得意の張り手や投げ技は一切封印して、がっぷり四つで四人目までを寄り切った。
五人目も四つに組んでぐいぐいと押していき、相手の脚が徳俵にかかった瞬間、派手にうっちゃられて負けよった。
篠ヶ峰の初の一敗や。やっぱりわざと負けよったんやろなあ・・・。
ほんまに優しい兄貴あった・・・。

③につづく
※挿絵は『桂川力蔵 : 少年講談』(国立国会図書館デジタルコレクションより)

※『相撲浮世絵複刻 第1輯』(同じ)

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