四十代のとき、少しばかり書道を習ったことがある。
ちょっと小粋な感じのする初老の女の先生だったのだが、生粋の江戸っ子で、言うことは手厳しかった。
「なんで、そんなに慌てて書くの? なにか用事でもあるんですか?」
「どうして、押さえる時にそんなに力をいれんの? 団子みたいになるでしょ。お腹でもすいてんの?」
「どうして右にはらう時に筆の向きを変えるんですか? 縦のままの方がきれいな三角になるでしょ!」
こんちくしょうと思い、ある日、何枚も清書を重ねて、渾身の一枚を提出したとき、
「あーあっ! 上手に書いてるのに、なんで半紙の真ん中にこんなに小じんまりとおさめるの? あなた、字の黒い部分ばかり見てんのでしょ! 余白の白い部分も黒い字と同じくらいに大事なんだから。自分のことばっかり考えずに家族も大切にしなさい!」
これはけっこう身に染みた。
今の畑には次のようなものがある。
冬を越した豌豆・空豆・玉葱・大蒜。
春に植えた大根・人参・小松菜・水菜・法蓮草・青梗菜。
夏野菜の苗が茄子・赤茄子・西瓜・陸蓮根・苦瓜・胡瓜。
秋に収穫する里芋・落花生。
つまり、春夏秋冬の一年を通した野菜がある。したがって、いそがしい。故に、野菜の漢字の読みを説明する間もない。だから、ブログのネタも菜園記事にかたよってしまうほどやるべきことが多いのだ。
と、嫁はんに言うと、
「だから、何が言いたいん?」
「だから」という接続詞は気をつけて使わなければならない。
言い訳がましく使うと「だから・・・もう言うことがありません」と弱気が強調される。
捨て台詞で使うと「だから・・・どないやねん!」と強気が強調される。
上役や年長者や嫁様に使うべきではない。どうしても使いたいときは「ですので・ですから」が良い。
というわけで、ご機嫌うかがいに久々に遠足(弁当食べて買い物)へ。定番の和歌山の橋本コース。JA和歌山のやっちょん広場で弁当を購入。ここの弁当は、野菜中心の手作りのおかずがぎっしりと詰まって430円と年寄りにはちょうどよい。
10分ほど走った道の駅九度山のテラスで食事。遠足の保育園児がにぎやかに眼の前を通り過ぎてゆく。河原には鯉のぼりが元気よく泳いていた。
家に帰って、しばし休憩の後に畑へ行くと、やられた!
カラスに豌豆を食べられていた!
「カラス様、たいへん困ります。だから・・・、いや、ですから、どうかおやめください!」
※絵は竹久夢二
昨日は久々に山奥へ。完全無農薬の野菜を作ろうとすると、もはやここまで来なくては出来ない。二時間ほどひたすら草抜きをして、ふと見上げると一面の新緑。朝、着いた時には気づかなかったのだが、陽を受けて真に鮮やかである。
こんな話がある。
一人の牧夫が、一匹の牛を家族のように大切に飼っていた。ところが、ある日そのうし牛がいなくなった。男は必死で牛を探す。ようやく牛を見つけて連れ戻そうとするが、牛は頑として動かない。格闘の末、やっとのことで牛を家に連れ戻すことが出来た。家に帰り、ふと庭をの片隅を見ると、実に見事な花が咲いていた。
実は始めから庭に花は咲いていたのだが、牛(=本来の自分)を見失った男には見えなかったのだ。苦労して牛を連れ戻したからこそ、花のあるがままの姿、本当の美しさに、はじめて目覚めることができたという話である。
禅の悟りの境地について書かれた『十牛図』の中の話だ。花や緑のあるがままの美しさは、苦しい道のりを経てはじめてわかる。
禅の言葉に「柳緑花紅=柳は緑、花は紅」というのがある。何の変哲もない風景だが、あるがままの姿をありのままに見るという禅の境地を表している。「Let It Be」もまた、そういう「あるがまま」の境地なのだと独り納得。
山奥でひたすら草を抜き、鮮やかな新緑の美しさに気づいた我もまた、ようやくその境地に近づいたのかと思うのだが、悟りの境地とは腰が痛いものだ。
見るほどにみなそのままの姿かな 柳は緑 花は紅 (一休さん)
「Let It Be」を「なるがまま」と訳したが、どうも百姓的な訳し方だという思いがある。
野菜作りは「なるがまま」にならない時が、おうおうにしてあるからである。秋に植えたタマネギが抽苔(とうだち=茎を伸ばして花を咲かせる)した。
玉を大きくする前に子孫を残そうとしているのである。こうなりゃ地中の玉の栄養がすべて花にまわされ、玉葱が大きくならねい。これも俺いらが悪いのさ!
風はきままに吹いている 鳥はきままに鳴いている
どうせ男と生まれたからにゃ 胸の炎はきままに燃やそ
意地と度胸の人生だ
ままよなげくな いとしいお前
明日は 明日の風が吹く
※『明日は明日の風が吹く』(石原裕次郎 井上梅次 作詞)
「なるがまま」にならなかったことを「ままよ嘆くな、きままに暮らそう。明日は明日の風が吹く」と少々なげやりな気分になる。
しかし、これは「Let It Be」の精神とはかなり違う。
「なるがまま=きまま=明日は明日の風が吹く」では、どうにもならなくなるときがある。いとしいお前にすれば、たまったものではない。
もちろん、石原裕次郎は、いとしいお前のために、どうにもならないことに立ち向かっていくのであろうが・・・。
イギリスで音楽好きの4人の少年が出会い、六年後にデビューし、またたくまに世界の音楽ファーンを魅了。国から勲章をもらうほど有名になった。さて、そのグループの名は?
言わずと知れたザ,ビートルズである。
しかし、レビュー(1962年)から8年が経っと、音楽に対する考え方の違いからぶつかり合いが始まる、お互い口も聞かないような状態になってしまった。そのとき、できるならもう一度やり直したいという気持ちで作られたのが「ゲットバック(GET BACK)」という、わずか2分ほどの曲(1969年4月11日)だった。ゲットバックとは原点に戻ろうの意(おそらくジョン・レノンよ帰ってきての意か?)。しかし、関係はなかなか修復されないまま最後の曲を発表する。それが1970年5月8日発表の「レットイットビー(Let It Be)」だった。
さて、曲の題名の意味は?
曲の最初は「失望にすっかり傷ついた心になった時、神様が現れて、尊い言葉をささやいて下さる。すべてを神にゆだねて、なるがままに(Let It Be)……」。「なるがままに」というのは「どうにでもなれ」という、やけっぱちな気持ちではなく「神に全てゆだねよう」という信仰に基づいた意味である。おりしも、ベトナム戦争(1960年代~75年)で世界情勢が大きく変化した時代だった。
レットイットビーは当時のビートルズの状態と共に、世界で起きている戦争を何とかしたいという4人の気持ちがこめられていたのだと思う。
時代は繰り返される。