河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

ちょっといっぷく10

2022年02月28日 | よもやま話

 2月も今日で終わり。明日から3月。春=あたたかい です。

 「あたたかい」を漢字で書くと?

 「暖かい」と「温かい」の二つあります。goo辞書で検索すると、

1 (暖かい)寒すぎもせず、暑すぎもせず、程よい気温である。

2 (温かい)物が冷たくなく、また熱すぎもせず、程よい状態である。

とあります。とすると「暖かい」が正解なのですが、次のような説明がついていました。

[補説]気温のようにからだ全体で感じるあたたかさに、「寒い」に対して「暖かい」。部分で感じたり心で感じたりするあたたかさに、「冷たい」に対して「温かい」と書くのが普通。

 春=あたたかい=心がはずむ

 こういう心理からすると「温かい」としてもいいのかもしれません。英語に直すとわかります。「暖かい」は「warm」です。「温かい」は「kind」です。

 では、「はずむ」を漢字で書くと?

 「弾む」という漢字は、毛が三本の男性が弓を射ろうとしている漢字です。戦争のためではなく、今晩の家族の獲物を確保するためです。ワクワクした気持ちが「弾む」です。「はず」という動詞には語尾に「む」がついています。同じように「む」が付く動詞(〇〇む)をあげてみてください。

 つかむ・くぼむ・ゆがむ・はさむ・かむ・ふむ・・・。けっこうあります。共通点は?

 その行動をすることで、物の形が変化します。この「む」は古文の助動詞の「む」なのです。「~しよう(意志)」と、「~だろう(推量)」の二つの意味があります。「はさもう。すると、二つに切れる」のように、「こうしよう。すると、こうなるだろう」という意味を含んでいるので、型が変化するのです。弾もう。すると、心がうきうきする。

 春=あたたかい=心が弾む=心がうきうき=spring

※絵は竹久夢二

※正確には、「弾む」は「彈む」で、左側は「うちわ」の象形で、〈上下左右に動かす〉の意です。

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その十八後編 室町 ―― 富田林寺内町巡り

2022年02月27日 | 歴史

喜六 しかし、せーやん。さっきからぷーんと、ええ匂いがするねんけど。

清八 あの白壁の大きな蔵は酒蔵や。岩瀬屋とある。ここらは石川のきれいな水を利用して、酒造りが盛んなとこや。富田林だけでも七軒ある。「富田林の酒屋の井戸は、底に黄金の水が湧く」と唄われるくらいや。

喜六 せーやん、一杯よばれよ。

清八 まだ昼の日中やないかいな。まあ、ええとこあったら飲ませたる。

喜六 なんでもええから、はよ飲ませてや。

清八 ほなここの店で飲むか?

喜六 何屋や。

清八 「佐渡藤」とあるな。味醂屋や。

喜六 悪酔いするがな。

清八 せやから黙って着いてこい!

喜六 せーやん。

清八 なんやねん。

喜六 ここの店も大きいで。

清八 黒山屋とあるな。木綿屋や。このあたりは、綿の生産も盛んなとこや。

喜六 綿かいな。わしは腹わたにしみるやつが欲しいねん。・・・せーやん。

清八 なんやねん?

喜六 むかいの、この店。小さい樽がようさんあるで。

清八  飲めるもんなら飲んでみ。

喜六 何屋や。

清八 樽屋とあるなあ。油屋や。

喜六 そんなん飲んだら、腹にしみんと燃えて、死んでしまうがな。

清八 ちょうどええがな、ここで拝んでもらえ。

喜六 ここはどこや?

清八 こうしょうじ。

喜六 どうすんねん?

清八 なんや?

喜六 今、おまえ「こうしょう」言うたがな。

清八 違うがな。興正寺というお寺や。俗に御坊ともいう。

喜六 なんや、ゴンボかいな。わいゴンボきらいや。

清八 ゴンボとちゃうがな。お寺のことを敬って御坊というねん。見てみ、この山門を。

喜六 立派な山門やな。

清八 豊臣秀吉が築城した京都の伏見城の城の門が移築されたといわれてる。それで、この通りを城之門というねん。

喜六 そんなん、知らんもん。

清八  洒落かいな。塀越しの左に見えるのが鐘楼、釣り鐘堂、右に見えるのが鼓楼、時を知らせる太鼓を打つとこや。さあ、中入って一服させてもらお。

喜六 もっとええとこで一服しよ。

清八 罰あたるで。黙って着いてこい。どないや、本殿、庫裏、客殿と立派なもんや。富田林は、この御坊を中心に発展した村や。

喜六 ほほう、ゴンボが中心なら周りは大根・人参か。

清八 まだ言うてんかいな。御坊や。戦国時代の末、大坂の本願寺に仕え、後に出家して正秀と名乗る侍が、当時大坂平野の北部を支配していた本願寺から、100貫文(銅銭10万枚)で富田の芝を買い、周辺四ヶ村の中野・新堂・毛人谷・山中田の「八人衆」の協力で、この荒れ地を開発して田畑を作り、自分の領地に【富田林】の名をつけたという。

喜六 ほうほう。

清八 ところがや、興正寺は本願寺とつながりがあることから、時の天下をねろうてた織田信長が石山本願寺を攻めた時に、富田林にも目を付けよったんや。

喜六 とんだはなしやな。

清八 また、洒落かいな。

喜六 ほんでどないしたんや?

清八 八人衆と話し合い、信長に逆ろうてつぶされたとこが、ようさんある。ここは、本願寺にもつかず、信長にも逆らうことはせん、中立の立場でいくことにしょう、

喜六 どないしょ、あないしょ、こうしょう寺か!

清八 また洒落かいな。

喜六 話はええから、一杯のませて。

清八 まだ言うてんのか。表に出。・・・…右手に進んで寺の裏に回ろ。

喜六 せーやん、また、ぷーんとエエにおいがしてきた。あそこの大きな店の前に大っきい樽がおいたあるがな。

清八 杉山長左エ門とあるな。

喜六 何屋や?

清八 水屋や!

喜六 水屋て、何売ってるねん?

清八 水を売ったはるねん。

喜六 水? せやけど、ぷーんと酒のにおいがするで。

清八 酒臭い水を売ったはるねん。

喜六 酒臭い水?

清八 石川の水は酒臭い。せやから酒造りにむくねん。ミネラルウォーターや。

喜六 ミネラルウォーター?

清八 そこの竹藪の向こうは石川や。なんあったら、行って、腹一杯飲んでこい!

喜六 そんなんいやや、石川の水に米と麹を入れて、ぷくぷくと泡の出てるのが飲みたいねん。

清八 ぶつぶつ言わんと黙って付いてこい。

喜六 待ってーな。ゴン 痛い!

清八 どないしたんや?

喜六 家の壁に当たった。

清八 まっすぐ歩けへんさかいや。

喜六 まっすぐ歩いてたのに当たったんや。

清八 なるほど、当て曲げの道というて、敵に攻められた時に、攻めにくいように、わざと道をぐいちに曲げたーるねん。

喜六 それをはよ言うといてーな。ゴン また当たた!

清八 はよこい。

喜六 待ってーな。ゴン また当たった!

清八 さーあ、ここは向田口というて東高野街道との出入り口や。

喜六 せーやん、ここにも墓があるで。

清八 墓やないがな。「町中くはへきせる、ひなはひ無用」と書かれてる。

喜六 なんやそれ?

清八 町の中では、くわえキセル、歩きたばこや。火縄火はキセルに火をつける道具や。火事にならんようにということや。

喜六 富田林は、この時代から歩きたばこ禁止しとったんやなあ。

清八 そやがな。さあ、ここから東高野街道に出るで!

喜六 待ちいな。酒飲ませたる言うたがな。うそあったんかいな。

清八 うそやあらへん。これや。

喜六 火の付いたキセルを出して、タバコかいな。

清八 煙にまいたんや。

 

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その十八中編 室町――富田林寺内町巡り

2022年02月26日 | 歴史

ここからは落語のネタですが、スマホでは読みにくいかもしれません。あしからず。

清八 さあ、きーやん、こっちおいで。

喜六   せーやん、腹へった。朝、藤井寺の観音さんお参りして、巡礼街道を南へ南へ、あれからなんにも食べてーへん。

清八 情けない声出すな。もうちょっと行ったら富田林や。南河内の大都市や。

喜六 えっ、こんな田舎に、そんなんあるんかいな?

清八 さあ、ここが富田林寺内町の入り口や。念西口というねん。

喜六 地蔵さんがあるで。

清八 町の北の入り口にあるんで北口地蔵。赤ちゃんの夜泣き・疳の虫にごりやくがあるいうな。

喜六 ほな拝んでいこ。

清八 おまえ一人もんやろ。

喜六 わい、たまに夜泣きするねん。

清八 子供かいな。

喜六 こんなとこに墓があるで?

清八 あほ 墓やないがな、道しるべや。

喜六 なんて、書いたーるねん? わい、字ー読めんがな。

清八 「左ふじいでら、右まきのおてら」と書いたある。

喜六 「まきのおてら」てなんや。

清八 和泉にある槙尾山施福寺や。藤井寺が、観音巡礼の第三番札所で、施福寺は第四番の札所や。

喜六 よう知ってるなあ。

清八 今、持ってる『富田林名所案内』というのに書いたーる。

喜六 なんて書いてあるねん?

清八 ええか、富田林は六筋七町とよばれていて、六筋とは南北方向の通りのことで、東筋、亀ヶ坂筋、城之門筋、富筋、市場筋、西筋の六つの通りをいう。七町とは、北から順に壱里山町、富山 町、北会所町、南会所町、堺町、御坊町、林町というなーりー。

喜六 あなかしこ、あなかしこ。

清八 『御文書』やないがな。さあ、この前のまっすぐな道を行って町中に入ろ。・・・今歩いてるのが城之門筋や。

喜六 城之門? 城みたい無いがな。

清八 後でわかるから黙って着いてこい。

喜六 わー! 大きい家がぎょうさんあるなあ。みな刑務所か?

清八 なんでやねん?

喜六 二階に、ごっつい格子の牢屋の窓があるがな。

清八 あほ、あれは牢屋の窓とちがう。虫籠窓(むしこまど)いうて、煙抜き、風通しのええようにする窓やがな。

喜六 二階の壁が突き抜けてるで?

清八 あれは「うだつ」いうて、隣が火事になったときに火の粉をよけるために作ったるねん。

喜六 ええなあ。うちの長屋にもつけよか。

清八 あんだら! うちの長屋みたい燃えても、持ち出すもんがないがな。ここらは違う。持ち出すもんがようさんあるがな。ようさん持ったはるさかいに、うだつをあげることができる。わしらは、「うだつが上がらん」ということや。

喜六 ははーん、そういうことかいな。それも御文書に書いたーる。

清八 ちゃういうねん!

喜六 しかし、ここはやっぱし刑務所ちゃうか?

清八 なんでやねん?

喜六 塀の上に、とがった竹や木をいっぱい並べて逃げられんようにしてるがな。

清八 あれは「忍び返し」いうて、盗人が入らんようにしてるねん。軒下にも竹で編んだ柵が置いたるやろ。

喜六 金持ちというのはじゃーくさいことすんねんなあ・・・、わしら「うだつが上がらん」でよかったな。

清八 まあまあ、そない思てるほうが幸せや。

 わあわあと言うております。「地内町巡り」前半でございます。続きは後編へ!

【補筆】

※地図は富田林市商工課パンフレツトを加工。

※『御文書』浄土真宗の第八世蓮如上人が、浄土真宗の教えを一般門徒のために、わかりやすく書き示したものです。各文章ともに「あなかしこあなかしこ」で終わります。

 

 

 

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その十八前半 室町――富田林寺内町巡り

2022年02月26日 | 歴史

 老人会の敬老会で、春やんが余興にやった落語です。

 室町時代、京都にあった浄土真宗興正寺の当主、蓮教という方が、本願寺の蓮如上人を助けて、熱心に南河内の村々を布教してまわり、毛人谷(えびたに)に念仏道場を開いた。「古御坊」という字が残っています。ここから信者が増え、あちこちに念仏道場が次々と建つようになる。

 その後、京都・興正寺第十六世の証秀上人が、今の富田林、当時は「富田が芝」と呼んでいた荒地に目をつけた。記録では「永禄初年」とあります。こない言うてもいつやわからん。1558年から1560年ころです。というてもいつやわからん。織田信長が今川義元を倒した桶狭間の戦い(1560年)のころです。

 当時、古市にあった高屋城の安見美作守(みまさかのかみ)直政に、百貫文を出して、富田が芝を買い受けました。百貫文というてもなんぼやわからん。当時流通していた永楽通宝、真ん中に穴があいてる。この永楽通宝千枚をヒモで通したのが一貫。したがって、百貫文は銅銭十万枚です。というてもようわからん。現在の金額に直すと、三百万円くらい。今あったら借金してでも買いますわなあ。昔は人口が少ないから、土地も安かった。

 近隣の中野、新堂、毛人谷、山中田(やまちゅうだ)の村から庄屋株二人ずつを呼びよせる。これを富田林八人衆と呼びます。この八人衆が中心となり、信者の力によって荒地を開き、四町四面の地域を区画して、外側を堤防と竹林で囲い、その中央に御坊を建てて一大信仰都市を築こうと計画します。

 ところが、その時、力をつけていたのは、永楽通報を旗印にしていた、あの織田信長。比叡山を焼き討ちし、次は大阪の石山本願寺をつぶそうとしている。当時、最も大きな宗教勢力の浄土真宗本願寺派の本願寺の顕如に、一方的に「土地を明け渡せ」と要求してきた。そうなると、富田林は本願寺と関係が深い。慌てた正秀上人と八人衆が相談し、「本願寺の味方もせんし、信長に逆らいもしない」という、早い話が「中立」の立場をとろうということになった。これが大正解で、信長から「寺内之儀、不可有別条(じないのぎ、べつじょうあるべからず)」との書状を得る。「興正寺の領地内は、何してもかまへん」ということになって一難をまぬがれた。

 このとき、喜志村も富田林の開発に参加すべきなんですが、実は、喜志も一大信仰都市をつくろうとしていたんです。当時、喜志の宮さん美具久留御魂神社は、坊さんが祝詞(のりと)をあげるというほど、神仏習合の「仏」、寺の勢力が強く、「喜志寺」といわれるほどになっていた。境内に根来宗のお寺が十三もあったといいます。当時、根来宗は信長に協力的だったので、信長も許してくれるにちがいない。「よっしゃ、喜志寺内町をつくろう」というわけです。

 ところが、本家和歌山の根来宗が、どんどん力をつけて大名並みの勢力になっていった。そうなると、信長にとって根来宗は、脅威になっていく。「力つけさせたら、なにしよるかわからん」というわけで、富田林のように「自由にやってくれてかまへんで」という許可を喜志にはくれない。これで計画はおじゃんになっていった。

 一方の富田林。当時、河内国の守護は畠山高政。羽曳野の古市にある高屋城が本宅なんですが、管領(かんれい)という幕府№2の役職なので、京都の別宅に住んでる。高屋城は、安見美作守直政に守護職の代理、守護代を務めさせている。この安見美作守が「富田林の寺内に住む商人からは税金をとってはならぬ」と定めた。こんなん言う総理大臣いたらよろしいやろなあ。さあ、ここから富田林は寺内町として栄えていきまんねん。

 近江商人の心得に「三方よし」という言葉があります。売り手良し・買い手良し・世間良しの三つの「良し」。売り手と買い手がともに満足し、世間も繫栄するのが良い商売であるという教えです。富田林は、まさにこの「三方よし」にあたる。米麦以外にも綿作りが盛んでした。綿は食べるものではないので、加工する。すると人手がいる。そこへもって、、出来た綿を売り買いする商売人や客が集まる。おまけに、門徒信者の集まりなので人のためを考える。まさに三方よしなんです。

 木綿屋以外にも、金剛山の木を利用する材木屋、石川の水を利用する酒屋などが集まって、繁盛していく。中でも、酒造りが盛んで、七軒あったそうです。明治まで続いたのは長左衛門(杉山)、徳兵衛(仲村)、茂兵衛(葛原・十津川)、伊助(奥谷・岩瀬屋)、忠兵衛(橋本・別井)の五軒。河内には七十二軒の造り酒屋があった中、この五軒で大坂の売り上げの二割を占めたといいます。

「富田林の酒屋の井戸は、底に黄金(こがね)の水が湧く」

と唄われたほど商売繁盛でにぎわってました。石川の水がおいしかったんでしょうなあ。

  中編につづきます

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その十七 室町 ―― 天下分け目の兄弟喧嘩

2022年02月25日 | 歴史

 二学期の始業式が終わり、河南町の大ケ塚の八朔市(縁日)へ、私と兄、友達二人の四人で行った。その時、「ひよこ釣り」の店があった。棒にくくりつけた糸の先のL字型の針金にウドンをつけて、ヒヨコを釣る遊びだった。金儀すくいが10円、その倍の20円だったが、初めてだし、おもしろそうなのでやってみようということになった。三匹釣ると終わりで、一匹もらえた。

 東京オリンピックの次の年だった。ひもじいとは思わなかったが、まだ飢えていた。ヒヨコも一緒だったのだろう。あっという間に三匹釣れた。金魚すくいで使うビニールの袋に一匹ずつ入れてくれた。

 「おっちゃん、これ、卵を生むか?」

 「そら、メンタ(めす)がおったら生むで!」

 いらなければ返してもよかったのだが、その言葉でもらうことにした。

 家に帰る途中、友達二人が、

 「家に一匹だけ持って帰っても親に怒られるだけや。やるわ」

 「俺もおんなじや。よう育てられへんさかいに、おまえとこ(我が兄弟)で育てて!」

 というわけで、我が家で計四匹のヒヨコを育てることになった。

親に怒られるのではないかと思っていたのだが、案外簡単に許してくれた。入院の見舞いはバナナか卵が定番の時代で、卵は高価なものだったからかもしれない。

 最初は段ボールの箱に入れて育てた。農家だったのでエサにはことかかない。菜っ葉を細かく刻んで糠(ぬか)と小米(脱穀の際に砕けた米)を混ぜてエサにした。一匹死んでしまったが、残りの三匹は元気に育った。白い羽が目立つようになると、段ボール箱では狭くなったので、家の隅にリンゴ箱を四つ組み合わせ、金網を張って鶏小屋を作ってもらった。

 年が明けた頃には、もう立派な大人になり、朝にはコケコッコーと大きな声で鳴くようになった。しかし、卵は生まなかった。鶏をたくさん飼っている男の人に見てもらうと、「みなオンタ(おす)やなあ」とすげない答えだった。それでも朝夕、エサの世話をした。

 そんなある日、学校から帰ってくると、鶏小屋が空になっていた。母に、

 「ニワトリ、どないしたん?」とたずねると、

 「前に来たおっちゃんがな、オンタのニワトリが欲しいと言わはったさかいに、持って帰ってもろうた」

 何も言えなかった。

 その日の夕食は、水菜と豆腐、こんにゃく、麩(ふ)とかしわ(鶏肉)を甘辛く煮たものだった。世の中にこんなおいしいものがあるのかと思うほどうまかった。スキヤキというものを食べた最初だった。

 それから二、三日後、漫画の本の取り合いで兄とケンカになった。ちょうどそこへ春やんがやってきた。昔の家は玄関から裏口まで土間が通じていて、出入りが簡単だった。

 「おいおい、やめとけやめとけ。ケンカしてどないすんねん。兄弟仲ようせなあかんがな。ええか、だいぶん昔のことやが、兄弟げんかが日本を真っ二つにする大げんかになったことがあるねんで!」

 そう言って春やんが話しを続けた。

 ――喜志の隣の古市(羽曳野市)に高屋城という大きなお城があった。その城に、畠山義就(よしひろ/よしなり)と畠山政長(まさなが)という兄弟が住んでいたが、どちらが家を継ぐかで大げんかになった。その時、幕府では、山名宗全(やまなそうぜん)と細川勝元(ほそかわかつもと)という大大名が権力争いをしていたので、兄の義就は山名宗全を味方につけた。弟の政長も負けてられるかと細川勝元を味方にした。

 本来なら将軍がまとめに入るのやが、将軍家でもと足利義視(よしみ)と足利義政というのが、どっちが将軍かともめてたので、兄の義就は足利義視を応援、弟の政長は足利義政を応援した。

 河内の兄弟げんかに幕府の権力争い、将軍争いが加わってえらい大ごとになった。おまけに日本全国のあちこちでもめていた大名が、決着をつけるよいチャンスと参戦してきて、京の都をはさんで東と西の大戦争になったんや。

 小さい兄弟げんかが大戦争になることがあるのや。おまえらも喧嘩せずに仲ようせんとあかん!。

 それはそうと、オトンとオカンはいてなのかいな・・・。そうか、ほな、こないだニワトリつぶした(解体した)礼やいうてタバコくれたんやが、わるいんで、その礼にタマゴ買うてきたんや。渡しておいてくれるか。カシワを食べたやろ! おいしかったか?――

 コケコッコー

 頭の中で、ニワトリの鳴き声が聞こえた。

   

【補筆】

 兄弟喧嘩(実際は義理の兄弟。年齢では政長が上になる)とはいえ、畠山家は将軍補佐をする管領(かんれい)という№2の役職だったので、次々と周りを巻き込み「応仁の乱」という大きな争いになってしまいました。「将軍の後継者争い」「細川家と山名家の対立」に「全国の守護大名の後継者争い」が加わったのが応仁の乱です。西軍11万、東軍16万人という大きな争いでした。

 しかし、細川勝元が44歳で逝去し、時をほぼ同じくして山名宗全が70歳で逝去します。将軍家では八代将軍足利義政が義尚(東軍側)に家督を譲ることを決めて隠居し、将軍家の後継者争いは終わります。これによって、1467年から10年間つづいた争いは幕を閉じます。京都は焼野原になりました。

 東軍側の義尚が将軍になったことで、畠山家の跡継ぎは弟の政長になりますが、兄の義就は戦いを続け、河内の国を支配します。幕府が追討の兵を送りますが、義就は次々と打ち破ります。弟の政長が名目上の河内守護ですが、実質支配していたのは兄の義就でした。日本の国の中に、幕府の支配を受けない「河内」という独立国家があったことになります。

 

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