河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

その二 古代 ―― 喜志は岸?

2022年01月30日 | 歴史

 小学校の四年生ぐらいのころだったろうか。村の会所(集会場)の前の道で、近所の悪友と「缶けり」をしていた。そろそろ飽きてきたので次の遊びをしようと、道の真ん中で輪になって話し合っていた。日陰に入るとまだ寒い春休みだった。

 そのとき、春やんが、日向を選んでいるかのように、ひょっこりひょっこりと歩いて来た。

 村の中で「棟上げ」があり、それに呼ばれて、祝いの酒を飲んでの帰りだったのだろう。作業ズボンの上によれよれの背広を着て、てぬぐいでホッカムリをした春やんが、昼さがりの陽を背に受けて、我々の輪の中に酒臭い真っ赤な顔をつっこみ、「おい、おまえら……」と突然話し始めた。

 「おまえら住んでいるここを、何で『喜志』というか知っとるか?」

 大阪は、昔は海だったという話を学校で先生から何度も聞いていた。海岸の近くに出来た村々だから「きし(岸)」なのだと、誰もが信じていた。学校の先生の言うことは全て正しいのことなのだと、誰もが信じていた時代だった。

 悪友の一人が、「おっちゃん、それはな……」と、先生が言ったことをそのままに説明した。すると春やんが、「あほんだら、ちゃうがな」と、おだやかな声で話しだした。

 「海あったんは、大和川の向こうあたりまでや。言うてもわからんやろ。近鉄電車の駅で言うたら、河内松原くらいまでや、と言うてもわからんやろ……」

 電車に乗るなど年に二、三回ほどという時代だった。「大和川」や「河内松原」という名前は知っていても、それが我々の住んでいる喜志からどれほどの所にるのかなど誰も知らなかった。それどころか、酒に酔って、ぐてんぐでんのオッサンに、我々の神聖なる学校で教わった常識をくつがえされることはあってはならないことだった。たまりかねて、悪友の誰かがぼそりと言った。

 「ほな、なんで『きし』と、言うねん?」

 春やん何かを言おうとしたが、言葉につまって黙ってしまった。春やんの眼が完全にすわっている。

 

 嫌な間がしばらく続いた後、えらく落ち着いた声で、目をしくしくさせながら春やんが言った。

 「この喜志はなあ、人が住みだした一万五千年の昔からりっぱな陸地や。ここが海あったら、何でワイらの住んでる川面をウミヅラと言わんとカワヅラと言うんじゃ?。どうのこうの言うてらら、頭からストロー突っ込んで血を吸うたるで!」

 「てなもんや三度笠」の「あんかけの時次郎」のセリフをそのまんま言い残して、春やんは来た時と同じように、日向を選んで、ふらりふらりと横丁の角を曲がって行った。

 近所のおっちゃんを怒らしてしまったという後味の悪さがあったのだろう。誰かが、「そや、俺、用事があったんや」と言い出すと、「そやそや、俺もや」と、みんな散り散りに帰って行った。

 おそらくその晩は、私だけではなく、皆がビクビクとした夜を送ったのではないだろうか。

 春やんから喜志という地名のいわれを聞いたのは、それからずっと後のことだった。

 

【補説】 

 今から1万1500年前から2400年前の間を指して縄文時代と言います。氷河期か終わって温暖な気候となり、我々の祖先が生活を営みだした時代です。当時の大坂は、上町台地が半島のように突き出して、その東側は「河内潟」という湾でした。縄文中期と呼ばれる五千年前までも同じように、大和川と石川が合流する辺りまでは海でした(その後、河内湖)。したがって、春やんの言ったとおり、富田林は陸地で、「海岸にあったから喜志(きし)という地名がついたというのは誤りです。

 だからといって、当時の先生たちを責めることはしません。「海の岸にあったから喜志なのだ」というのは説得力があったし、ロマンが感じられたからです。

 縄文時代の遺跡の多くは東日本にあります。大阪府の縄文遺跡は他と比べれば数は少なく、その多くは生駒山の麓、河口や川岸に集中しています。その中でも藤井寺市の国府遺跡は、あのモースさんによって、近代考古学が始まったころから注目されていました。縄文時代が始まる前、何万年もかけて石川が土地を階段状に削り落として河岸段丘を形成します。その中で、川から10メートルほど高い中位段丘と、3メートルほどの低位段丘のある国府に、我々の祖先が生活を始めました。今から五千年前です。

 国府遺跡とほぼ同じ縄文中期の遺跡が羽曳野市の城山、そして富田林の錦織にあります。私が住んでいた喜志村の川面はその中間に位置するのですが、国府・城山・錦織と同様に、低位段丘と中位段丘とを合わせ持った村です。

 石川の氾濫原(増水の時は水につかる)中にある離れ島のような国府や城山から、縄文人が石川をさか上り、安全で広く狩猟のしやすい中位段丘のある喜志村に、あるいは川面にたどり着き、そしてある者は川上の錦織にたどり着いたのだと春やんは言っていました。

 春やんが井戸から発見した土器、植木鉢に使っていた土器は、国府遺跡や錦織遺跡から発見された白川型とよばれる、爪でひっかいたような模様があったことからも、縄文時代中期のものであったことは明白です。川面や他の石川谷の中位・低位段丘上の家々の下を掘れば、本当に五千年前の遺物が出てくるかもしれません。

 川面で家の建て替えるがあると、こんな話をよく聞きました(過去の話です)。

 「おい、(工事も)だいぶんと進んどるな」

 「いやあ、それがな、またえらいもん(遺跡)が出てきよったんや」

 「そらあかんで、早ようコンクリート入れてしまわんと(発掘調査で工事が遅れるぞ)」

 遺跡の発掘の多くは、バブルがはじける前の景気のよかった時だそうです。消費経済が進み、農業だけでは生活ができなくなって田や畑が売られ、住宅の分譲やマンションの建築が頻繁に行われました。そのおかげで、それまで発掘されたことのない土地にブルトーザが入り、古代の遺跡がいくつも発見されました。しかし、その多くは「調査発掘」という名目で簡単な調査がなされただけで、再び地の中に埋め戻され、その上にビルが建ち、もはや日の目を見ることはなくなりました。

 古代の土器や遺跡が発見されようが、邪馬台国が近畿や九州であろうが、我々の日々の生活に何の影響もありません。しかし、土地の所有者に負担がかからない発掘調査ができる法整備をして、祖先の遺物を残しておくことも必要です。

 爪型の入った土器を貼り合わせて、春やんのおっちゃんはそんな思いで植木鉢にしていたのだろうと思います。

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その一 古代 ―― 縄文土器のかけら

2022年01月30日 | 歴史

 東京オリンピックが開催された年(昭和38年)の夏休みだった。小学校三年生の私は、石川でさんざん鮎を追いかけて走り回り、あかね色の夕日を見ながら家(うち)に帰って来た。すると、オカンが、

 「ええ時分に帰ってきたがな、タンサン(重曹)を買(こ)うてきてんか」

 

 すでに夕方の七時近かった。普段ならしぶるところだが、オカンの手には十円玉が二枚……、タンサンは十五円……、ということは、おつりの五円は駄賃……と皮算用して……、

 「しょあないな、行ってくるわ」

 十円玉を二枚もらい、歩いて数分のタバコ屋(日用品・駄菓子なども売っていた)へ遣いに出た。

 

 夏の夕べのタバコ屋の店先には、夕涼みに、町内のオッサンが何人も集まって来るので、なんだかんだとからかわれるのが常だった。とわいえ、目の前には駄賃の五円玉がちらついている。

 走って店先に来ると、まだうっすらと明るかったためか、店先の縁台には誰も座っていなかった。ほっとして店に入り、オバチャンにタンサンを出してもらって、十五円を払い、おつりの五円玉を握りしめて店を出た。その時だった。

 「おう、お遣いか? えらいなあ」

 六十歳の半ばだったろうか、上半身ははだかで、白のサルマタ(トランクス)一つの春やんが、ふらりふらりと近寄って来た。私はどきりとして、あわてて走り去ろうとした。そのとき、 

 

 「ほれ、これやるわ!」

 しまったと思ったが、春やんなら……という安堵感があったのだろう。立ち止まって春やんが差し出した手の中を見た。ごつごつと骨ばった手の上に土の塊のようなものがのっていた。

 「今日、井戸をさらえていたらなあ、井戸の底にこんなんがようさんあったんや」

 お盆前は、ご先祖を気持ちよく迎えるために、一年間使った井戸を掃除する「井戸さらえ」というのが当時の川面の慣習だった。

 

 どうしようかととまどっている私に、春やんは、そらもっていけというふうに、手を二、三度上下に動かし、目をしくしくさせてて近寄って来た。

 「さーて、知っとるか? これはなあジョウモンシキのドキや」

 そりゃなんのこっちゃねんと思いながらも、まあくれるもんならもろとこ……。河内の人間のいやらしさ。春やんが差し出した手のひらにのっていた、変哲もない土の塊をもらってしまったのが運のつきだった。春やんのいつもの講釈が始まった。

 

 ――この川面の土地を掘ってみい。こんなんようさん出てくるぞ。これは今から四千年、いや、五千年前の中期(縄文時代)やなあ……。藤井寺に国府というところがあるねんけど、そこで発見されたのとのと同じやっちゃ。

 昔、この石川の下流にある国府(藤井寺)に縄文時代の人間が住んどった。そいつらが石川を上って来ょったんや。最初は古市(羽曳野)の城山あたりにたどり着いた。それから次はこの川面や。それから錦郡(富田林)に行きよったんや。どこも、石川の水が削った〈浸食した〉土地(河岸段丘)の低い所(低位段丘)と中ぐらいの所(中位段丘)があって、同じ条件がそろた所を上って行きよったんや。まあ、金にはならんけど、お守りくらいにはなるやろ、持って行け――

 そう言われて、もらった土の塊をしげしげと眺めてみたが、どう見ても、茶褐色の薄いレンガの欠片(かけら)にしか見えなかった。早く帰らなければオカンに叱られると思い、私は「おおきに」と言って、あわててその場を走り去った。

 駆け出しぎわに、ちらりと春やんの方を振り返った。茶褐色に染まる西空を背にして、春やんは、さっき差し出した手で股間を掻きながら立っていた。それが骸骨のように見えて、私はどきりとした。

 

 家に帰り、母にタンサンを渡し、おつりの五円は皮算用通りに駄賃にもらい、部屋に入って、灯の下で、5センチほどのレンガの欠片を眺めてみた。爪で押さえつけたような模様がいくつもあるだけで、なんの変哲もない壺の破片にすぎなかった。ポンセンが五枚買える五円玉の方が光り輝いていた。

 

 それから数年間、その土の欠片は私の勉強机の引き出しの隅にねむっていた。

 しかし、高校になって日本史の教師に見せると、「もろうてかまへんか?」と言って持っていってしまった。それっきりどうなったのかわからない。

 今考えると、あの暗茶褐色の土の欠片にあった爪で押さえたような模様は、縄文時代中期の土器に特有の「爪形文」という模様だったのではなかったかと思えてならない。

 

 その後、川面の古老から聞いた話だが、春やんは、いくつもの土器の欠片をボンドで引っ付け、隙間を粘土で埋め、内側をセメントで補強した壷にして、盆栽を植えていたという。

 粋な人だった。

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喜志村の歴史

2022年01月30日 | 歴史

【はじめに】

 以下の話は、かつて喜志村の川面に住んでいた「春やん」と呼ばれていた老人から聞いた話です。春やんはすでにこの世にはいません。

 春やんは、私に昔話をよくしてくれました。遠い親戚ということもあったのかもしれません。畑のあぜ道、夏の夕涼み、嫁入りや法事など      の集まり、ふとした時に私に昔話をしてくれました。

 話の最初はたわいもないことから始まるのですが、酔いがまわり、戦争で弾丸の破片をうけたという左目をシクシクさせだすと、きまって「さーて、知っとるか」と昔話を始めだします。

 小学生の頃は、内容もわからず、春やんの話のおもしろさにひかれて聞いているだけでしたが、中学生、高校生になって日本の歴史を習いだした頃には、春やんの話には「八幡太郎義家」や、「石川の代官所」などの言葉が頻繁に出てきたことを思い出し、単なる話好きではなく、なかなかの歴史家であったのかもしれないと思うようになりました。

 

 「日本の中心は喜志や」「歴史は語らんと歴史とちゃう」

 そう言い続けた春やんの話を、後の世に残すのも私の責任かと思ってここに記します。

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