河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

畑116 / 故に我在り

2023年11月30日 | 菜園日誌

高気圧におおわれているのだが、寒波の南下で朝からどんよりと曇っている。
それに寒いし、一昨日の雨でたいしたことは出来ないだろうけど、とりあえず8時ごろに畑へ。
一回りして椅子に座っていると、冬草がいくつか目にはいった。
鎌を手にしてしゃがみこむ。手の届く範囲の草を抜いたら今日は帰るとするか。
抜き終わってさっぱりとした先を見ると、冬草が目立つ。しゃーない、もうひとしゃがみ抜くとするか。
そんなのを繰り返しているうちに、広い通路の草を全部抜いてしまった。

椅子に座って、さっぱりと綺麗になったと眺めていると、伸ばし放題のイチジクの枝が目に入る。
農小屋からノコギリを出して、イチジクの枝の伐採。
し終わると下草がやけに目につくので、再び草抜き。
いつしかに、太子町(南河内郡)の防災無線のチャイムが11時30分を告げている。
ふと気がつくと草と枝の山。

こないだから「遊び」について考えていて、「子どもは意味も目的もない遊びの中で無意識のうち集中し、充実した時間を過ごしている」と書いた。
「遊び」に意味はないが、意味がないからこそ面白くて、その結果として何かわからない意味が生まれてくる。
そう考えると、今日の草抜きは「遊び」ではないか。
別に今日すへきことでもないし、抜いたところで次の草がまた生えてくる。が、没頭していたのか疲れはない。
ということは、仕事が「遊び」に成り得ることがあるのだ。
ただし、独りでする仕事、作家や音楽家などの芸術家、そして百姓などの独りでする仕事に限る。
だから、古文で習う「遊ぶ」の意味が「詩歌を作ったり、音楽を演奏したり、歌舞をしたりして楽しむこと」なのだ。
そうか、百姓は芸術家でもあるのだ!

一仕事終えて、ドッカリと椅子に座り考えをめぐらすと、我が心は自由に空へとはばたく。
芸術家は、自分の心のおもむくまま自由に個性を発揮し、それが評価されるかどうかは関係ない。
つまり、自分=吾(あ)の心に沿っている。
「吾(あ)に沿(そ)ふ」・・・「あそふ=遊ぶ」なのだ!
「融通無碍(仏教語=行動や考えが何の障害もなく、自由で伸び伸びしていること)」。
「天上天下唯我独尊(宇宙の中で私より尊い者はいない=お釈迦様)」
「我思う、故に我在り[デカルト=哲学者]」。
そうか、百姓は宗教家であり、哲学者でもあるのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茶話102 / どうする凡人

2023年11月28日 | よもやま話

昨日の午前中は唐辛子のクリスマスツリー作りで遊んだ(畑115 / Merry Xmas)。
他人が見れば、「ええ歳こいたオジンが何んとつまらないことしてる!」と思うだろう。
しかし、当のオジンは、つまらぬ遊びのお陰で身体も楽になったし、やる気も出てきた。
意味も目的もないつまらないことに無意識に集中し、無意識に充実感を感じる子どもの遊びのようなものが、本来の「遊び」で、意味のないことに意味があるのだ。
子どもが一日中遊んでも疲れを感じないのはそのためだ。
大人の遊びや趣味は意味・目的があるし金がかかるから、報酬や見返りや自己満足を求める。
だから、その時は集中をして楽しくとも、欲望や欲求が満たされないとストレスや疲れを感じる。
仕事を子どもの「遊び」のような感覚で楽しくしよう、などというのは土台無理な話だ。

だが、時として仕事や遊びや趣味に、子どもの「遊び」のような無意識の集中状態になることがある。
スポーツの試合の最中、感覚が研ぎ澄まされ「球が止まって見えた」「相手の動きが見えた」というやつだ。
「ゾーンに入る」とか「ゾーン感覚」と言われる「高い集中力を保ち、適度な緊張状態とリラックス状態が適切なバランスを維持できている状態」のことだ。
しかし、これは充分に練習をし自分の能力に自信を持っている人にしか出来ないことで、私のような凡人には無理な話だ。

「ならば、どうする凡人?」
簡単なことよ、唐辛子のクリスマスツリーを作ればよかろう!
まずは、金をかけない。金がかからないので報酬や見返りを求めない。
次に、誰のためなどという意味や目的もなくやることだ。意味ないことだから成果はどうでもよい。
そして、泰然自若とリラックスして一心不乱に作る。無意識のうちに集中していればよい
気付けば数時間が経過していて、わずかばかりの達成感に充分満足している自分を感じることができればよい。
そんな子どもの「遊び」の時間が、大人にも必要なのだ。

午前中に唐辛子ツリーを作って、精神・魂を持った自分と、それを形や行動にする身体が一致した状態になった。
午後からは畑に出て、エンドウの畝の準備でもするかと意気込んでいたら、ぱらぱらと雨。
仕方がない! 暇に任せてブログでも書くとするか。
「おいおい、それあったら、おまえにとっては、このブログ自体が子どもの遊びやろ!」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畑115 / Merry Xmas

2023年11月27日 | 菜園日誌

去年は十一月の中旬から畑仕事は冬休み状態になった。
それで今年は岡山の旅を入れたのだが、空豆と豌豆の植え付けがまだ終わっていない。
ということは、耕うんと畝立てとていう重労働が残っている。
そこへきて、町内外の役職があるし、寒いし、身体の調子も今一つ冴えない。
「一生青春。一生勉強」と言ったのは相田みつお氏だが、そんなのは精神的な話で、その精神に身体がついていかなければ、何もしないのと同じだ。

作家の五木寛之氏がこんなことを言っている(『新・地図のない旅 I』平凡社)。
 完全な孤独というのは本当はないのである。人は、「自分とカラダの二人連れ」なのではあるまいか。
だから「自分=精神力・魂」とともに、相棒の「カラダ=身体の健康」のことも考えてやらなければならない。
「そんなことわかってるわい!」というので、最近の老人は運動したりサプリを飲んだり、歳をとってもまだまだ働く。
ただし、もう一つ五木寛之氏の言葉を借りると(同上)、
 養生は私の遊びの1つである。若い頃は競馬に凝ったり、麻雀に熱中したりした。いまは遊びといえば、せいぜい養生といったところだ。
つまり、遊びの気持ちがなければ「自分」や相棒の「カラダ」の養生にはならないのだ。

こないだNHKテレビで『にんげんドキュメント 光れ!泥だんご』という再放送の番組を視た。
磨き上げて石のように輝く究極の泥だんご作りを習得した京大の先生が、子どもたちに作り方を教えていく中で、遊びと子どもの成長を考えるという内容だった。
結論らしきは、子どもは楽しみを求めて遊んでいるのではなく、遊んでいるうちに充実した時間を感じ、無意識のうちに楽しいのだと。
そういえば、「畑109 / どっちやねん(10/24日)」で書いた、
 ええ歳こいたオジンが独り、畑の真ん中、サンダル二つを手に持って、「あーした、あーめになーれ!」
というような遊び心が、ここしばらく失せていた。

というわけで、今日は畑へ遊びに!
まずは、ドカリと椅子に座って、何して遊ぼ?
そうだ、エンドウを植える予定の畝にまだ植わっているトウガラシを収穫しよう!
肥糧が少なくて、なかなか赤くならなかったトウガラシを抜いて、葉っぱをむしる。
ワラと落花生と綿の実を使って、子どもの頃にもどって、ああやこうやと工作。
できたのがトウガラシのクリスマスツリー。
これでいいのだ!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畑114 / グルメ

2023年11月26日 | 菜園日誌

この歳になると町内外の年相応の役がまわってくる。
岡山から帰って一週間は、会費や組合費の徴収準備でてんてこまい。
一年目にしっかりと準備しておけば二年目からは楽になると腹に決めて、畑は休職状態。
たまに菜っ葉を収穫に行くと、冬至用に作っておいたカボチャが寒さで枯れかかっている。
完全に枯れてから収穫してニ、三週間寝かせれば(追熟)美味しい冬至南瓜になる。

さて、今日は野沢菜を収穫。
意外なことに野沢菜は蕪(かぶ)で、本場の野沢温泉では「蕪菜」とよんでいる。
江戸時代に野沢温泉村のお寺の住職が大阪から持ち帰った種子を畑にまいたことで野沢菜が誕生した。
その種子というのが大阪の伝統野菜「天王寺かぶ」。
野沢菜は大阪と縁が深い野菜だ。

本場の長野県では温泉水で洗って水をきって三週間ほど漬け込むが、大阪でそんな悠長なことはしてられない。
水道の水で洗って細かく切って、塩でもんで30分ほど水分を出す。
それを水で洗って、ザルでしばらく水分をきり、ジッパー袋に入れてパラリと塩をふって冷蔵庫へ。
早い話が野沢菜の浅漬け。
生の野沢菜は繊維が柔らかいので噛み切りやすく、年寄りには良い。
こいつをご飯の上に山盛り乗せて、お茶漬けの素をふって野沢菜茶漬けに。
ぴりりとした辛さがなんとも癖になる美味しさだ。

辛いといえば岡山で山わさび(西洋わさび)の根(地下茎)と、台湾山芋(大薯、だいじょ)をもらってきた。
岡山では、台湾山芋を短冊に切って、山わさびで食べた。
ねっちょりとした山芋に普通のわさび(本わさび)の二倍ほど辛い山わさびが、これまた善く合う。
冬至南瓜にしろ、野沢菜漬けにしろ、台湾山芋の山わさび短冊にしろ、原価0円の安っぽい料理だが、年寄りにとっては絶品グルメなのである。
山わさびは北海道の山中で自生しているほど寒さに強いので、植木鉢に早速植えた。
台湾山芋は寒さに弱いので、孫たちが食べたケンタッキーの入れ物に土を入れて、今年、畑で育てた新生姜と一緒に春まで保存。
まだ冬になっていないのに来年の春が待ち遠しい。
これもまた、料金0円の年寄りのエンターテーメントなのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

101/ 老いの小文3

2023年11月21日 | よもやま話

備前の旅の初日に溝にスッポリと落ちたにも関わらず九死に一生を得たのは(前回100の記事)、閑谷学校で買った「論語みくじ」を胸ポケットに入れていたお陰ではないか。
孔子の徳(立派な行い・考え)が、我が身を守ってくれたに違いない。
 君子(くんし)は諸(こ)れを己れに求む。小人(しょうじん)は諸れを人に求む。
 (立派な人物は事の責任・原因を自分自身に求めるが、つまらない人間は他人に求める)
すべては自分自身の行いが悪かったのだと反省し、孔子の徳にあやからんと、二日目、三日目は友人の畑の草抜き。

 子(し)し曰(いわ)く、君子 德を懷(おも)へば、小人 土を懷ふ。
 (孔子先生がおっしゃった、君子たる者が常に立派な行いを心掛けると、人民は安心して土に親み、耕作にいそしむ)
草を抜いてすっきりとした畑を眺めながら、少しは君子に近づいたかと独り悦に入る。
 君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草、之(これ)に風を上(くわ)うれば、必らず偃す(ふす)。
 (君子の徳は風だ。小人の徳は草だ。草の上に風が吹けば、人民は必ず君子になびき従う)
まる一日草抜きをした畑の中で、少し冷たい晩秋の風に坊主頭を吹かれて、またもや君子は独り悦に入る。
 鳶の秋 坊主頭に陽の暮るる

三泊四日の最終日、昼前に帰路につくというので、帰り支度をしてテレビを見ていると、姫路市家島にある坊勢島の「しらす丼」の特集をしていた。
おお、美味そうではないか、昼飯は、この「しらす丼」にしようと君子の我がまま。
美味い店を一軒知っていると友人が言うので、JR姫新線にそって姫路へ。
途中、三日月、上月という、なんとも情緒ある駅で休憩をとり、12時過ぎに妻鹿漁港にある天晴水産直営の「みのり家」に着く。
入口のメニューを見て、「しらす丼」の中と味噌汁と決める。丸亀製麺式の御膳を持ってカウンターに並んで注文するセルフ形式。ほぼ満員ちかかったが、なんとか座れそう。
丼鉢の見本が小・中・大・メガとあるが、小でも小食の吾にとっては普通の丼鉢の大きさで、果たして食べきれるかといぶかる。
カウンターの上には様々な出来合いのおかずが並んでいる。
フグの野菜炒め。美味そうではないか! 思わず膳に乗せる。
坊勢サバのみぞれ煮。美味しそうだ! 思わず膳に乗せる。
レジで小ご飯と味噌汁を注文して支払い。
もはや「しらす丼」は頭にない。いとも簡単に「君子は豹変する」のである。

友人はというと、目的通りの「しらす丼」の大。
上に乗った卵の黄みとしらすが合って美味そうな・・・。
・・・いやいや、「君子は和して同ぜず(=君子は他と調和するが、むやみやたらに同調はしない)」でなければ・・・。
しかし、やはり「しらす丼」にすべきだったか・・・と君子の心は揺れ動く。
 君子は豹変す。小人は面(おもて)を革(あらた)む。/『易経』
 (立派な人物は過ちがあればすぐに改めるが、つまらぬ人間は表面上は変えたように見えても、内容は全然変わっていない)
君子の化けの皮は見事にはがれ、小人に戻る。
 小人の馬脚も尻尾も薄寒し

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする