河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

その26 幕末「松陰一人旅」②

2022年10月09日 | 歴史

 吉田松陰が富田林に向かうことになる理由を先に述べておく。
 嘉永五年(1852)富田林の造り酒屋佐渡屋と泉州熊取の大庄屋だった中家との間で縁談の約束が取りかわされた。
 ところが、両家との間になんらかのトラブルが生じてもめ事になった。そこで、佐渡屋は、中家当主の中左近が尊攘派学者として大和五條の森田節斎と知り合いであることを知り、節斎に両家の仲裁を頼んだ。
 佐渡屋徳兵衛の叔父増田久兵衛が五條に住んでいた関係から、森田節斎とも親交があったようで、節斎もこころよく引き受け、2月14日に富田林へ行くと約束をしていたのだった。

 さて、話を日記にもどす。

2月13日 雨 
午前1時頃に晴れる。竹内の宿場を立ち、今市(葛城市)を経て御所に着く。御所は公領なり。高取藩の植村出羽守に託されている。
竹内から今北(御所市)に着く。土地はがらんとしていて、殊に風が強い。詩を作った。
 風は蓑笠を侵し
 残寒に粟が肌に生ず
 春半ばの和州路
 花柳は未だ詩に入らず
 独り行くのも況(いわん)や生路(せいろ=人生)
墨子は数(しばし)ば岐(ちまた)に泣いた (「中国の大思想家の墨子でさえ、世間の非情さに何度も泣いたのだ」の意か?)。
今北より三在(五條市)に着く。四方の山々が少しずつ近づいてきた。またもや土地はがらんとして何もない。
五條は代官の内藤杢左衛門(もくざえもん)が治めている所である。
森田謙蔵[当時43歳]を訪ねる。謙蔵は字名(あざな)で節斎と号している。江幡五郎の師である。謙蔵は堤孝亭[医師で森田節斎の弟子]の家に行っていたので、その家に行った。
この日の行程は六里(24k)。昼過ぎには到着した。
謙蔵に五郎から言付かったことを語り、また、謙蔵の論じるところを拝聴する。夜中まで話した。とても愉快であった。結局、その家に泊めてもらう。
 ※内藤杢左衛門=文久3年(1863)に天誅組が襲撃した時の代官は鈴木源内。その二代前の代官。
 ※江幡五郎=江戸で松陰と知り合う。南部藩のお家騒動で五郎の兄が殺害されると、兄の仇討ちをするために南部へ戻ると言う。松陰はそれを手助けするために脱藩してしまう。
 ※森田謙蔵=節斎。医師、儒学者。歴史家の頼山陽に秀才と激賞された。自分の弟子が次々と投獄されたことから倒幕運動に加わる。しかし幕府に疑われ、京の六角獄舎で毒入りの料理を口にし死亡。57歳。

2月14日 晴 
森田節斎先生に付き従って富田林の一富豪の中村徳兵衛の家に行く。増田久兵衛[佐渡屋徳兵衛の叔父]も同行する。
五條を立って千早峠を登る。山は非常に険しい。千早城はその中腹にあった。金体寺・赤坂・嶽山(だけやま)などの砦が、前に並んで、連珠のごとく守りを固めている。
山を下ればすぐに千早村であった。村を過ぎて、富田林に着いた。
行程は六里(24k)。大和を出て河内に入る境が千早の峰々で、昨日通った竹内越えまで連なっている。
富田林は800戸。河内の国は石川を境にしている(?)。すなわち、大和川の上流である。上河内・下河内という(?)。
 ※「河内の国は石川の下流にある大和川を境に、上河内(南河内)と下河内(中河内)に別れている」の意か?
甲斐庄喜右エ門[七代目正博で旗本]が楠氏の子孫として、河内錦部郡4000石を領しているという。

③につづく

コメント
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