本宮山の麓ぐらし

山に育てられ、土と遊ぶ・・・無農薬、無化学肥料で米さん、野菜さん、オリーブさんに育てられる毎日!!

人は何のために生きるのか

2020-11-10 04:45:46 | 今日の悟り


聖書では、「人間は神様をかたどって創られている」と書かれている。(創世記1章26~27節)

しかし、実は人間は姿形が神様に似せて作られているだけではないという事が御言葉を聞いて解りました。



我々の姿形が神様の似姿になっている理由がやっと理解できた。

単に、姿が似せて作られただけではないのだ。

神様と同じ目的で生きるように作られているのだ。

御言葉では次のように述べられている。

「我々は神様と同じように成長しているので神様と同じ目的で生きないと正しい目的で生きられない。そして、神様は人々の救いのために生きているので、同じように人々の救いのために生きなければ正しい方向に向かって成長できない。正しい方向に向かって成長しなければ霊魂はいずれ虚無感を感じるようになる。何のために生きているのだろうかと思うようになる。」

そして

「霊魂の悩みが肉体まで伝わってくる。それで、自分は何のために生きているのか肉体まで悩むようになる。生きている目的、生きている理由が解らなくなる。」

人々を救うために生きなければならないのだ。

それに向かって生きなければ、虚無感を感じ、何のために生きているのか解らなくなるのだ。

そのための成長、霊魂を成長させなければならない。

そこに向かって生きることが唯一の目的である。

非常にシンプルである。

これが答えである。

人は何のために生きるのか?

この問いの答えである。

RAPT有料記事はこちらから

聖霊に満たされるとは

2020-11-06 01:50:29 | 今日の悟り


信仰を守っている人の一つの大きな目標は「聖霊に満たされる」ことではないでしょうか。

ラプトさんは聖霊に満たされるときは、「爆発的な喜びがあり誰でも気づくことが出来る」と仰っています。

聖霊に満たされることは非常に難しく、私自身はまだ爆発的な喜びは感じることが出来ていません。

毎日の祈りの中で、「自分の中にはまだ、利己心、競争心、怒りの気持ちなどがあるので、これらの心の中の罪を無くすることが出来ますように!」と祈っていますが、まだまだ心のどこかに残っていて、毎日の生活の中で頭をもたげてきます。

先日聖書を読んでいて、ひっかったイエスの言葉。

「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話すものは、自分の栄光を求める。・・・」(ヨハネによる福音書7章16節)

ここまで読んで、「あっ、自分の事だ!」と気づきました。

ツイッターなどのSNSで言っている言葉が唯、自分勝手に言っているだけで、毎日聞いている「御言葉」を伝えていないことにハッとさせられました。

自分の場合、利己心はお金よりも、人に認められたいという名誉欲のほうが強いと思いますが、そういったものが、自分勝手な言葉となって、SNSでの言葉となっているのでしょう。

毎日、心の中の罪を無くせるように祈りながらも、実際の行動ではそれが出来ていなかったのです。

同時に、「肉性をどこまでもなくしなさい。」という御言葉が思い浮かびました。

過去の御言葉を調べてみると、「肉性(欲望や感情)の強い人は聖霊を受けられず、聖霊を受けられない人の祈りは叶えられない。」との言葉がありました。

肉性を無くすためには、「毎日祈りの中で、自分の肉性を無くすと決心し、常に神である私に頼り、」
「毎日、自分の罪をきちんと悔い改めなければならない。」とありました。

肉性を無くすることが出来ますように!

ラプトブログの有料記事、御言葉はこちら


祈りは叶えられる2

2020-10-22 02:17:28 | 今日の悟り


信じるか信じないかは別にして、RAPTブログには神様という言葉が頻繁に出てきます。

というより、特にRAPTブログの中では有料記事の「御言葉」が非常に大事で、むしろ伝えたいことはこちらなのです。

神様について知らなければ幸せになることは出来ません。

なので、御言葉では神様が主役なのです。

冒頭に述べたように、神様を信じる人もいれば信じない人もいるわけで、「神様」という言葉を使わずに現在の科学で理解できるように説明できれば、その存在を誰でも信じることが出来るでしょう。

RAPTブログの中の読者対談で、「人間は精密なロボットである」と言われています。それはこちら

そうであれば、現在のインターネット時代と同じように、PC、スマホで様々な情報にアクセスできるのと同じように、「祈り」という、脳から出た電磁波がサーバーに繋がって、いわゆる「ひらめき」や「構想」を答えとして得ることが出来る、と考えれば納得がいく。

ただし、「御言葉」では神様に疎通することは簡単ではなく、罪を悔い改めて心を清め、祈りなどの義の条件を立て続けなければ神様に繋がることは難しい、と言われています。

これも、サーバーに繋がるためには脳から出る電磁波の周波数や暗号方式が決まっていて、条件をクリアしなければ脳からの周波数が合致しないように作られているのかもしれない。

このように考えれば「神様」という信じる信じないという世界ではなく、科学的に説明が出来るし、人々にも納得させやすい。

そしてさらに飛躍して考えれば「黒騎士の衛星」というのが存在している。

13000年前から存在していると言われている。

この衛星から発信された電波を解析すると、13000年前の地球から見た星図を表しており、うしかい座イプシロン星を向いていたという事なのだそうだ。

この衛星がそのサーバーであると考えればどうだろう。

有史以前には超高度文明が発達していたという説もある。それはこちら

現在の科学では想像できないほどの高度文明であれば、人間の創造目的や設計思想を把握していたかもしれず、一人一人の脳からの電磁波を常に受信し、性格、行動、考え、心情や遺伝子情報までも把握して、その人間が何をすれば成功し、最も幸せになれるのかのデータが保存されている可能性もある。

サーバーに繋がることが出来た「祈り」は、次にサーバーから全人類へと電磁波が送られて、その「祈り」を叶えるための行動をとるように各人の脳に伝えられる。

と、ここまで書いてきて、じゃ、このサーバーを作ったのは誰だ?という事になる。

人間なのか、神様なのか?

やはり、「神様」という言葉が出てきてしまった。

神様に祈って答えをもらおう!


愛について

2020-04-24 04:19:00 | 今日の悟り


愛とは何か?

長い間というか、今まで”愛”について本気で考えることはありませんでしたし、愛するとはどういうことなのか、言葉にしてはっきりと理解することも、してきませんでした。

なんとなく、「命をかけてまで守りたいもの」なのではないかと漠然と考えていた程度でしたから、RAPTブログの御言葉を聞くようになって、初めて”愛”について教えてもらったような気がします。

「今頃知ったんかい。遅いよ!」と言われるのは覚悟の上ですが、事実だから仕方ありません。

聖書には愛について、「心と思いと精神を尽くして神様を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」と言われています。

ただ、愛について良く解っていない状態で愛そうとするので愛せない。

御言葉では「愛というのは相手の心情を慮って、相手の心情を察して、相手が喜ぶことを命がけでやることが愛である」と仰いました。

言葉というのは凄いですね。

こうやって言葉にすると、そうだよな!と、具体的に頭の中でイメージ出来るようになります。

シンプルで解りやすいのですが、実際これを実行しようとすると大変難しい。

「隣人を愛しなさい」を実行しようとすると、出会う人の全てに対してこれを実行しなければならない。

今の自分にそれができるのか、自信は全くない。

まさに、神様の道は狭い道に違いない。


この御言葉を知った時は「これが究極の愛」だと思っていたが、後の御言葉でさらに次元の上がった愛の表現が出た。

とにかく、次元はどんどん上がっていくのだ。

ラプトさんが仰った愛についての御言葉。

「自分が何をしたら幸せになれるかを祈り求めたのではなくて、神様が何をしたら最も喜ぶのかを祈り求めた。」

その結果、神様はラプトさんが最も幸せになれる道を示してくださった。

両方が相手の事を考えて、

「私は神様が何をして欲しいと願っているのかというのを求めたし、神様は一番私が幸せになれる道を教えてくくださった。」

ラプトさんの祈りに対して、神様は何をしたら喜ぶよと答えたのではない。

両方が互いに相手の事を考える”愛”

こんなことは誰も教えてくれなかった。









聖書は書き換えられているのか?(霊的な立場から)

2020-03-13 21:49:45 | 今日の悟り


聖書で良く問題にされるのが、書き換えられているのではないか?という問題です。

確かに、書き換えられているのであれば、間違った方向へと導かれていく可能性が高いですよね。

RAPTブログを読んでいる方ならば理解できると思いますが、「聖書を何度も読んで悟りなさい」と言われます。

他の聖書についての解説書は読まずに、RAPTブログの御言葉を聞いて聖書を読めば悟ることが出来ると言われています。

3月10日の朝会の御言葉では、

神様に意識を向けた人の霊魂は神様のところへ行って、神様の霊から影響を受け、世の人に意識を向けた人の霊魂は、
世の人のところに行って、世の人の霊から影響を受ける。だから世の人に意識を向けるのではなく、
絶えず神様に意識を向けて生活しなさい。

という内容でした。

神様の事を意識して祈っていると霊魂が神様のところに行って、そして神様を感じる。

RAPTさんは、「神様を感じたときに神様はこういう方だと、なんとなく感覚で解っていたから、だから聖書を読んだときに”これだ”と思った。」と仰っています。

この御言葉を聞いていて、悟ったのは、このことによって聖書が本物であると解るということでした。

極端に言えば、聖書が書き換えられていても問題ないということです。

どういう事かというと、我々が聖書を読んだときに悟れるかどうかが問題で、神様に常に意識を向けていれば神様がどんな人か

感じて解る。

そのうえで聖書を読めば、これこそ神様の言葉だと理解することが出来るし、悟ることが出来る。

悟ることができた言葉は本物であるし、悟れなかった言葉は偽物であるか、まだ我々自身の次元が低いので

悟ることができないのかのどちらかなので、何度も読んで悟るかどうかで解る。

ということで、私の結論は書き換えられていても問題ないということになります。