本宮山の麓ぐらし

山に育てられ、土と遊ぶ・・・無農薬、無化学肥料で米さん、野菜さん、オリーブさんに育てられる毎日!!

私が仏教を捨てた理由(4)

2019-01-12 14:40:53 | 伝えたいこと
皆さんは葬式や法事の時に僧侶によって唱えられるお経の意味が解りますか?

私にとっては基本的にあまり気持ちのいいものでは有りませんでしたし、唱えたからと言って何か良い事が起きたという経験も有りません。

創価学会や日蓮正宗では「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげいぎょう)」、

うちは浄土真宗でしたから「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」を唱えていました。

どういう意味でしょうか?

こちらから転載
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「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」との違いは何なのでしょうか。

先ず両方に共通しているのが「南無」という言葉です。これはサンスクリット語で「~に帰依する」という意味だそうです。

で、阿弥陀仏はもちろん「阿弥陀」という「仏様」のことで、「妙法蓮華経」というのは「法華経」のことです。

法華経 – Wikipedia

なので、これらのお経の意味はそれぞれ「阿弥陀仏」と「法華経」をひたすら信じ、敬うから救ってほしい、ということになります。

ネットを調べてみると、「南無は感嘆詞と思えばいい」ともありましたので、「ああ、仏様。法華経」といってすがるような感じなのでしょう。

しかし、この「阿弥陀仏」や「法華経」が本物の神様であれば特に問題はないのですが、当然、これらは本物の神様ではありません。悪魔です。

先ず「阿弥陀」ですが、これは大乗仏教の如来の一つだそうで、「大乗仏教」といえばかの悪名高き「密教」も含まれています。つまり、「密教」の神様でもあるわけですね。

大乗仏教 – Wikipedia

「密教」は悪魔教なわけです(詳しくはこちら)し、悪魔教の神が本物の神であるわけがないので、当然、この「阿弥陀」は悪魔ということになります。



なので、「南無阿弥陀仏」と唱えると、「ああ、悪魔よ。あなたを敬います。あなたに帰依します。どうぞお救いください」と呼びかけるのと同じことになります。

果たしてあなたはこんな言葉を口にしたいですか。私としては、この言葉をここに書くだけでも気分が悪くなりました。

一方の「法華経」ですが、「法華経」には「上行菩薩」という菩薩が登場します。で、この「上行菩薩」が何者なのかというと、恐ろしいことにかの「サナト・クマーラ」なのです。ウィキペディアにこう書かれてありました。


----------------(以下、ウィキペディアより転載)

神智学を日本に紹介した三浦関造はサナト・クマーラと法華経に登場する上行菩薩を同一視している。

----------------(転載ここまで)

この「三浦関造」が何者なのか調べてみたところ、ウィキペディアではキリスト教の牧師となっていて、その宗派は「メソジスト派」。

三浦関造 – Wikipedia

「メソジスト派」といえば、かの悪魔崇拝者ジェイ・ロックフェラーと同じ宗派ですね。

しかも、この三浦関造の書いた著書の中には「真理の太陽 綜合ヨガ (竜王文庫 1954年)」とか「聖シャンバラ (竜王文庫 1963年)」とか「マニ光明ヨガ (3版 竜王文庫 1974年7月)」なんてものがあります。

ヨガとかシャンバラにこうもこだわるということは、この人が悪魔崇拝者である可能性大です。つまり本物のクリスチャンではないということです。

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転載ここまで

どちらも「ああ、悪魔よ。あなたを敬います。あなたに帰依します。どうぞお救いください」と呼びかけているということです。

とんでもないことです。

皆、知らずに唱えているのです。

これだけでも、仏教が悪魔崇拝と言われても仕方がないですね。

「梵天勧請」話にしても、お経の話にしてもこれ以上関わりたくないと考えるようになりますよね。

以上

アナスタシアについて(補足)

2019-01-07 22:13:10 | 伝えたいこと
前回の記事では本の出版目的について、8巻以降の内容を注視すると書きました。

それはなぜかと言いますと、本の中に”闇の勢力”、”光の勢力”と出てきます。

この”闇の勢力”について何者なのかはっきり書かれていません。

意識的に曖昧にしているようです。

おそらく、はっきり指摘すると命に危険が及ぶ可能性が有ったのでは?と考えます。

既に出版はされているので8巻以降または最終巻にはっきり指摘されているのかどうか?

この”闇の勢力”についてはっきり指摘するのかどうかでこの本の出版目的もはっきりするのではと考えます。

つまり、ラプトブログによって既に、この世界の構造ははっきり示されています。

あの世(霊界)と この世の存在、

そして、霊界には神様と悪魔(ルシファー、サタン)が存在し、この世では悪魔崇拝者(イルミナティ)がサタンから情報を受け取ってこの世を支配している。

悪魔崇拝儀式の中で生贄を捧げて換わりに情報を受け取る。

この世はイルミナティに支配されています。

信じられないかも知れませんが事実です。

ラプトブログはこちらから

ここからは推測ですが、

世界を支配したイルミナティですが、その支配から逃れている部族がこの地球には有るのではないでしょうか。

いわゆる、少数民族といわれている人達やアナスタシアのヴェドルシア人達です。

高い次元の智慧を持っているアナスタシアがこのことを知らないはずは有りません。

アナスタシアが霊界について、悪魔崇拝者について言及するのか非常に興味が有ります。

6人の神官が何故心変わりして人々を支配するようになったのか。

そして、最後の最後に”闇の勢力”についてはっきり言及するのでしょうか。

もしも、はっきり指摘しないのであればこの本もイルミナティ側が出版したのではないかと考えられます。

悪の元凶(サタン、イルミナティ)を世の人々に知られないようにするために、”一族の土地”を持たせて満足させて終りにしようとしているのかもしれません。

アナスタシアが言っていることはほぼ真実であると思います。

ただ、イルミナティに洗脳された人類がアナスタシアの次元に到達するのは難しいのではないでしょうか。

ラプトブログにその答えが有ります。

是非、一般記事のみではなく有料記事も読んでみてください。

一般記事はいわゆるラプト理論について主に記されていますので、この世界の構造(あの世とこの世の関係)について知りたい方はこちらを読んでください。

有料記事は信仰を持った人に対する神様からの御言葉について記されていますので、どうしたら幸せになれるのかについて知りたい方は必見です。

私が仏教を捨てた理由(3)

2019-01-07 03:19:38 | 伝えたいこと
久しぶりの更新です。

私が仏教を捨てた最も重要な原因はラプトブログに有りました。

それは仏教が悪魔崇拝であるということ。

こんな事を言うと「え?何を言ってんの。頭がおかしくなったんじゃないの?」と思われるかもしれません。

私も最初はそう思いました。

日本人のほとんどが仏教徒(信仰しているかどうかは別として)だと思われますし、事実自分の廻りの人間はほぼ仏教徒です。

そういう中で「仏教が悪魔崇拝」などとはなかなか言い出せません。

私もまだ、ほんとに親しい人間にしか言ってません。

ラプトブログの中で”梵天勧請”という話が有ります。

以下こちらから転載
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ブッダが最初に説法をしたのは開悟して実に5週間後であった。 彼はその間菩提樹などの樹下にいたのである。

開悟の後最初の一週間彼は菩提樹下で解脱の喜びと楽しみをかみしめながら座禅していた。

第2週目にはアジャパーラ榕樹(バンヤン)の下に移り7日間を過ごした。

第3週目にはムチャリンダ樹の下で7日間を過ごした。その時大雲が起こり7日間雨が降り寒風が吹いた。

第4週目には ラージャヤータナ樹の下で7日間を過ごした。

第5週目には アジャパーラ榕樹の下に移った。 この時<梵天勧請>という現象(奇跡)が起こったと伝えられる。

即ち梵天(ブラフマー神)が出てきてこのまま静観したまま死のうとするブッダに三度も生きて説法をしてくれるよう懇願したというのである。

梵天(ブラフマー神)の三度にわたる熱心な懇願によって、ブッダはようやく説法を始める気になったというのである。

梵天(ブラフマー神)とは宇宙の創造神であり、ヴェーダ時代のインドの最高神である。 <梵天勧請>説話を記した原始仏典もある(「説法の要請」相応部経典6・1・1)。

この物語は大乗仏教でブッダが神格化される前に既にブッダを神格化しようとする動きがあったことを示唆している。

その経典にはブッダの悟りと説法躊躇の理由が簡潔に述べられているので興味深い。 経典の述べていることを見よう。

「わたしの悟り得たこの法は深遠で、理解しがたく、さとりがたい。 静寂であり、卓越していて思考の領域を越える。 微妙であって、ただ賢者のみよくそれを知ることができる。

ところが、世の人々は五つの感覚器官の対象を楽しみとし、それらを悦び、それらに気持ちを高ぶらせている。

それらを楽しみとし、それらを悦び、それらに気持ちを高ぶらせている人々にとって、実にこの道理、即ちこれを条件としてかれがあるという縁起の道理は理解しがたい。

また、すべての存在の静まること、すべての執着を捨てること、渇欲をなくすこと、欲情を離れること、煩悩の消滅すること、それが即ち涅槃であるというこの道理も理解しがたい。

もしわたしが法を説いたとしても、他の人々がわたしを理解してくれなかったらそれはわたしにとって疲労であるだけだ。 それはわたしにとって苦悩であるだけだ、と。

・・・ わたしが苦労して悟り得たものを、いま人に説いて何の得るところがあろうか。

貪欲と憎悪とにうち負かされた人々にとって、この法をさとるのは容易ではない。

常識の流れに逆らい、精妙で、深遠で、理解しがたい。微妙なこの法を、貪欲に汚され、幾重にも無知の闇におおわれている人々はみることがない。」

ブッダはこのように考え、人々に説法はしないでそのまま涅槃に入る(死ぬ)か、このまま静観しようとした。

その時宇宙の最高神である梵天(ブラフマー神)が現れブッダにあなたがこのまま説法をしないでいると世界は闇になる。

世の中には優れた能力を持った人もいるからどうか説法を開始して下さいと懇願する。

ブッダはこの梵天の熱心な懇願を三度も受けて説法を開始する気になった、と言うのが梵天勧請説話である。

このドラマチックな梵天勧請説話は仏教徒に一般的に信じられている。

しかし、「三明経」という原始仏典ではブッダは梵天(ブラフマー神)の存在と信仰を明快に否定している。 この方がその後のブッダの一貫した思想と矛盾しない。

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転載ここまで

つまり、ブッダが悟りを開いた時には「私が悟りえたこの法は深遠で理解しがたい」ので人々には理解出来ないといっています。

これを知ったときに最初に思ったのが、”悟る”というのは複雑怪奇な事をシンプルに解りやすく説明できるようになったということではないのか?

ほんとに悟ったの?と思ったほどでした。

また、”梵天”というのは”ブラフマー神”のことで悪魔の事です。

ラプトブログはこちら

とにかく、悪魔に勧められてブッダは説法を開始し始めたということです。

つづく
私が仏教を捨てた理由(4)