前回、手向けるという言葉の二つの意味を考えました。
さらに、幣(ぬさ)とはなにかということが分かり、菅原道真公の有名な歌の解釈ができました。
話を元の龍田川事件に戻します。
古今和歌集の中の「龍田川事件」を改めて説明します。
在原業平さんの有名な歌「ちはやぶる 神代も聞かず」が天皇の御製の「紅葉流る」というフレーズを傷つけるのではないかという懸念が生じました。
それを払拭するために、古今和歌集の秋歌下の段の後半に様々な解釈の歌が並べられています。そのことを「龍田川事件」と呼びました。
前回までの3つの歌は、風の神様である竜田姫を歌って、紅葉が流れているのは水面や水中ではなく、風の中、すなわち空中を流れているという解釈を示していました。
次に続く歌はどうでしょう?
【古今和歌集 秋歌下301】
白浪に
秋のこのはの
浮かべるを
あまの
流せる
舟かとぞ見る
一見すると、紅葉が流れる場所が風の中ではなく水面(みなも)に戻ってきたように思えます。
「あまの流せる舟」は、岩波文庫では、「広い海(あま)に漂流している舟を連想したもの」という解釈が示されています。
ネットでは「あま」=「海人」として漁師の舟が波に流された様子としているものを見かけました。
ずっと川の流れの歌が続く中で「あま=海」の話が出てくるのに少し違和感を感じます。海と紅葉は、収(おさ)まりが悪いですね。
ここで、もう一つの解釈として「あま=天」の可能性を検討してみましょう。
「あま」を天=空だとすると、「白浪」は水面の波ではなく、空に浮かぶ雲の比喩となります。
雲のたなびく青空を背景に、木の葉(紅葉)が風に舞う様子を下から見ていることになります。
(秋の亀戸香取神社です。木の葉がひとひら船のようにゆらゆら舞っていました。残念ですが、写真には写っていません。)
(小石川後楽園の紅葉です。)
次に続いていくのは、水の流れの歌です。直前の風の流れの歌の続きが終わり、水にも風にも解釈できるこの歌を挿入したのではないでしょうか。
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雲を波に喩える歌は、万葉集にある柿本人麻呂さんのものが有名です。
【万葉集 巻第七 柿本人麻呂 天を詠める】
天の海に 雲の波立ち 月の船
星の林に 榜(こ)ぎ隠る見ゆ
星の林という表現がイメージしにくいですね。
「林(はやし)」は、「生(は)やす」から来ている言葉です。「囃(はや)し立てる」という言葉が残っているように、たくさん生えて賑(にぎ)やかな様子を表します。
「星の林」という表現は、星がたくさん集まった天の川に関係していると思います。
万葉集巻第十には七夕の段があり、97首の七夕についての歌が収められています。
そのうち37首が柿本人麻呂歌集から取られたものだと書かれています。
万葉集における七夕は、彦星様が年に一度だけ天の川を渡って織姫様の所へ船でやってくることになっています。(中国の七夕は彦星様が橋を掛けて天の川を渡ってきます。)
彦星様を月人と呼んでいる歌があります。月を船に喩えるのはそれに適(かな)っています。
この歌は万葉集巻第七の冒頭にあり、他の七夕の歌と離れていますが、七に掛けているとこらから、七月七日、七夕の歌だと思われます。
月の暦(こよみ)である旧暦七日の月は上弦の半月です。
天の川が一番よく見えるのは、夏の星座である射手座の方角です。比較的明るい天の川銀河の中心が射手座の方向にあるからです。
次の写真を見比べれば「星の林」が天の川を指していることがイメージしやすくなるのではないでしょうか。
天の川は暗い夜空にしか見ることができません。月が出ていると天の川は見えなくなります。
天の川を中心に夜空の全体を「星の林」と表現できるほどの満天の星空に明るい月は無いはずです。
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小中学校の理科の授業を思い出してみましょう。
上弦の半月である月齢7日の月は、日没の時に南の空に一番高く上がっています(南中と言います)。
その時には、射手座の方向の天の川銀河の中心は、東の空から昇ってきたばかりです。
銀河の中心が南中するのは深夜です。その時に上弦の半月は船のような形になって山影(やまかげ)や水平線に沈んでいきます。 沈みかけの上弦の月は遠い大気に遮られて弱々しい赤みがかった光を放つだけになっています。
同時に月明かりに邪魔されずに満天の星空が輝き出します。
月が地平線や山の稜線に隠れてしまえば、天の川や満天の星々の輝きが更に増します。
満点の星々を星の林と見立てると、真上に見える天の川は広がった枝葉の切れ目であり、そこから海と空を望むことができます。
(千葉県館山市の洲崎神社から見た東京湾の入口です。海(あま)と天(あま)がひとつに見えます。)
山際に近づきながら雲に隠れたり、また現れたりする月は、木の幹と幹の隙間から見えたり隠れたりする船です。
最後に月の船が山の稜線に沈んで見えなくなると、満点の星空が輝きを増します。
「天の海に」の歌は、このような光景を歌っていることが分かります。
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天の海に 雲の波立ち 月の船
星の林に 榜(こ)ぎ隠る見ゆ
【超訳】
雲の波をかき分け
岸に近づいてきた月の船
さっきまで海辺の林の中の
枝葉の切れ目から見えていた船は
木々に隠れて見えなくなった
ふと見上げると
満天の星々の光が
木洩れ日のように
降り注いでいる
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また一つ有名な和歌の謎が解けました。
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万葉集の中でたくさんある七夕の歌を見ていて気が付いたことがあります。
天の川の「川」の意味で「漢字」の「漢」の字を当てているのです。
確かに「漢」はさんずいですが、川の意味があるということは知りませんでした。
唐の都の長安(西安)の少し南の辺りから流れてきて武漢で長江(揚子江)に合流する川を「漢水」と言います。この漢水周辺が漢民族の発祥の地とされています。
漢民族や漢字の漢は、川の名前だったんですね。
川を見る角度によって縦になった天の川と漢水が繋がって見える場所と時間帯があるはずです。
元々七夕の伝説は中国のものだったと考えられています。中国から日本にやってきた人々が天の川に故郷の漢水をなぞらえていたのかもしれません。
万葉集では、織姫様が彦星様を待っている場所を安の川原と呼んでいます。
漢水は武漢から上流に遡っていくとほとんどが山の間を縫って流れています。途中何箇所か平野があり、その一つに安康市があります。安康市が安の川原なのかもしれません。
ウィキペディアによると、漢水は地形の関係で下流から船で川を遡れるのは安康市までだそうです。上流に滝でもあるのでしょうか?
彦星様は漢水の下流または更に長江の下流から船で行ける安康までやってくるのかもしれません。
一方の織姫様も安康に住んでいるのではなく、どこからか彦星様が船で来られる安康までやってくるのかもしれません。
周王朝や秦、漢、隋、唐の都であった現在の西安、咸陽周辺から安康までは約300km、徒歩で10日、馬に乗れば6日間くらいかかります。
都に幽閉されている織姫様が年に1度七月の一月間だけ外出が許され、安康まで行って彦星様を待ちます。
彦星様は、日本との繋がりの深い呉の国のあった長江河口の上海辺りに住んでいて、七月七日に間に合うように船で漢水を遡ります。武漢経由の距離は1,500km程度なので、昼夜進む船だとしても半月は掛かリそうです。
彦星様もお休みを一月しか取れないとするととんぼ返りで戻らないと間に合いません。織姫様と彦星様が一日しか一緒に過ごせない理由はそういうことなのかもしれません。(以上、妄想タイムでした。)
日本神話での安の川原は、重要なことが行われる場所の名前です。もしそれが安康市のことであれば、高天原がどこかという問の解答候補の一つになるのではないでしょうか?
(安の川原は、何かトラブルがあったときに神々が相談に集まる場所です。)
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もしも、柿本人麻呂さんが彦星様だったら
日本に来ている彦星様は、長江の河口から長江と漢水を遡る前に、海を渡らなければいけません。海に橋を掛ける訳にはいきませんから、船で行くことになります。
中国の七夕では天の川に橋を掛け、日本の七夕では船を使うのはその違いなのかもしれません。
「天の海 星の林」の歌が(天の)川の話ではなく海の話になっているのも事情は同じです。
但し、柿本人麻呂さんが渡来人や帰化人だったという話はいくらネット検索しても出てきません。
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ここで使った画像は、自分で撮ったものと、フォトACさんからもらったもの、グーグルマップの画面、ウィキペディア、国立天文台のホームページからも引用していると思います。
(いつも、分からなくなってしまうんですよね。)