仕事と生活の授業(続き)

前に作ったホームページは、あまり読まれないようなのでブログで再挑戦です。

78.天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ  助詞「に」の魔法

2024年12月28日 | 和歌 短歌 俳句
 天海丹 雲之波立 月船
  星之林丹 榜隠所見

 天の海に 雲の波立ち 月の船
  星の林に 漕ぎ隠る見ゆ


 星の林「に」とあります

 「に」は、元来、場所を示す助詞です。
 動かない一点を示すことから、目標や方向を指す場合もあります。
 直前の名詞を後に続く「動詞」に繋げます。
 直前の名詞を後の「名詞」に繋げる時は、「の」になります。
 「に」と「の」は、母音交換された同根の言葉です。

 この歌の「に」は、後ろに続くいくつかの動詞のうち、どこに繋がるのでしょう。

───────────────
 ここの「に」が「隠る」に掛かるとすると、
 「母親の背中に隠れている」という時のように単に場所を示していることになります。

 ところが、月の船は明るすぎて、近づくだけで、天の川を始めとする星の林を消してしまいます。
 とても隠れるどころではありません。


───────────────
 ここの「に」が「漕ぎ」に掛かるとします。

 すると、「星の林に向かって漕ぎ進む」と言う意味になり、月の船と天の川の間に距離があることになります(星の林を消さずに済みます)。
 この時、「に」は方向を示す助詞になります。

 月齢二十三日の下弦の半月が夜半に登ってきて、夏の夜半には南中する天の川を追いかけるかたちになります。
 月と天の川がある程度離れているので、星の林を消さずに済むのかもしれません。
 なので、この歌は下弦の半月が天の川を追う姿を歌っているのではないか、と考えました。


 ところが、どうやらこの歌は七月七日、七夕の夜空を歌っていると考えられるため、ここでの月は月齢七日の上弦の半月になります。
 (七夕については前回のブログを見てください。)

 上弦の半月は夕方に南中し、そのころ登ってくる天の川に追いかけられる側になります。
 つまり、「月の船に向かって星の林が追う」ことになります。
 なので、ここの「に」は「漕ぎ」に掛かるのではありません。

────────────────
 天の川が南中して見頃になる時間に上弦の半月は山際に隠れつつあり、月明かりが衰え、星明かりが鮮明に見えてきます。


 この歌の最後は「所見」と書いて、多くの人が「見ゆ」と読んでいます。「所」を付けて、「見る」ことを抽象化しているのだと思います。
 つまり現実に見ることではなく、仮想として「そのように見える」という意味に取ることができます。

 わざわざ「所」という語を使っているので、「星の林に」の場所を示す格助詞「に」は、「隠る」や「漕ぎ」ではなく「見ゆ」に掛かるのではないでしょうか。

 林の中から空を見上げるという光景は、なかなか想像し難(にく)いのですが、ここにアップしたいくつかの写真を見てみてください。

 木洩れ日の様子が天の川にそっくりです。

 夜空を見上げる光景を林の中にいて空を見上げる光景になぞらえていることが分かります。

 文字だけを見ていると分かりませんが、実際の光景を写真で見てみるとそれがいかに適切な描写かが分かります。




 天の海に 雲の波立ち 月の船
  星の林に(いて) 漕ぎ隠る見ゆ



(千葉県館山市の洲崎神社から見た東京湾の入口です。海(あま)と天(あま)がひとつに見えます。その「あま」を東京港や川崎港、横浜港へ向かう船が通り行きます。)

 助詞「に」は、大和言葉にとって、とても大切です。

 主語や目的語を示す格助詞は省略することがあっても、場所を示す格助詞「に」を省略することは稀です。

 物事は、誰かが起こすのではなく、その場に自然に起こると考えています。

 「誰が」より「どこで」の方が重要だということです。

 (「で」は、「にて」の音韻変化です。)

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77.ちはやぶる龍田川事件 その4 七夕の夜空  天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 榜(こ)ぎ隠る見ゆ

2024年12月10日 | 和歌 短歌 俳句
 前回、手向けるという言葉の二つの意味を考えました。
 さらに、幣(ぬさ)とはなにかということが分かり、菅原道真公の有名な歌の解釈ができました。

 話を元の龍田川事件に戻します。

 古今和歌集の中の「龍田川事件」を改めて説明します。
 在原業平さんの有名な歌「ちはやぶる 神代も聞かず」が天皇の御製の「紅葉流る」というフレーズを傷つけるのではないかという懸念が生じました。
 それを払拭するために、古今和歌集の秋歌下の段の後半に様々な解釈の歌が並べられています。そのことを「龍田川事件」と呼びました。

 前回までの3つの歌は、風の神様である竜田姫を歌って、紅葉が流れているのは水面や水中ではなく、風の中、すなわち空中を流れているという解釈を示していました。

 次に続く歌はどうでしょう?

【古今和歌集 秋歌下301】

白浪に
  秋のこのはの
    浮かべるを

   あまの
     流せる
       舟かとぞ見る

 一見すると、紅葉が流れる場所が風の中ではなく水面(みなも)に戻ってきたように思えます。
 「あまの流せる舟」は、岩波文庫では、「広い海(あま)に漂流している舟を連想したもの」という解釈が示されています。
 ネットでは「あま」=「海人」として漁師の舟が波に流された様子としているものを見かけました。

 ずっと川の流れの歌が続く中で「あま=海」の話が出てくるのに少し違和感を感じます。海と紅葉は、収(おさ)まりが悪いですね。

 ここで、もう一つの解釈として「あま=天」の可能性を検討してみましょう。
 「あま」を天=空だとすると、「白浪」は水面の波ではなく、空に浮かぶ雲の比喩となります。

 雲のたなびく青空を背景に、木の葉(紅葉)が風に舞う様子を下から見ていることになります。

(秋の亀戸香取神社です。木の葉がひとひら船のようにゆらゆら舞っていました。残念ですが、写真には写っていません。)



(小石川後楽園の紅葉です。)

 次に続いていくのは、水の流れの歌です。直前の風の流れの歌の続きが終わり、水にも風にも解釈できるこの歌を挿入したのではないでしょうか。

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 雲を波に喩える歌は、万葉集にある柿本人麻呂さんのものが有名です。

【万葉集 巻第七 柿本人麻呂 天を詠める】

天の海に 雲の波立ち 月の船
  星の林に 榜(こ)ぎ隠る見ゆ

 星の林という表現がイメージしにくいですね。
 「林(はやし)」は、「生(は)やす」から来ている言葉です。「囃(はや)し立てる」という言葉が残っているように、たくさん生えて賑(にぎ)やかな様子を表します。

 「星の林」という表現は、星がたくさん集まった天の川に関係していると思います。

 万葉集巻第十には七夕の段があり、97首の七夕についての歌が収められています。
 そのうち37首が柿本人麻呂歌集から取られたものだと書かれています。
 万葉集における七夕は、彦星様が年に一度だけ天の川を渡って織姫様の所へ船でやってくることになっています。中国の七夕は彦星様が橋を掛けて天の川を渡ってきます。)
 彦星様を月人と呼んでいる歌があります。月を船に喩えるのはそれに適(かな)っています。
 この歌は万葉集巻第七の冒頭にあり、他の七夕の歌と離れていますが、七に掛けているとこらから、七月七日、七夕の歌だと思われます。

 月の暦(こよみ)である旧暦七日の月は上弦の半月です。
 天の川が一番よく見えるのは、夏の星座である射手座の方角です。比較的明るい天の川銀河の中心が射手座の方向にあるからです。


 次の写真を見比べれば「星の林」が天の川を指していることがイメージしやすくなるのではないでしょうか。







 天の川は暗い夜空にしか見ることができません。月が出ていると天の川は見えなくなります。

 天の川を中心に夜空の全体を「星の林」と表現できるほどの満天の星空に明るい月は無いはずです。

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 小中学校の理科の授業を思い出してみましょう。
 上弦の半月である月齢7日の月は、日没の時に南の空に一番高く上がっています(南中と言います)。


 その時には、射手座の方向の天の川銀河の中心は、東の空から昇ってきたばかりです。

 銀河の中心が南中するのは深夜です。その時に上弦の半月は船のような形になって山影(やまかげ)や水平線に沈んでいきます。


 沈みかけの上弦の月は遠い大気に遮られて弱々しい赤みがかった光を放つだけになっています。


 同時に月明かりに邪魔されずに満天の星空が輝き出します。
 月が地平線や山の稜線に隠れてしまえば、天の川や満天の星々の輝きが更に増します。



 満点の星々を星の林と見立てると、真上に見える天の川は広がった枝葉の切れ目であり、そこから海と空を望むことができます。

(千葉県館山市の洲崎神社から見た東京湾の入口です。海(あま)と天(あま)がひとつに見えます。)

 山際に近づきながら雲に隠れたり、また現れたりする月は、木の幹と幹の隙間から見えたり隠れたりする船です。


 最後に月の船が山の稜線に沈んで見えなくなると、満点の星空が輝きを増します。


 「天の海に」の歌は、このような光景を歌っていることが分かります。


────────────
天の海に 雲の波立ち 月の船
  星の林に 榜(こ)ぎ隠る見ゆ

【超訳】
 雲の波をかき分け
 岸に近づいてきた月の船
 さっきまで海辺の林の中の
 枝葉の切れ目から見えていた船は
 木々に隠れて見えなくなった
 ふと見上げると
 満天の星々の光が
 木洩れ日のように
 降り注いでいる




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 また一つ有名な和歌の謎が解けました。

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 万葉集の中でたくさんある七夕の歌を見ていて気が付いたことがあります。
 天の川の「川」の意味で「漢字」の「漢」の字を当てているのです。
 確かに「漢」はさんずいですが、川の意味があるということは知りませんでした。

 唐の都の長安(西安)の少し南の辺りから流れてきて武漢で長江(揚子江)に合流する川を「漢水」と言います。この漢水周辺が漢民族の発祥の地とされています。
 漢民族や漢字の漢は、川の名前だったんですね。
 川を見る角度によって縦になった天の川と漢水が繋がって見える場所と時間帯があるはずです。


 元々七夕の伝説は中国のものだったと考えられています。中国から日本にやってきた人々が天の川に故郷の漢水をなぞらえていたのかもしれません。

 万葉集では、織姫様が彦星様を待っている場所を安の川原と呼んでいます。
 漢水は武漢から上流に遡っていくとほとんどが山の間を縫って流れています。途中何箇所か平野があり、その一つに安康市があります。安康市が安の川原なのかもしれません。

 ウィキペディアによると、漢水は地形の関係で下流から船で川を遡れるのは安康市までだそうです。上流に滝でもあるのでしょうか?

 彦星様は漢水の下流または更に長江の下流から船で行ける安康までやってくるのかもしれません。
 一方の織姫様も安康に住んでいるのではなく、どこからか彦星様が船で来られる安康までやってくるのかもしれません。
 周王朝や秦、漢、隋、唐の都であった現在の西安、咸陽周辺から安康までは約300km、徒歩で10日、馬に乗れば6日間くらいかかります。




 都に幽閉されている織姫様が年に1度七月の一月間だけ外出が許され、安康まで行って彦星様を待ちます。
 彦星様は、日本との繋がりの深い呉の国のあった長江河口の上海辺りに住んでいて、七月七日に間に合うように船で漢水を遡ります。武漢経由の距離は1,500km程度なので、昼夜進む船だとしても半月は掛かリそうです。


 彦星様もお休みを一月しか取れないとするととんぼ返りで戻らないと間に合いません。織姫様と彦星様が一日しか一緒に過ごせない理由はそういうことなのかもしれません。(以上、妄想タイムでした。)

 日本神話での安の川原は、重要なことが行われる場所の名前です。もしそれが安康市のことであれば、高天原がどこかという問の解答候補の一つになるのではないでしょうか?
(安の川原は、何かトラブルがあったときに神々が相談に集まる場所です。)



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 もしも、柿本人麻呂さんが彦星様だったら

 日本に来ている彦星様は、長江の河口から長江と漢水を遡る前に、海を渡らなければいけません。海に橋を掛ける訳にはいきませんから、船で行くことになります。
 中国の七夕では天の川に橋を掛け、日本の七夕では船を使うのはその違いなのかもしれません。
 「天の海 星の林」の歌が(天の)川の話ではなく海の話になっているのも事情は同じです。

 但し、柿本人麻呂さんが渡来人や帰化人だったという話はいくらネット検索しても出てきません。

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 ここで使った画像は、自分で撮ったものと、フォトACさんからもらったもの、グーグルマップの画面、ウィキペディア、国立天文台のホームページからも引用していると思います。
(いつも、分からなくなってしまうんですよね。)

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76.ちはやぶる龍田川事件 その3 紅葉の錦 神のまにまに

2024年10月11日 | 和歌 短歌 俳句
 幣(ぬさ)を手向ける話の続きです。

【紀貫之 古今集299】

 秋の山
   もみぢをぬさと
     たむくれば
       すむわれさへぞ
         旅心地する


【清原深養父 きよはらのふかやぶ 古今集300】

 神なびの
   山を過ぎゆく
     秋なれば
       たつた川にぞ
         ぬさはたむくる


 幣を手向けるという言葉の意味は、旅立つ人に餞別として幣を渡すという意味なのか、旅人が道々の神様に幣を捧げるという意味なのか
 どちらかによって歌の解釈が変わってきます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 初めの歌の2つの解釈です。

① 降り注ぐ紅葉の山中にいると、たくさんの餞別をもらったようで、旅立たない(住む)私でも、これから旅立つような気がしてくる。
② 秋の山にどこかの旅人が幣を手向けるように紅葉が舞い散る姿を見ていると、旅に出ない私でも旅人の気持ちになる

 2つ目の歌は、川面を這うように流れる風を、過ぎゆく秋に重ね合わせています。
 2つの解釈は次の通りです。
① 古くからの信仰が伝わる山の神様が、下流に向かう川の流れを旅人に見立てて餞別を送っているようだ。
② 龍田川という神様に山のあちこちから幣が捧げられるように紅葉が舞い散っている。

 私には、旅立つ人に餞別を送るという方がなんとなくしっくりきます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 川の風は、夜更けから翌日の朝の内は、山から海に吹きます。昼前から夜に掛けては海から山に向かうように流れが変わります。
 川筋を通う風の流れを龍の胴体のように思えば、夜明け前に山を旅立った龍が、昼前に海にたどり着き、夕方に海から戻って来るように考えることができます。
 旅人には、帰る故郷があります。行ったきりであれば、旅人ではなく流れもの、放浪者です。
 川筋を行き来する風の流れを、帰る場所のある旅人に喩えるのは自然なことだと思います。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 視点を出発点になる山の景色に置けば、山の神様が旅立つ川の神様である龍神様にはなむけとして紅葉をたくさん渡している姿として描くことができます。
 視点を平野を走る川沿いに置けば、紅葉が舞い散る様子は、旅人である龍神様が道々の道祖神に幣を捧げているように描くことができます。
 (川の神様に周りの木々が幣を捧げているとも取れます。)

 どちらの光景を思い浮かべるかで解釈が異なることになります。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 とても有名な次の歌は、どちらでしょう?

【菅原道真 古今集羈旅420】

このたびは
  幣も取りあへず
    手向(たむけ)山
       紅葉(もみぢ)の錦
         神のまにまに


 この歌は、宇多天皇(上皇)の狩りに随行した際に詠まれたものです。けれども、その後の菅原道真公の悲劇を知っている後世の読者は、左遷され、博多へ向かう旅のことを思い浮かべます。

 博多への旅は、急な勅命で十分な旅の準備ができなかったのかもしれません。また、謀略を信じた天皇へ反論することもできたかもしれないのに、運命をそのまま受け入れたことにも思いが及びます。

 この歌は、旅の準備が整わず、願いを伝えるための手立て(幣)がないため、神の思し召しである運命を受け入れるだけだという諦めの気持ちを歌っていると思えてなりません。

 そう考えると、ここの手向山は、旅人に餞別を渡す神様が宿る場所です。手向山の神様が準備の整わない旅立ちの際に幣を渡してくれたらよかったのに、という叶わぬ思いを表しています。


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 紅葉の錦という言葉は、古今集秋下の天皇の御製から取っていると考えられます。ここで言う紅葉は、手向山の紅葉ではなく、手向山を源(みなもと)とする川の流れに沿って紅葉が流れているように見える様子を歌っているはずです。
 手向山の神様から幣としてもらった紅葉を川の分岐点毎に撒き散らしているのは、川の神様である龍神様、つまり竜田姫です。

 幣を持っていない私には、願いを叶えることはできません。ただ神様の思し召しに従うだけです。

 前半の旅立ちの際の手向山の紅葉と後半の旅の道中の川に舞い散る紅葉を対比して、前半と後半で異なる視点を提示しています。古今集秋下の段でたくさん詠まれた紅葉についての歌を踏まえればこのような解釈が可能だと思います。

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 古今集で道真公のすぐ後ろにある歌は、手向けのもう一つの解釈を取っています。

 宇多天皇のご行幸に道真公とともに随行していた素性法師の歌です。

【素性法師 古今集羇旅歌421】

たむけには
  つづりの袖も
    切るべきに
       紅葉にあける
         神や返へさむ
 神に手向けるのに、幣を持ち合わせていなければ、継ぎのある袖を切ってでも捧げるべきだ。
 けれども、紅葉の幣を堪能している神様は、見劣りのする袖の切れ端などは受け取らないだろう。
 つまり、あなたの願いは叶わない。

 濡れ衣を着せられた菅原道真公が意を決して自分の無実を晴らそうとしても、その運命は変わらなかっただろう。
 事の顛末を知っている後世の読者にとって、この歌はそのように捉えることができます。

 ここでの手向けは神様に捧げることを言っていて、旅人に餞別を渡すという意味に取ることはできません。
 そう考えれば、前の菅原道真公の歌の手向山も幣を捧げる対象としての山を指していると捉えるのが正しいのかもしれません。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 龍田川事件の発端になったのは、素性法師の次の歌です。この歌の重層的な広がりを見てみましょう。(古今293)

もみぢ葉の
  ながれてとまる 湊には
    紅深き 浪やたつらむ

 水面に浮かぶ紅葉を船に喩えています。
 「とまる」は止まると泊まるの2つの意味が掛けられています。
 「みなと」には、港と水門(=海峡のように流れが細くなったところ)という意味の2つが含まれています。

 (川の湾曲部分にできる
 流れが緩く川幅の広い「淵」と、
 流れが速く川幅の狭い「瀬」の間の、
 藁束を藁縄で括(くく)ったような、
 砂時計のくびれの部分のようなところを
 「みなと(水門、水戸)」
 と呼んでいます。)

 「たつらむ」、ここは本人の意図を超えているのかもしれませんが、立つと龍(たつ)が掛けられています。(少なくともこの歌に続けて龍田川を歌った在原業平さんはそう取っています。)

 言葉の意味を重層的に捉えるのは素性法師に限ったことではありませんが、分かった上で「手向ける」の2つの意味を使い分けていると考えても良いのではないでしょうか。
 つまりあえて前の菅原道真公の歌とは違った意味で使ったということです。

 いろいろな解釈ができると思いますが、菅原道真公の歌は彼の運命を暗示する歌だということは、この歌を聞く人の多くが感じることでしょう。

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 手向山とはどこかを考えてみましょう。
 川筋を風とともに流れ行く龍神様の出発点にある山が手向山です。これまで龍田川は現在の大和川だと考えてきました。そう考えると手向山は、三輪山になります。
 龍田川を今の竜田川だと考えると、生駒山が手向山になります。どちらも神名備の山と呼ばれる古い信仰が残る山です。

 手向けを旅人が三叉路の道祖神に捧げるという意味に取ると、大和川が他の川と合流する場所に位置する二つの三室山が手向山になります。

 神名備の山と呼ばれる山はこの他に、春日山(三笠山 若草山)や石上神宮が守る布留の山があります。

 いつか行ってみたいところです。
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75.ちはやぶる龍田川事件 その2 龍は風の神様?

2024年09月22日 | 和歌 短歌 俳句
 古今集にある「ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川」という在原業平さんの歌が、その前にある帝(みかど)の歌(御製)を否定するものになるのではないか…
 その後の古今集秋歌下の段は、その疑念を払拭するための歌でいっぱいになります。私はそのことを「龍田川事件」と名付けました。

【兼覧王_かねみのおおきみの解釈_古今298】

竜田姫(たつたひめ)
  手向(たむ)くる神のあればこそ
    秋の木の葉の幣(ぬさ)と散るらめ

【超訳】
 水源の山から旅立って川筋を流れる水や風を象徴する竜田姫
 三叉路の道祖神に幣(ぬさ)を手向けるように紅葉が風の中を舞っている。
 この美しい景色が見られるのは、手向ける相手の神様(道祖神など)が道中にたくさんおられるから

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ここに限らず和歌でたくさん詠まれる「幣(ぬさ)」が今までどうもしっくりきませんでした。
 今年の初めに東京の神社を巡る東京十社巡りをしたことで、初めて幣がどういうものか分かりました。

 東京十社巡りをしていると、一つの神社に5つも6つも摂社があり、その度にお賽銭が必要で、すぐに小銭が足りなくなります。
 せっかく神社巡りをしているのだから、道端にある祠(ほこら)や観音様にもお賽銭を置こうと思うといくらあっても足りません。

 この写真は、東京十社巡りの時ではないのですが、地元小岩の神社をいくつか回った時に用意した小銭です。

 東京十社巡りをした時には、この2倍も3倍も用意しましたが、すぐに無くなりました。

 今は賽銭箱に小銭を投げ入れます。昔は小銭ではなく布の切れ端を投げ入れていました。当時布切れは、貴重品です。そして、その布が「幣(ぬさ)」です。

 神様に捧げる御幣(ごへい)というものがあります。

 これは室町時代以降にできた風習で、それまでの布を神様に捧げていたことから派生したものです。
 竹や木でできた幣串の先に挟まれた布の本体が捧げ物で、横についているヒラヒラの紙(紙垂_しで)は飾りのようです。
 真ん中の捧げ物本体にヒラヒラの飾りが付いているのは、布を投げ入れていた様子を表しているのではないでしょうか。

 今も昔もお賽銭や幣は投げ入れるものだったはずです。

 だから紅葉が舞い散る様子を幣に喩えているのです。

───────────────────
 現在の竜田川と大和川の合流する場所の近くに龍田大社があります。
 龍田大社のご祭神は、ウィキペディアによると次の通りです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
祭神は次の2柱。

天御柱命(あめのみはしらのみこと) - 右殿。
国御柱命(くにのみはしらのみこと) - 左殿。
龍田の風神と総称され、広瀬の水神と並び称された。同社の祝詞などでは、天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされている。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 龍の字の付く龍田大社は、風の神様を祀っています。

 龍田大社から大和川を東に遡っていくと龍田大社とは反対側の岸に水の神様を祀る広瀬大社があります。
 この風と水の神社は、二社一対のお社(やしろ)とされています。

 川に流れるのは、水だけではありません。風も川筋を渡っていきます。

──────────────────
 前の勤務先は、日本橋川のほとりで、夜中に帰るときには、神田川の上流から流てくるすがすがしい風に息を吹き返すような気持ちになりました。

 川筋では、温かな日中に海から陸の方へ風が吹き、夜がふけると陸から海の方へ風向きが変わります。
川風 - Wikipedia

川風 - Wikipedia

 川は昼は海風、夜は陸風の通り道です。

 陸風が海風に変わる時、風がなくなる時間帯を朝凪、海風が陸風に変わる時間帯を夕凪と言います。

 毎年8月上旬にある江戸川の花火大会ですが、私の家は打ち上げ会場より上流にあるので、海風のせいで煙で花火が見えにくくなります。
 今年の花火大会は8月の下旬になり、煙が下流に流れていったので、とてもきれいに見えました。
 (花火師さんがパリオリンピックの柔道の審判に出かけたおかげです。)

 このことから予想できるのは、小岩周辺の江戸川の夕凪は8月上旬には夜8時より後、8月下旬では夜8時より前だということです。(もちろん一回きりの出来事で判断できることではないかもしれませんが。)

 海辺の凪と川を伝う風の凪では時間差があるのだと思います。

──────────────────
 龍には、水の中にいるイメージと共に、空を飛ぶイメージがあります。

 私は龍はワニのことだと考えています。日本書紀ではワニを龍と呼んでいる箇所があります。
 今の日本人には意外かもしれませんが、ワニも空を飛ぶイメージがあります。
 江戸時代のワニの絵(想像図?)を下に載せます。


 ワニを観光で利用しているところでは、ワニのジャンプを見せています。

 ワニがうねうねと飛び上がる様は、龍が空をうねうねと飛び回るイメージにピッタリです。
 ゆっくり飛び上がってもこれだけの高さまで出てこれるのですから、おそらく十分な水深がありスピードが出せれば、全身を水面から出すくらいは簡単なはずです。

──────────────────
竜田姫(たつたひめ)
  手向(たむ)くる神のあればこそ
    秋の木の葉の幣(ぬさ)と散るらめ

 竜田姫は、龍のように川筋に沿って空を飛ぶ風の化身です。二股の別れ道にいる道祖神にお供えするように、多くの支流との分岐点で竜田姫が紅葉の幣(ぬさ)を撒いていきます。
 この歌の表す光景はこのとおりです。

 龍田大社、広瀬大社のある場所は奈良盆地を流れるたくさんの川が大和川に合流してくる場所です。道の分岐点に道祖神が祀られているように、川の分岐点にも神様がおられるというイメージが歌われています。

 早稲田大学リポジトリ 広瀬大忌祭と龍田風神祭の成立に関する一試案 より
龍田大社

広瀬大社


──────────────
帝(みかど)の歌(御製)をもう一度見てみましょう。

竜田河
  もみじ乱れて
    流るめり
      渡らば錦
        中や絶えなむ

 帝の御製では紅葉が川を流れる様子を歌っているのであり、水の上を流れているとは書いていない。川筋を流れるのは水だけでなく風も流れるのだから風に舞う紅葉を歌っているのではないだろうか。

 これが、兼覧王_かねみのおおきみの解釈です。

────────────────
 朝靄(あさもや)の中、川筋に沿って上流からゆっくり流れてくる陸風の流れ。それを龍の飛翔に見立て、
 舞い散る紅葉が風と共に流れ行く様を手向けた幣(ぬさ)に喩える。

 兼覧王が壮大な気象現象を繊細な感性で描いていることが伝わってきます。

────────────────
“ 手向(たむ)くる神のあればこそ ”

 手向けるという言葉の意味はいくつかあります。

 上の解釈では旅人が道の途中の道祖神に幣を奉納するという意味にとっています。

 もう一つ、旅行く人に見送る人が餞別(せんべつ)を送る、餞(はなむけ)を渡す、という意味があります。

 古代、竜田川は大和川のことでした。大和川は三輪山の脇を通って奈良盆地に流れ込みます。

 見送る三輪山の神様が旅立つ竜田姫に選別を渡すという描写であれば、さらに壮大な印象が残ります。

 天孫降臨以降、川の象徴は、龍になりました。

 それ以前は、蛇が川の象徴でした。

 三輪山の神様、大物主大神は、夜になると蛇の姿で川の上流から降りてきて、朝に帰っていきます。
 まるで川風のようです。

 次の世代で川を象徴する竜田姫は、先代の大物主大神から手向けとしてたくさんの紅葉を受取り、袖のふくらみにあふれるほど入れて旅立ったのではないでしょうか?


 画像はウィキペディアから頂きました。


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74.ちはやぶる龍田川事件 その1 古今集_龍田川事件

2024年09月01日 | 和歌 短歌 俳句
ちはやぶる神代(かみよ)も聞かず
 龍田川(たつたがは)
  唐紅(からくれなゐ)に水くくるとは

 この歌の作者である在原業平さんは、『伊勢物語』の主人公のモデルと言われています。イケメンで自由な発言が魅力的だったようです。業平さんの「歯に衣着せぬ」物言いが巻き起こした古今和歌集の中の一大事件『古今集_龍田川事件』をお話します。

 業平さんの「ちはやぶる神代も聞かず龍田川」の歌は、皇后陛下の持つ龍田川の屏風絵を題材に歌ったものです。
 まず素性法師が屏風絵について歌い、その後に業平さんが歌いました。
 素性法師の歌の情景描写は簡潔で、現代の我々にも分かりやすく伝わってきます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
もみじ葉の
  流れて止(泊)まる
    水門(みなと_港)には
      紅(くれなゐ)深き浪や立つらん


 紅葉を小舟になぞらえて、港に停泊するというイメージで読んでもいいのですが、「みなと」は、水門=水戸(みと)で水に囲まれた四角い陸地、つまり海峡のように陸がせり出て水の流れが狭くなったところです。その意味を踏まえて、次の歌の「水くくる」という表現があります。

 素性法師の歌のすぐ後で、業平さんは、「ちはやぶる神代も聞かず」=「有史以来聞いたことがない」と、その屏風絵が現実にはありえないと歌っています。
 水面に落ちた紅葉は、桜の花びらとは違い、すぐに沈んでしまうからです。
 忖度しない人なのか、素性法師と仲が悪いのか、他の意図があるのか分かりませんが、業平さんは鋼(はがね)の心臓を持っています。

 水面に落ちた紅葉はすぐに沈んでしまう、という業平さんの話が本当であれば、眼の前にいる素性法師の顔は丸つぶれです。
 ところが、もっと困ったことがあります。
 古今和歌集のこの巻(第五巻秋歌下)において、龍田川に紅葉が流れると言い出したのは読み人知らずの下にあげる歌です。
 この歌は誰か特定はしていませんが、帝(みかど)の作られた歌のようなのです。帝の御製(お作りになった歌)にけちをつけるような事になっては、いけません。

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竜田河
  もみじ乱れて
    流るめり
      渡らば錦
        中や絶えなむ

【超訳】
 龍田川にもみじがはらはらと流れているように見える。
 対岸に渡るのはやめておこう。
 鮮やかな錦の布を真ん中でばっさり断ち切ってしまうようなことになるのだから。

 業平さんの歌に続いていく歌の数々は、この帝(みかど)の歌をいかに守るかという創意工夫にあふれています。

 帝の歌を守るためには、まず業平さんの指摘をよく吟味しなければいけません。

 「確かに、淵に浮いた落ち葉が溜まっている光景は見たことがない」
 「いや、でも少ない数であれば水に浮いている落ち葉はよく見るぞ」
 歌の行間からこんな囁(ささや)きが聞こえてくるような気がします。
 業平さんはさながら『裸の王様』に出てくる真実を指摘した少年のようです。

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【藤原敏行さんの解説_古今295】
我が来(き)つる
  方も知られず
    くらぶ山(暗部山_鞍馬山)
      木々(きぎ)の木(こ)の葉の
        散るとまがふに

【超訳】
 人の通る道、水の通う川、風の通り道、それらを比べてみよう。まず人が通る道。一面の紅葉で、今来た方向すら分からない。
 落ちて積もっている紅葉と、まだ木々を彩っている紅葉が交じりあって、目がくらむようだ。
 道ですらこうなのだから、ましてやどこが川でどこが風に舞っている落ち葉かなど分かるわけもない。

 くらぶ山(鞍馬山)を歌枕(歌の題材_地名が多い)として使っています。「比べ」るという言葉や、目が「眩む」、分かっていないという意味の「暗」いという言葉の掛詞としても使っています。

 藤原敏行さんの解説はこういうことです。
 眼の前が一面に紅葉一色なんだから、川面(かわも)に紅葉が浮いているのか、川面に着く前に風で舞っている最中なのか、それとも木々にまだ付いていて落ちる前の紅葉なのか分からない。
 だから、紅葉が浮かぶかどうかはどうでも良い話だ。

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【壬生 忠岑(みぶ の ただみね)さんの解説 古今296】
神奈備(かんなび)の
  三室(みむろ)の山を
    秋行けば
      錦絶ち切る
        心地こそすれ
【超訳】
 社(やしろ)を設けず、昔ながら自然のまま神様を貴(たっと)ぶ三室山。
 一面の紅葉を横切れば、素晴らしい景色を堪能するどころか、錦の布を絶ち切るようで心苦しくなる。

 係助詞「こそ」を使うときは、逆説の節が隠れています。絶ち切るのはマイナスなので、プラスの節が隠れていて、それが逆説(譲歩)で結ばれているはずです。「景色を堪能する(+)、どころか(譲歩の接続詞)、心苦しい(−)」と読みます。

 忠岑(ただみね)さんの解釈も一面の紅葉でどこが川でどこが道かなんか分からないのだから、紅葉が浮くかどうかなんかどうでもよい、というものです。
 むしろ人が立ち入ることでまばゆい世界を絶ち切り、一変させてしまうという帝(みかど)の表現がいかに素晴らしいか、と称えています。

 この三室山は、今の三室山ではなく、三輪(みわ)山、別名三諸(みもろ)山です。今の2つの三室山は大和川(龍田川)に面していますが、川の源流になるような大きな山ではありません。古今集のこの巻に度々出てくる神奈備(かんなび)る山は、大和川の源流として描かれるので、三輪山が三室山です。

 三諸は「みむろ」とも読むようです。三輪山の大神(おおみわ)神社の主祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)です。大物主神は、蛇の形で現れる神様です。龍と蛇の関係は別途考えなければいけませんが、日本では蛇が龍の代わりに川の神様を表すことがあります。

 八岐の大蛇(ヤマタノオロチ)は、砂鉄を採掘するための鉄穴流し(かんなながし)という技術を行う河川を象徴しています。このように、天孫降臨前に人々に崇め恐れられていた川の神様は、蛇として描かれています。大三輪大社は、蛇の象徴する川の神様と考えられるので、龍神と同じように「ちはやぶる神」という言葉を使うことができます。

 蛇の神様、大物主神は大国主命の別名かと思っていたのですが、大神神社の主祭神が大物主神で副祭神に大己貴命(大国主命の別名)がいるので別の神様として扱われています。

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【紀貫之(きのつらゆき)さんの解説_古今297】

見る人の 無くて
  散りぬる 奥山の
    紅葉は夜の 錦なりけり

【超訳】
 鮮やかな錦の色は、夜の闇にいる私達に見えないからといって、その色が無いということにはなりません。
 奥山に散りゆく一面の紅葉を思い浮かべてください。
 そこにあたながいないからといって、その鮮やかな世界がないとは言いませんよね。
 川面に散った紅葉は今は沈んで、私達には見えないかもしれません。けれども水の中の錦のような色は確かに存在しているのです。それを歌って何が悪いのでしょう(悪くはありません)。

 さすが、仏教に通じた哲学者紀貫之さんです。素朴実在論的な世界観から歌っているのではなく、唯識論を匂わせながら、さらにその先にある世界を歌っています。古代ギリシャでは神によって、インドでは実践によって、日本では歌によって近付ける共通感覚という基盤の上に建つ世界です。


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 「散りぬる」「奥山」などという単語が使われています。
 大乗仏教、特に龍樹さんの「空」と「縁起」の思想に通じているはずの紀貫之さんが『いろは歌』の原作者の一人ではないかと思ってしまいます。

コメント
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