仕事と生活の授業(続き)

前に作ったホームページは、あまり読まれないようなのでブログで再挑戦です。

52.日本神話の大八洲の誕生と実際の歴史(6)  島を双子に生むこと アワシマとヒルコの正体

2024年06月19日 | 日本神話を読み解く
日本書紀本文には、
佐渡ヶ島と隠岐の島は双子に生んだとあります。

今回はこの意味について考えます。

国土地理院地図の自分で作る色別標高図機能をあらためて見てみましょう。

佐渡ヶ島を見てください。

青い所を海とすると

同じような細長い形の島が二つ並んでいるように見えます。
陰影起伏図を見ると更に良く分かります。

土壌が堆積したところは、
なだらかな平野になっています。
そこは、海でした。

今度は隠岐の島の海図を見てみます。

水深の浅い所(50mくらい)までが陸地だった時代には

同じようなまんまるの島が二つ並んで見えたはずです。


南西側の群島は、
元々一つの山が噴火して
カルデラになったものと
考えられています。

そこに海水が入り込みました。

噴火前は、
本当にそっくりな山だったのかもしれません。

でも、その時代はだいぶ古いようです。

今のカルデラの形であっても、
縄文海進の途中、水深50mの所まで
海面が上がってきた時には、
西側の島の海岸線と東側の島の海岸線が
同じ形に見えたはずです。
その時代は、地質学で分かるはずなので、
神話の時代がいつか分かってしまいます。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
そして、日本書紀本文には、
佐渡ヶ島と隠岐の島は双子に生んだ
とあります。

これを佐渡ヶ島と隠岐の島が双子だ
と解釈している人が多いと思いますが、

場所も形もだいぶ違う島を
双子と呼ぶでしょうか
(しかも間に越の洲がある)。

百聞は一見にしかずです。
先ほどの二つの画像をみれば、
まさにそれぞれが双子で、



隠岐の双子と佐渡の双子で
双子が二組いるということが明らかです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
日本書紀は、本文とは別に
様々な異説を並べています。
異説の方が正しいとすると
多少修正が必要になりますし、
特に異説を元にしたと思われる
古事記の記載とは
うまく合わないかもしれません。

異説のいくつかに、大八洲を生む前に、
ヒルコと淡島を生んだという話があります。
これはつじつまが合うのかもしれません。

まず淡島ですが、
現在「あわしま」と検索して出てくる島は、
新潟県沖の粟島です。

これを海図で見てみると、
北東側に細長い長方形の
浅い海底の形が現れます。
縄文海進の際、
一度は大きな島だったことが
分かります。

本州と陸続きだった粟島は、
海水の進入によって本州から分離されます。
海面が現在より80m程度低い時のことです。
マイナス80mの等高線を見ると、
その時の島の面積は現在の
20倍以上になります。

しかし、
早い段階で現れてくる島は、
その後の縄文海進の進行で、
水没してしまいます。

異説の一つのように、
ヒルコが一番先に生まれた島だとすると、
粟島のように一部を残すこともなく
海進の進展で全て水没してしまった
と考えて良いのではないでしょうか。

海図を見ていると、ヒルコの候補となる
浅い海底がいくつか考えられますが、
それ以上の情報がない(気がつかない)
のでヒルコの位置は分かりません。

ヒルコは葦船で水に流した
との記載があります。
水没していく島を表現するのに
葦船に流すという言い方をするのは
どうしてでしょう。
(何の象徴なのでしょうか。)

洲を生むというのが、
洲に住んでいる人々を生む
という意味であれば、
島の水没を前に
住んでいる人々が
葦の船で
他の島に逃げていったということを
記録したのかもしれません。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
上の文章を書いたときには
思わなかったのですが、

今はヒルコが
山形県の飛島
ではないかと思っています。
(みんなの海図より)

(グーグルアースより)

飛島周辺の海底の浅い部分が
生き物のヒルのようですね。

(ウィキペディアより)

飛島は海上交通の要衝で、
縄文時代からの遺跡が
残っています。

(鳥海やわた観光 飛島全島マップ より)

飛島には蛭子前崎(えびすまえざき)
という地名があります。


蛭子は、「ひるこ」とも読みます。

また、賽の河原(賽の磧)という場所があります。


島の大半が水没した際の犠牲者を
偲ぶところではないでしょうか。


飛島は色々見どころのある島のようです。
いつか行ってみたいと思っています。

<ブラタモリコース3> 飛島の自然をたっぷり感じる旅

「山形県酒田市」のモデルコース・観光プランをご紹介。かつて「日本の中心!?」と言われるほど繁栄した北前船の寄港地、酒田。酒田港が風や潮の流れが強く入港できないに...

酒田さんぽ

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
飛島の周りのヒルのような浅い海底は、
そのさらに周りを水深300mの深い海底に囲まれています。

ここが本州と陸続きだったとすると、
当時の日本海の水面は、
当時の太平洋側の海水面より
かなり低くないといけません。

今のイスラエルにある死海のように、
海抜マイナス400m程度だった
ということになります。

(Googleマップより)

2万年前の寒冷期に
外洋との繋がりの絶たれた日本海では、
十分にその可能性があると思います。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
想像力を更に豊かにすると、
面白い偶然が見つかります。

飛島にはろうそく岩と呼ばれる岩があります。



淡路島の南のオノゴロ島だ
と言われている沼島(ぬしま)の
上立神岩(かみたてがみいわ)や
イースター島の
オロンゴの沿岸にある
イスロテ・モトゥ・カオ・カオ
という岩礁に似ています。


私の考察では、オノゴロ、オロンゴ、ンゴロンゴロは、円周状の山地に囲まれた窪地という意味です。

ろうそく岩のそばには、
島の高台との境界が
円周の一部(円弧)の形に
なった窪地があります。

46.タンザニアのンゴロンゴロ イースター島のオロンゴ 淡路島のオノゴロ - 仕事と生活の授業(続き)

タンザニアに大きな穴を意味するンゴロンゴロクレーターがあります。東太平洋南米チリ領イースター島のクレーター近くにオロンゴ(メッセンジャーの場所という意味...

goo blog


そこに先ほどの話にある
賽の河原(賽の磧)があります。

地元ではとても神聖な場所とされ、
そこに敷き詰められている
角の取れた丸い石を
取ってはいけないとされています。




ロウソク岩は、賽の磧(かわら)の
近くにあります。

オノゴロは、擬態語です。

飛島には、ロウソク岩のすぐ北側に
ゴトロ浜という浜があります。


ゴトリ、コトリは、重たいものや硬いものを落とした時の擬音語です。
ゴトロ浜に接して急傾斜の崖がそびえています。
重たいもの落とせば、
「ゴトリ」
と言いそうな崖に囲まれた海岸です。

回転を示す擬態語、
ゴロンゴロンを基にした
オノゴロ島とは、少し違いますが、
擬態語や擬音語を
地名に付けるという
文化が同じです。

最後にグーグルアースの航空写真を
見てみましょう。
手前の堤防の切れ目から、
同心円状に潮の流れが
打ち寄せて来ています。

古事記と日本書紀の一説を
思い出しました。

イザナギのミコトと
イザナミのミコトは
天の浮橋に立って
宝石でできた矛(ほこ)
で下界をコロコロ、クルクル
かき混ぜます。
矛の先から滴り落ちた
潮がオノゴロ島に成りました。

オノゴロ島には御柱があると
言われています。
そして
飛島の賽の河原には
ロウソク岩があります。


(グーグルアースより)

【追伸】
堤防の切れ目から、同心円状に潮の流れが広がっている写真を見ると、イザナギのミコトが天の瓊矛(ぬぼこ)でクルクルと潮をかき混ぜている姿を想像してしまいます。円弧状の崖も含め、ここもオノゴロ島だったのではないかと想像が膨らみます。


瓊矛(ぬぼこ)とは何でしょう?
瓊(ぬ)は宝石という意味です。宝石が付いている矛(ほこ)というのは想像しにくいのですね。
縄文時代の宝石というと、新潟県糸魚川産の翡翠の勾玉が思い出されますが、矛とは関係なさそうです。
一方、当時、黒曜石は大変貴重なものとして日本列島内で交易品として流通していたことが分かっています。
写真のように30cmを超える尖頭器と呼ばれる槍の先に付けた石器が出土しています。
(北海道の白滝遺跡から出土した黒曜石の尖頭器を含む大量の石器が2023年に国宝に指定されていました。全然知りませんでした。)

(文化遺産オンライン より)

(東北大学文学研究科研究年報 第 70 号 『最大の尖頭器と石槍をめぐって』 鹿又喜隆 より)

槍と矛の違いは、槍は突き刺すもので、矛は切るものと言われます。
30cmもある大きな尖頭器はとても突き刺すものとは言えず、切るものだったことが考えられます。
黒曜石のような貴重な石を使った矛ということになります。
これが瓊矛(ぬぼこ)の正体ではないでしょうか?



そして、私がオノゴロ島かもしれないと思った山形県酒田市飛島の賽の河原には、ここに自然にはあるはずのない黒曜石が見られるそうです。

イザナギのミコトが天の瓊矛を同心円状にクルクル回した時に刃こぼれした残りかもしれません。そう考えると楽しくなります。
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51.日本神話の大八洲の誕生と実際の歴史(5)  島が消える(縄文海退の秘密)

2024年06月14日 | 日本神話を読み解く
日本神話の国産みの話です。

今回は現在のどの場所に当たるか定説のない島についてです。


イザナギのミコト、イザナミのミコトの二人が作った洲(しま)は、日本書紀本文によると、次の八つです。


1.大日本(おおやまと)豊(とよ)秋津(あきづ)洲:本州
2.伊予二名(いよのふたな)の洲:四国
3.筑紫(つくし)の洲:九州
4.億岐(おき)の島:隠岐の島(島根県 出雲の沖)
5.佐度の洲:佐渡ヶ島(新潟県)
6:越(こし)の島:(これがどこを指すのか定説がありません。)
7.吉備の子洲:岡山県児島半島(島だったのですが、干拓等により半島になりました。)
8.大洲:(定説なし。)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
さて、定説がないのは、6番の越の洲と8番の大洲です。
この謎解きの鍵となるのは、私が営業で担当していた栃木県の会社の会長さんの一言です。

その会社は、東武日光線の藤岡という駅とJRの岩舟という駅のちょうど真ん中にあります。

そこは関東地方の中では「ザ・内陸」と言って良い場所で、夏の暑さ日本一を熊谷と争っている群馬県館林市の近くなので、夏はとても暑いです。

(Googleマップより)

館林で39度を超える暑さの時にお邪魔しましたが、
日なたでは、「暑い」どころか、火鉢に当たっているような「熱さ」でした。

そのような内陸の土地で、その会社の会長さんは、

「このあたりは海だったんだよ」

とおっしゃいます。

埼玉県の浦和も昔は海だったから、
「浦」の字がついているそうです。
不動産としては地盤が不安な浦和より、
昔から陸だった大宮(大宮台地)が良い
とのことでした。(個人の意見です。)

初めは何かの冗談かと思っていましたが、
確かにその会社の近くには貝塚があり、
調べてみると縄文時代には海だったことが
分かりました。

縄文海進という言葉をその時初めて知りました。

そのあたりの海抜は14mくらいなので、

縄文海進により、今より海面が14m高かったのかなと、うっすら思いそのままでいました。

ところが、山野井徹先生の『日本の土』という本を読んで、土壌の堆積はものすごく速いことを知ります。

日本の土―地質学が明かす黒土と縄文文化

山野井徹[著]


縄文海進でピーク時の海面は今から2~3mしか高くありませんから、
土壌の堆積は6000年で11~12mもあります。

年2mmです。

この地区は、渡瀬川が氾濫する場所なので、土壌の蓄積は比較的速い地域です。

数年前、荒川が大氾濫するのを防いだ最大の功労者と考えられる渡瀬遊水池のすぐそばです(普段はハート型の池が見える会長の散歩道です)。

渡瀬遊水池のすぐ北側の小高い場所に篠山貝塚があります。
もちろん貝塚には海洋性の貝殻が埋まっています(牡蠣とかです_縄文時代の人々も牡蠣を食べていたんですね)。

篠山貝塚 - Wikipedia


土壌の堆積とは、雨や風で山が削られて、平地や海の底に土が積み上がっていくことです。

日本の平野部では関東平野と同じ程度の堆積が進んでいたと仮定して、
縄文海進の最盛期に、
どこが島=洲だったかを見てみましょう。

そのために、国土地理院地図の標高によって色が変えられる機能を使います。縄文海進の最盛期に海だったであろう海抜15mまで青(水色)で表しています。

(国土地理院地図より)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
まずは、謎の越の洲を探します。

越の国と言えば、北陸地方です。
岩波文庫版日本書紀の解説では、縄文海進の時代でも、越前、越中、越後に島だった場所はないような書きぶりです。
きっと、土壌の堆積の速さを考えていないんだと思います。

貼付の地図の通り、石川県の能登半島の先の奥能登がほぼ島になります。

次の陰影起伏図を見るとよく分かりますが、
本州との間に邑知潟地溝帯という
細長い平野があり、
そこは海だったと考えられます。


色別標高図に一部黄色いところがあります。
そこは、扇形になっていて、
その要(かなめ)のところに川が流れています。
扇状地と呼ばれる地形てす。



川が運んだ土砂で盛り上がった地形を、
河口では三角州、山と平野の境では、
扇状地と呼びます。
ここは元々海だったので
三角州だった場所です。

扇状地のや三角州は、山からの土砂が一番堆積する場所です。
三角州が有名な広島市の例では年10mm堆積していました(6000年続けば60m)。
広島の事例について海面上昇と土壌の堆積が追いかけっこするグラフがあります。

邑知潟地溝帯(おうちがたちこうたい)は調査が進んでいます。
完新世(沖積世)になってからの土砂の堆積は20mから多いところで40m程度であろうと推計されています。

奥能登は、邑知潟地溝帯で本州から分断された島でした。

越の洲を見つけました。
奥能登が越の洲です。

【2024年1月1日の奥能登地震で被災された方へのお見舞いと、お亡くなりになった方へのお悔やみを申し上げます。】


次は大洲です。

山口県の周防大島を日本書紀で言う大洲だという説があります。

でも、吉備の子洲を敢えて子どものように小さい洲と呼んでいるのに、

それより小さい島を大洲と呼ぶでしょうか。



(添付の国土地理院地図で周防大島と吉備の子洲を同じ縮尺で載せました。)

他のところで適当な大きさの島を探してみましょう。

日本海にあります。

貼付画像の通り、

出雲は島でした。


中国地方を挟んで、

北の大洲と南の吉備の子洲が

同じような感じで並んでるようにも見えます。

龍の親子ですかね。


吉備の児島は、右を向いて口を開けているティラノサウルスに見えます。



大洲(出雲)は、右を向いたカジキマグロに見えますが、
竜に見えなくもありません。
(上下逆にすると、頭でっかちな首長竜にも見えます。)


そもそも出雲には、国引きという伝承があります。
出雲はあちらこちらから島を引っ張ってきて、
今のところで本州と繋がったという伝承です。
(朝鮮半島や越の国などから引っ張った来たそうです。)

この伝承は、海で隔てられた島が土壌の堆積で陸と繋がった史実を表しているのではないでしょうか。

出雲にいた神様を大国主のミコトと言いますよね。
越の洲がどこかという議論の中で、
越の洲を越の州、越の国のことだと言っている人がいました。
洲と州と国は意味が繋がっていると思います。
島は、海に囲まれた境界のはっきりした土地を指します。
「や☆く★ざ」のみなさんが使う言葉で、
ある人の影響力の及ぶ範囲を「しま」と呼びます。
この「しま」は、「島」から派生した言葉だと思われていますが、
本当にそうでしょうか?
普通ある人の「しま」と他の人の「しま」は、隣接しています。
これは、海に浮かぶ島のイメージと異なります。
元々境界のはっきりした領域という意味があって、
それが島と「しま」の語源になったのではないでしょうか。

隠岐の島のお役人さんを隠岐の国造(オキノクニノミヤツコ)と言うので、
大洲にお役人さんがいれば大の国造(オオノクニノミヤツコ)と呼ぶのでしょう。
独立していた出雲は、中央から派遣された役人ではなく、
その国の首長が治めていたと考えると、
大の国造ではなく、大の国主(オオノクニヌシ)がいたことになります。

大国主(オオクニヌシ)は、大の国主=大国主=大洲主と考えることができます。

出雲が島だった時の西端の対岸の本州側の海の中にあった場所に島根県大島町があります。


何かの経緯があってそちらに名前が残ったのではないでしょうか。

大洲を見つけました。
出雲が大洲です。

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50.日本神話の大八洲の誕生と実際の歴史(4) 日本海の島の誕生

2024年06月09日 | 日本神話を読み解く
日本神話の国産みの話です。
今回は隠岐の島と佐渡ヶ島についててです。

イザナギのミコト、イザナミのミコトの二人が作った洲(しま)は、日本書紀本文によると、次の八つです。

1.大日本(おおやまと)豊(とよ)秋津(あきづ)洲:本州
2.伊予二名(いよのふたな)の洲:四国
3.筑紫(つくし)の洲:九州
4.億岐(おき)の島:隠岐の島(島根県 出雲の沖)
5.佐度の洲:佐渡ヶ島(新潟県)
6:越(こし)の島:(これがどこを指すのか定説がありません。)
7.吉備の子洲:岡山県児島半島(島だったのですが、干拓等により半島になりました。)
8.大洲:(定説なし。)

〜〜
隠岐の島について

海底の標高を見ることができるサイトによると、
4番の隠岐の島と本州の間は浅い海です。
2万年前は陸地でした。
そこに四国と九州が分離した後に関門海峡を通ってきた海水が流れ込みます。
そのようにして本州から離れ、隠岐の島が生まれたということになります。

アップにしてみると、隠岐の島と対岸の島根県出雲地方との海の水深は、60mと80mの間だと分かります。
仮に70mだとします。

ウィキペディアの「縄文海進」の項目にある海面上昇のグラフを見ると、世界の標準的な海域では水深70mの海底が陸から海に変わったのは、12,000年前頃と考えられます。

(ウィキペディア「縄文海進」より)

けれども当時の日本海は、太平洋からほぼ隔絶した内海または、湖(塩湖)だったと考えられています。

イスラエルにある死海のように水面が外洋の海面より何百メートルも低かったとは考えられないでしょうか。

(Googleマップより)

そう考えると、日本海が太平洋の海水面に追いつくのにもう少し時間が掛かります。隠岐の島が誕生したのはもう少し後かもしれません。

縄文時代は草創期(約16000~11500年前)、早期(約11500~7000年前)、前期(約7000~5500年前)、中期(約5500~4400年前)、後期(約4400~3200年前)、晩期(約3200~2400年前)の6つに区分されています。

さっきのグラフを見ると、2万年前に現在の海抜マイナス125mから始まった海面の上昇は、縄文草創期である1万5千年前から急激に加速していきます。

その急激な海面上昇が落ち着くのが縄文前期が始まる7千年前です。鹿児島で完新世最大の火山噴火があった頃になります。

鬼界カルデラは、鹿児島南方の東シナ海に位置する、東西20km、南北17kmに及ぶ大型の海底カルデラです。

7300年前に鬼界カルデラで発生した「鬼界アカホヤ噴火」は、完新世では世界最大規模かつ最新の大規模カルデラ噴火です。この噴火により西日本の縄文文化は壊滅しました。

この時期は、完新世の気候最温暖期(7000年から5000年前)の少し前です。

鬼界アカホヤ噴火を逃れることができた人々がいるとします。
完新世の気候最温暖期は、彼らの南方の生活様式のまま、東北地方や北海道で暮らすことができた時代です。

自然はときに厳しく、ときに優しいですね。

縄文中期の始まりの5千年前になると縄文海進が終わり、土壌の堆積による海岸線の後退である、縄文海退が始まります。


さて、
国産みに戻ると、
5番の佐渡ヶ島と本州の間は
比較的深い海で遮られていて、
現在の海底の深さを前提にすると、
125m程度海面が低くても、
本州とは繋がってきません。

(「みんなの海図」より)

日本神話が史実に沿ったものであるとすると、
重要な仮説に行き着きます。

現在日本海がある場所は、中心部の一部を除き
海ではなく大きな盆地だったのではないでしょうか。

〜〜
日本海が盆地になっていたのでは、
というアイデアについて、

直接それを示すものではないのですが、
宗谷岬と間宮海峡は陸で、対馬海峡も満潮時に少し海水が流れてくる程度だったのでは、という論文を見つけました。

津軽海峡も陸橋で繋がっていた可能性も記載されていました。


『東アジアにおける最終氷期最盛期から完新世期の海洋古環境』
菅浩伸 2004

地層に含まれる水分の酸素同位体の濃度でどこから来た水かが分かるそうで、黄河の河口が済州島の東にあって、黄河の水が日本海に流れ込み、日本海の塩分濃度が下がったと書いてあります。
(Googleマップ より)

こんなことが分かるんだという驚きと、どういうこと? という戸惑いが起こります。
黄海は水深が浅いので、縄文海進前には陸地だったと考えられます。

〜〜
この論文は、検索で「日本海 干上がる」とかで調べたら出てきたのですが、

なぜか、消滅の危機にある「アラル海」が検索に引っ掛かってきます。
(ウィキペディア より)

アラル海はたった30年で消滅の危機に陥ってしまったので、

長い時間のなかで、日本海でも同じようなことがあっても不思議はないと思います。

少なくとも、一時期日本海は外洋と隔絶した内海、または、湖(塩湖ですが)だった可能性は高いということですね。

後は、乾燥と真水の流入の差で盆地だったかどうかが決まるのでしょうが、
まさか、黄河の河口があったとは思いませんでした。

17,000-15,400年前の出来事だそうです。

日本で最古の土器が発見された時期です。

文化交流にどのような影響があったのでしょう。

長江周辺では、もっと古い土器が発見されているそうです。

なので、長江だったら分かるのですが、黄河流域とはどんな関係があったのでしょう。

〜〜
最後の文章を書いた後、
黄河の水量では日本海の海水濃度を下げることは難しく、
長江の水が日本海に注ぎ込んでいたのではないかという記事を読みました。

沖縄トラフを除く東シナ海の大半が陸地だったことを考えると、
黄河の河口よりも長江の河口があってもおかしくないと感じられます。
朝鮮半島を回り込まなければいけない、黄河より、上海から直線で流れて来ることができる長江のほうが距離は短いとも言えます。

(Googleマップ より)

中国の江南地方と日本の深い関係は、こういう地理的な条件が基になっているのではないでしょうか?

[国立環境研究所HP 水環境研究の最前線(9)より …東シナ海の特徴は、全面積の3分の2を占める水深150 m以浅の大陸棚と、その南東側の縁に伸びる最大水深2,700mの沖縄トラフだ…]
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49.日本神話の大八洲の誕生と実際の歴史(3)  瀬戸内海が日本を創った

2024年05月25日 | 日本神話を読み解く
イザナギのミコト、イザナミのミコトの二人が作った洲(しま)は、日本書紀本文によると、次の八つです。
(他の洲は海の泡が固まったものだそうです。)

日本書紀では、本文とは別に諸説あるものを併記していますが、とりあえず、本文によって考えます。

1.大日本(おおやまと)豊(とよ)秋津(あきづ)洲:本州

2.伊予二名(いよのふたな)の洲:四国


3.筑紫(つくし)の洲:九州


4.億岐(おき)の島:隠岐の島


5.佐度の洲:佐渡ヶ島


6:越(こし)の島:(これがどこを指すのか定説がありません。)

7.吉備の子洲:岡山県児島半島(島だったのですが、干拓等により半島になりました。)

吉備の穴海|岡山平野のおいたち|地盤調査|株式会社フジタ地質
株式会社 フジタ地質 ホームページより引用

8.大洲:(定説なし。)

−−−−−−−−−−−−−−
大日本(おおやまと)豊(とよ)秋津(あきづ)洲(本州)の秋津とは、トンボのことです。
豊の字がついているので、
トンボが沢山いる島ということです。

もう一つの含意があります。

私の中のトンボのイメージは
前から見たこんな感じのものです。
本州の形に見えませんか?

縄文人は、外洋航海ができました。
当然海図が頭に入っていたはずです。
どんなに大きくても島の形が
イメージできていたと思います。

−−−−−−−−−−−−−−−
本州を生む前に、
淡路島の名前がでてきます。

淡路島は胞(え)として
他の島を生んだと書いてあります。
胞(え、えな)とは、
子宮の内膜のことです。

入り江(小さな湾)の
「江」も同根です。
入り口が狭まっていて、
中が広がっている形を
「え」と呼んでいるようです。

前に話した通り、現在の日本列島は、
海から島がニョキニョキ
生えてきたのではなく、
陸に海が流れ込んできて
形作られました。

大きな一つの島を本州、九州、四国に
分けたのは瀬戸内海です。

この瀬戸内海が縄文海進で水没する時に
淡路島の周辺が
入り江(湾)=胞=子宮になりました。

淡路島にある湾から始まって
瀬戸内海が徐々に水没していきます。
お腹の中の赤ちゃんのように
瀬戸内海が育っていきます。

日本書紀では、このようなことが
語られていると解釈できます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
前に触れたネットで見つけた論文の図面です。

阿波学会紀要第61号 2017.3
『地形・地質から見た鳴門海峡の成立』
西山賢一他

まず、淡路島で関止められていた海(現在の紀伊水道、当時は紀伊湾という入り江=胞)が、
淡路島の東側から北に向かって入り込みます。


その後淡路島の西側からも海水が入ってくることで、
淡路島が大日本列島から切り離されて島となります。

第三段階の図(1.03万年前)を見ると、淡路島周辺の入り江は、保健体育の教科書に出てくる子宮=「胞(え)」のようです。

日本書紀本文で、イザナミのミコトは、淡路島を生んでいません。
淡路島ができて、本州ができる前、
その時にイザナミのミコトを神様として崇める人々が日本に来たのではないでしょうか?
およそ一万年前になります。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
先ほどの論文の図では、
早々と四国と九州の間が海になっています。
でも、それだと先に本州が生まれた
という日本書紀の記述に合いません。

四国と九州の間を繫ぐ
佐田岬半島になった陸橋は
なんとか持ちこたえたと考えます。

(グーグルマップより引用)

先に関門海峡の方に海水が流れ
日本海とつながれば、
本州が先になります。

その後、
佐田岬半島からも海水が流れ込み、
四国と九州が同時に誕生します。

次回は日本海の島が生まれる様子を描きます。

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46.タンザニアのンゴロンゴロ イースター島のオロンゴ 淡路島のオノゴロ

2024年05月14日 | 日本神話を読み解く
タンザニアに大きな穴を意味するンゴロンゴロクレーターがあります。


東太平洋南米チリ領イースター島のクレーター近くにオロンゴ(メッセンジャーの場所という意味)があります。


淡路三山 生駒山系 六甲山系に囲まれた楕円形の窪地、縄文早期、縄文海進の前まで陸地だった大阪湾の南西にオノゴロ島があったとされています。

(国土地理院地図の自分で作る色別標高図を使いました。)

この3つの場所の地形と地名の類似は、
偶然でしょうか?


日本ではクレーターと言うと
隕石の落下跡という意味になりますが、
英語では火山の噴火口も含む、
円形の窪地のことを指します。

タンザニアのンゴロンゴロクレーターも
イースター島のクレーターも
古い火山の跡だと考えられています。

イースター島オロンゴの意味は
メッセンジャーの場所です。
イースター島のメッセンジャーは鳥です。
日本の神様が使う船は鳥船と言います。
日本とイースター島で古代に行き来があった、
と考えるのはとてもロマンがあります。

タンザニアのンゴロンゴロ・クレーターと
日本のオノゴロ島に関係があるのではないか
というのは、
漫画家の諸星大二郎さんの作品で知りました。

アニメ監督の宮崎駿さんが
『風の谷のナウシカ』
の漫画版を書くときに、
自分は原作になって
諸星さんに絵をお願いしよう
と雑誌かなにかで話していた
のを思い出します。

イースター島のオロンゴ
とオノゴロ島の関係は、
YouTubeチャンネルの
TOLANDVLOGさんで
ほのめかされていました。

その時は、このようなクレーターが
間近にあるとは知らなかったので、
後で気付いた時に関連を強く感じました。

日本の大阪湾を反時計回りに
楕円を描いているのは、
淡路三山 
和泉山脈(紀泉アルプス) 
金剛山地 
生駒山系 
北摂山系 
六甲山系
です。

他のクレーターに比べて
大きすぎると思われるかもしれませんが、
淡路三山から金剛山は
関東で言うと
スカイツリーから筑波山を
見るようなものなので、
冬の晴れた朝にはとても近くに
見えたのではないでしょうか。

タンザニアは遠いと思うかもしれませんが、
南東側の海を挟んだマダガスカル島には
タミル語を話す人々が住んでいます。
(いつ来たのかは分かりませんが。)


タミル語はインドの
ドラヴィダ語の一つですが、
オーストロネシア語に近い
オーストロアジア語の影響を
受けているそうです。


タミル語と日本語には、
影響関係があります。
(それを指摘した大野晋さんを私は大変尊敬しています。)

また、日本語の基層も
オーストロネシア語や
オーストロアジア語
と同根の可能性もあります。

イースター島ではオーストロネシア語族の
ポリネシア語系統の言語が使われていました。

タンザニアと日本とイースター島は、
海流を読むことができる海洋民族にとっては
絶望的に遠いという距離ではなく、
何年かかければ行くことができるだろう、
という感覚だったのではないでしょうか。

日本書紀にも10年かけて
みかん(橘)を取りに海に出る
という話があります。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

この写真がどこの場所か分かりますか?
同じ場所の写真ではありません。
右は、淡路島の南のオノゴロ島だ
と言われている沼島(ぬしま)の
上立神岩(かみたてがみいわ)です。

左は、イースター島の
オロンゴの沿岸にある
イスロテ・モトゥ・カオ・カオ
という岩礁です。

こんな偶然あるのでしょうか?


こんな偶然は考えられません。

「勝浦」という地名が
三叉の銛の形の海岸線を表し、


「水戸(みと_みなと)」が
海に囲まれた長方形の陸地を表すように


同じ地形に同じ名前を付けているだけです。

日本とイースター島の似た地名は、
同じ言語と文化を持った人の
痕跡だということです。


オノゴロ(淤能碁呂)島の名前は、
神様が海か陸かまだ分からない所を
鉾で「許々袁々呂々(コヲロコヲロ)」
とかき混ぜたことが由来です。

コロコロ、ゴロゴロ、コロンコロン、
ゴロンゴロンは、
回転に関する擬態語です。

鉾でグルングルン掻き回している様子が
思い浮かびました。

回転や丸い形を意味するの擬態語をあげると、

コロコロ、ゴロゴロ、コロンコロン、ゴロンゴロン、クルクル、グルグル、クルンクルン、グルングルン、クリクリ、グリグリ、クリンクリン、カラコロ、カラカラ、

カ行とラ行と「ん」と
カ行の濁音のガ行の
組み合わせです。

母音の違いで印象が変わりますね。

鉾で「許々袁々呂々(コヲロコヲロ)」
とかき混ぜてオノゴロ(淤能碁呂)島
と書かれていますが、
「袁」は「ヲ」ではなく「ヲン」です。

「許々袁々呂々」は、
「コヲロコヲロ」ではなく、
「コヲンロコヲンロ」です。

「ヲ」を母音と認識すると、
日本語は、二重母音を嫌うので
「コンロコンロ」になります。

(例えば)
宝の山を見つけて宝物が
ゴロゴロザクザクあった時に、
擬態語を強調して次のようにも
言えます。

ゴンロゴロ、ザックザク

 「ゴロンゴロン」よりも
さらに強い印象になります。

強さの順(弱い順)でいうと、

コロコロ、
コロンコロン、
ゴロゴロ、
ゴロンゴロン、
ゴンロゴロ

です。

昔は發音「ん(N)」の表記法は
一般的ではなかったので、
代わりにナ行の文字
「の(NO)」を使ったと考えると、
「淤能碁呂(オノゴロ)」は
「オンゴロ」だったのかもしれません。

繰り返すと「オンゴロオンゴロ…」ですが、
二重母音を嫌うので、
繰り返しているうちに

…ゴロンゴロン…

になります。

タンザニアの「ンゴロンゴロ」も繰り返していけば「…ゴロンゴロン…」になります。

イースター島の「オロンゴ」も
二重母音を避けるという
ルールがもしあれば、

オロンゴオロンゴ…ゴロンゴロン…

です。

遠く離れた3つの地名は
円や回転を表す擬態語が
由來だと考えることができます。

古事記でオノゴロ島は、鉾をかき回し、
引き上げた時に塩が落ちて
固まったと書いてあります。

グルグルと回しながら引き上げれば、
塩は円形に飛び散って、
円の円周上に堆(うずたか)く
積もっていくはずです。

つまり、
クレーターのように外輪山が
出来上がります。
(古事記には回しながら引き上げた
 とまでは書いてありませんが。)

日本と
アフリカのタンザニアと
南米チリのイースター島の
地名の由來が分かりました。

隕石のクレーターや、
火山でできた外輪山のように、
円周状に山地や山脈が連なる地形を、
円形や回転を表す擬態語

…ゴロンゴロン…

で表したことが由來です。

オノゴロ
ンゴロンゴロ
オロンゴ
は、
繰り返しのどこで区切るかや、
表記の問題で
少し違うように見えるだけです。

大阪湾周辺だけが円ではなく、
楕円なのが少し残念です。

(写真はウィキペディアとグーグルマップから引用しました。)


コメント
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