天海丹 雲之波立 月船
星之林丹 榜隠所見
天の海に 雲の波立ち 月の船
星の林に 漕ぎ隠る見ゆ
星の林「に」とあります
「に」は、元来、場所を示す助詞です。
動かない一点を示すことから、目標や方向を指す場合もあります。
直前の名詞を後に続く「動詞」に繋げます。
直前の名詞を後の「名詞」に繋げる時は、「の」になります。
「に」と「の」は、母音交換された同根の言葉です。
この歌の「に」は、後ろに続くいくつかの動詞のうち、どこに繋がるのでしょう。
───────────────
ここの「に」が「隠る」に掛かるとすると、
「母親の背中に隠れている」という時のように単に場所を示していることになります。
ところが、月の船は明るすぎて、近づくだけで、天の川を始めとする星の林を消してしまいます。
とても隠れるどころではありません。
───────────────
ここの「に」が「漕ぎ」に掛かるとします。
すると、「星の林に向かって漕ぎ進む」と言う意味になり、月の船と天の川の間に距離があることになります(星の林を消さずに済みます)。
この時、「に」は方向を示す助詞になります。
月齢二十三日の下弦の半月が夜半に登ってきて、夏の夜半には南中する天の川を追いかけるかたちになります。
月と天の川がある程度離れているので、星の林を消さずに済むのかもしれません。
なので、この歌は下弦の半月が天の川を追う姿を歌っているのではないか、と考えました。
ところが、どうやらこの歌は七月七日、七夕の夜空を歌っていると考えられるため、ここでの月は月齢七日の上弦の半月になります。
(七夕については前回のブログを見てください。)
上弦の半月は夕方に南中し、そのころ登ってくる天の川に追いかけられる側になります。
つまり、「月の船に向かって星の林が追う」ことになります。
なので、ここの「に」は「漕ぎ」に掛かるのではありません。
────────────────
天の川が南中して見頃になる時間に上弦の半月は山際に隠れつつあり、月明かりが衰え、星明かりが鮮明に見えてきます。
この歌の最後は「所見」と書いて、多くの人が「見ゆ」と読んでいます。「所」を付けて、「見る」ことを抽象化しているのだと思います。
つまり現実に見ることではなく、仮想として「そのように見える」という意味に取ることができます。
わざわざ「所」という語を使っているので、「星の林に」の場所を示す格助詞「に」は、「隠る」や「漕ぎ」ではなく「見ゆ」に掛かるのではないでしょうか。
林の中から空を見上げるという光景は、なかなか想像し難(にく)いのですが、ここにアップしたいくつかの写真を見てみてください。
木洩れ日の様子が天の川にそっくりです。
夜空を見上げる光景を林の中にいて空を見上げる光景になぞらえていることが分かります。
文字だけを見ていると分かりませんが、実際の光景を写真で見てみるとそれがいかに適切な描写かが分かります。
天の海に 雲の波立ち 月の船
星の林に(いて) 漕ぎ隠る見ゆ
(千葉県館山市の洲崎神社から見た東京湾の入口です。海(あま)と天(あま)がひとつに見えます。その「あま」を東京港や川崎港、横浜港へ向かう船が通り行きます。)
助詞「に」は、大和言葉にとって、とても大切です。
主語や目的語を示す格助詞は省略することがあっても、場所を示す格助詞「に」を省略することは稀です。
物事は、誰かが起こすのではなく、その場に自然に起こると考えています。
「誰が」より「どこで」の方が重要だということです。
(「で」は、「にて」の音韻変化です。)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます