仕事と生活の授業(続き)

前に作ったホームページは、あまり読まれないようなのでブログで再挑戦です。

25.『あかるい あさ おはよう』 詠み人知らず 【ことば遊び】

2016年12月28日 | 言葉遊び
まだ 

まっくらな 

まちかど

まわり



最近は、

早朝出勤で

要領の悪い自分と会社の

折り合いをつけている毎日です。


今日、

間隔の開いたダイヤの、

昨日より一本遅い電車に乗ると、


会社につく頃には明るくなっていたので、

ツイッターを使って、

ちょっとお遊びしてみました。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

1.

あかるい

あさ

おはよう

2.

かなしい

かさ

こんばんわ

3.

さみしい

さが

そんなもん

4.

たのしい

たち

とおせんぼ

5.

ななつの

なみだ

のにさく

6.

はかない

はな

ほんとうは

7.

またたく

まなこ

もういらない

8.

やさしい

やいば

よくきたね



...、


らいねんは

がんばる



もうげんかい


「ら行」は思いつきません。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


昨夜の雨で濡れた折りたたみ傘を

カバンに入れっぱなしにしたことを

思い出して

「悲しい傘」

です。

(またカビちゃう。)


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


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24.『この世界の片隅に』(アニメーション映画)その三 2016年 原作 こうの史代 監督 片渕須直

2016年12月18日 | 映画の感想文
(『この世界の片隅に』の感想の続きです。)

 映画を見て2週間が経って、

 やっと涙を流さずに感想が書けるようになりました。


 映画を見ているとき、

 自分がスクリーンの中にいるような感覚とともに、

 頭に浮かんだことがいくつかあります。

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 自分が一生懸命がんばっている仕事が、

 誰かを不幸にしていないだろうか?

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 なぜこんなことをこの映画を見て思ったかを書きますね。


 私は仕事にしろ遊びにしろ、

 何かにつけて工夫をすることが好き...

 というより、工夫をしないではいられないたちです。


 すずさんの感情に共感はできなくても、

 普段ぼうっとしているのに、

 何かにつけて工夫してしまう点は、

 とてもよく分かります。


 私にとって、

 この点もすずさんの日常にリアリティを感じてしまう理由のひとつでした。



 映画の終盤。

 防空壕から出てきた人をターゲットにするため、

 時限式の爆弾が投下されていたことが描かれています。


 私はこんな爆弾があることを初めて知りました。


 戦前の一般の欧米人にとって、

 日本はマルコポーロの黄金の国ジパングであり、

 日本人は木と紙でできた家に住んでいる

 おとぎの国の住人だったのかもしれません。


 その木と紙のおうちを効率的に火の海にして、

 民間人を大量に殺傷する工夫がなされた兵器が、

 焼夷弾です。


 これは、前から知っていました。


 時限式の投下爆弾を考えついた人、

 焼夷弾を情熱をもって改良していった人。


 非人道的な科学技術に怒りを感じます。


 でも、

 情熱をもってその工夫を進めていた人を断罪できるのか、

 自分がその立場だったら同じことをしたのではないか...。


 兵器に対する創意工夫は、

 正義のための献身だったのか、

 個人的な栄進、出世を求めた結果だったのか、

 あるいは、

 ありふれた日常業務だったのかは分かりませんが、


 彼らにも、

 私やすずさんと同じ様な日常があって、

 個人の理想と組織の現実のなかで、

 ぎりぎりに折り合いをつけて暮らしているんだと思います。


 非人道的な兵器、

 ありえないものを作った人々にも、

 個人の理想と、

 組織の論理との間の

 葛藤があったはずです。



 誰もが組織と個人の葛藤に折り合いをつけ、

 自分を守りながら暮らしています。


 組織から離れれば(離れられれば)

 決してしないことを、

 組織に属して、

 その組織との折り合いのつけかた次第ではしてしまう。

 むしろ積極的に進めてしまう。


 そういう生き物だと思います、

 人間は。


∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽

 私にとって個人の理想を犠牲にして献身してたのは、

 会社という組織です。



 なぜそうしてきたかは、

 既に分からなくなってしまっています。



 初めは自己実現の場、

 と思っていたような気もしますが...。



 今は仲間の成長のため、

 と考えたいのですが、

 偽善の香りがします。





 組織が求めるものが、間違っているのか、

 個人の理想と組織の論理の折り合いのつけかたで、

 間違ったことが行われてしまうのか...。


 自分自身の仕事で何かとても間違ったことをしている感覚はありませんが、

 もしかすると、

 いま当たり前だと思っていることが、

 それを当たり前だと思えない人を

 とても傷つけているのかもしれません。




 自分が一生懸命がんばっている仕事が、

 誰かを不幸にしていないだろうか?



 以上、なぜこんなことを

 この映画を見て思ったかを書きました。


∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽


 すずさんは、そのおおらかさで、

 個人に対立する組織を、

 自分の中にとりこんでいくような人に見えます。


 初めはなじめなかった

 新しい家族、隣組、ご近所。


 その全てがすずさんを受け入れて、

  むしろすずさんがそれら小さな社会の中心になっているかのようにも感じられてきます。



 そんな中、

 すずさんは、

 もっと大きな組織と向き合います。

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽


 倹約は、

 当時求められていた美徳です。

 すずさんは素直にこれに従って、

 それどころか自ら進んで工夫を凝らし、

 倹約生活を「楽しんで」います。


 倹約以外にも、

 戦争を進めるための社会制度が、

 価値観が、

 押しつけられていきます。

 その価値観を、

 すずさんらしく、

 おおらかに受け入れていきます。


 その価値観を、

 押しつけているのが、

 国家です。

∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽


 モンペを穿くのも、

 配給に並ぶのも、

 配給が少ないのも、

 少し不便だけれども、

 国の正義のため、




 お兄ちゃんが、

 戦場から帰ってこないのも、

 悲しいけど、

 国の正義のため、







 たまには闇市で買い物もするけれど、

 少しずつ自分の気持ちと組織の論理に折り合いをつけて暮らしています。








 少し理不尽でも、

 なんとか折り合いをつけて暮らすのが、

 すずさんにとって、

 「日常」。



 そして私たちにとっても、

 海の向こうの人たちにとっても、

 「日常」とはそういうものです。


∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽


 嬉しいことも、

 悲しいことも、

 楽しいことも、

 つらいことも、

 そして理不尽なことも、

 全て巻き込んで、

 時間という坂を転がり続けるのが、

 「日常」です。


∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽


 港の絵は描いちゃだめ、

 というのはとても納得がいかないけれど、

 そんなもんなのかな...、




 爆弾が降り注ぐ中で暮らすことも、



 仕方がない...、









 笑顔が失われるのも、














 右手が旅に出るのも、













 折り合いなんてつけようもないことなのに、











 折り合いをつけた気になって、



 黙って暮らすのが「日常」です。

















 歪んでいます。
















 すずさんの日常は、





 歪んでいます。








 そのスクリーンの中、

 その世界は歪んでいます。












 それでは、

 スクリーンの外、

 いまここにある、



 この世界は歪んでいないのでしょうか?


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23.『この世界の片隅に』(アニメーション映画)その二 2016年 原作 こうの史代 監督 片渕須直

2016年12月12日 | 映画の感想文



 『この世界の片隅に』の感想の続きです。


 映画の序盤中盤を経て、

 現実にはあり得ない化け物や座敷わらしを

 何の違和感もなく受け入れる心の下地が

 ゆっくりと作られていきます。


 そして映画の終盤。

 空襲が終わりほっとして防空壕から出てきた

 人々を狙い撃ちにする時限式の投下爆弾も、


 日本家屋を効率的に焼き払い、

 火の海を作ることで一人でも多くの民間人を

 殺すことができるよう工夫された焼夷弾も、


 映画の世界に入り込み、あり得ない

 ファンタジーを現実として受け入れてしまっている観客は、

 ファンタジー以上にあり得ない戦争におけるできごとを、

 自分自身の体験として受け入れざるを得なくなっています。


☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


 同情(シンパシー)や感情移入(エンパシー)によって

 涙を通じた戦争体験の継承という道もあります。


 戦争の悲惨な実状を克明に描くことで、

 恐怖や嫌悪による戦争に対する拒絶を伝える道もあります。


 そのどちらでもない道、

 『日常としてのファンタジー』

 『ファンタジーとしての日常』

 という回路を使って、


 現在の常識では想像しがたい事柄を

 観客に体験させるという道を選び、

 成功しています。


☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

 高い芸術性をもっているこの映画は、

 それ自体に価値があって、

 何か他の目的のために優れている

 ということではありません。


 それでも、

 戦争体験の継承という重要な使命を

 果たすことのできる素晴らしい媒体である

 という側面をこの映画は持っています。


☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
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22.『この世界の片隅に』(アニメーション映画)その一 2016年 原作 こうの史代 監督 片渕須直

2016年12月11日 | 映画の感想文
 先日『この世界の片隅に』を見ました。

 すぐに原作も買って読み終わりました。

 原作もすばらしいですし、原作とはまた違ったアニメの力のようなものも感じました。

 終盤の時限爆弾のところでは、しばらく息ができませんでした。映画を見て息ができなくなるという経験は初めてです。

 そして、この映画から人が生きていく意味について、強烈なメッセージを受け取りました。

 すばらしい作品に出会えてとても幸せです。

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

 『この世界の片隅に』

 この映画を見て...、

 自分の過去を投影できるエピソードがほとんどないにも関わらず、

 すべてが自分のことの様に思える。

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

 (以下ネタバレあります。見てない人は読まないでください。)

 ぼうっとしたところが少し似ているくらいで、主人公のすずさんに感情移入する場面も少なく...、

 少しお姉さんが人間らしく共感できる対象として描かれていますが、

 その他の人々も含め登場人物に特に肩入れするような場面もありません。

 終戦の日泣き崩れる主人公の涙は、それまでのすずさんの穏やかさとの対比で意外なものであり、それだからこそ深遠なものを含んでいますが、直感的に理解できるものではないかもしれません。

 この場面は、静かな感情の表現が多いこの映画の中で数少ない激しい感情があふれるところですが、この場面にカタルシスを感じることはできませんでした。

 それなのに、序盤を経て映画に完全に引き込まれてしまった私は、映画の中のできごとをすべて私自身の経験としてとらえていました。

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

 この映画のいろいろな感想の中に、リアルな日常を描いていることや、日常の延長線上に非日常としか思えない戦争の悲惨を描いたことを評価している文章を見ました。

 まったく同感です。

 でも、私が一番心動かされたのは、そこではない気がします。

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

 この作品は、ファンタジーとリアルな日常生活の現実との境界線を取り除き、行き来することで、ファンタジーが現実であり、現実が実はファンタジーかもしれないことに思い至らせてくれます。

 怪物にさらわれるのはファンタジーですが、夢見がちな幼い心にとって、それは現実に起こった何かの事実を表しているのかもしれません。

 座敷ざしきわらしが天井裏から現れるのはファンタジーですが、主人公が将来出会う 娼館の女の人がその座敷わらしであることは現実として描かれています。

 妻にとって自分がベストの選択でなく、妻がかつて恋した男性と結ばれることが妻の幸せだと思う夫の考えは、夫にとって極めて厳しく、悲しい現実として現れていますが、本当はファンタジーです。

 逆に妻が持つ夫の昔の恋人に対する思いはファンタジーかもしれないし、現実かもしれない。

 (映画を離れて私の話ですが)今まで仕えた上司の多くは、自分のことを疎(うと)んじていると思う私にとって強烈な事実も、ファンタジー。

 気になる相手のちょっとした仕草が好意の現れに違いないという身近なファンタジーも実は事実かもしれない。

 細々(こまごま)とディテイル(細かいところ)にこだわったリアルな日常も主人公:すずさんのふわふわしたキャラクターでまるでおとぎ話のようにも思えます。

 この映画では、現実にはあり得ないようなファンタジーが日常の延長にあり、リアリティーにあふれる日常世界が実はファンタジーかもしれないものとして描かれています。

 この手法により、『日常としてのファンタジー』と『ファンタジーとしての日常』が共存する世界が現れます。

 同時にファンタジーとしての映画と観客である私の現実の境界もあやしくなり、スクリーンの中に広がる世界のどこかに自分がいるという感覚になり始めます。

 そして反対に、この私の現実の世界のどこかに、主人公のすずさんがいるような気がしてきます。

 この世界の片隅にすずさんがいて、そこにあるスクリーンの中、その世界の片隅に、私がいる。

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


 感情移入という手法でも、カタルシスという手法でもなく、この映画は観客を映画の世界に誘(いざな)い、映画の世界を観客のいる現実の世界へ重ね合わせ、一つのものとすることに成功しています。

 この映画の芸術としての価値はここにあると思います。

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
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