岩波古語辞典を見ていて一つ発見しました。
接尾語「だ」です。
「だ」は、中身と外側を分け、外側だけで、
中が空っぽだということを強調する接尾語です。
包装されたお菓子の内、中身のチョコではなく、
箱やその周りのビニールだけだということを強調する印です。
「体(からだ)」という言葉は、
「身(み)」の類義語のようですが、
実(じつ)は対義語です。
人間の中身を魂(たましい)と考えて、
中身=魂の入っているものが「身」。
逆に魂のない外側、殻だけのものを
「体=殻だ」と言います。
お菓子で喩えると外側の箱の部分です。
更に「体」を内側と外側に分け、
一番外側、端っこの皮の部分を
「肌(はだ)」と呼びます。
体の外側=端(はし)の意味の
「端(は)」に接尾語「だ」を付けたものです。
「体」の一番外側の薄い部分なので、
お菓子で喩えるとビニールの包装紙のところです。
「合う」は、二つのものが近づいて向かい合うことです。
「合う」の名詞形(連用形)の「合い」は
近づいた二つのものの中間にある空間を指すことができます。
つまり「合い」だけで、「間(あいだ)」の意味を持ちます。
(「間合い」はその意味です。時間の間の意味で「合いの手」があります。)
「だ」は、間が空いていることの強調です。
とても興味深いのが
「仇、徒(あだ)」です。
「あだ花」という言葉は浮かぶのですが、
正確な意味を知りませんでした。
「あだ」自体で「花が実を付けない」という意味があります。
「あだ花」は、外見だけ良くて中身のない花、綺麗だけど空しいことです。
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「あ」は、「これ」に対しての「あれ」のように遠くを指す言葉です。
また、田圃の畔(あぜ)を「あ」と呼ぶので、
外側、外枠というイメージがあるのかもしれません。
外枠という意味の「あ」と
外枠だけで中身がないことを強調する「だ」が
結びついたことになります。
もしかすると「あだ」が接尾語「だ」の語源かもしれません。
「あだ」を語の後ろに付けると母音が連続するので、
それを嫌って「あ」が脱落したということになります。
(意味があまりにビッタリなのでそう思いました。)
「(入り)江(え)」は、海が陸に入り込んで、
陸から見れば間(あいだ)が空いた形です。
逆に海側から見れば
海が陸の中に枝を伸ばしているような形になります。
子宮の内膜である「胞衣(えな)」の「胞(え)」は
体の外側の空間が体の中に入り込んで
中空になった様子です。
こちらも外側の空間が枝を伸ばして
体の中に入り込んでいるとも考えられます。
本体から伸びる意味で、
「え」と読む「江」「胞」「枝」「柄」は同根です。
「江」や「胞」の「え」に接尾語「だ」を付けて
「枝(えだ)」になります。
海や、外の空間といった大元(おおもと)となるところから
分かれて小さく伸びている中空のものという意味です。
まさしく枝分かれしているものを指します。
「だ」は、「だ」が付かなくても
間(あいだ)が空いているものに付いて、
間が空いていることを強調します。
そうだとすると、
木の「枝」自身に中空というイメージがあるはずです。
木の神様を「くくのち」と言い、
「くく」が木を表します。
「く」と「き」は頻繁に交換されるようです。
「くく」は、
「潜る(今はクグルですが、昔はククルです)」
「括(くく)る」と同根だと考えられます。
「潜る」には狭い隙間を通り抜けるという意味があります。
「木(き)」=「くく」は、
内部にある狭い管(くだ)で
地下の水を空に伸びる葉や花に運んでいます。
つまり「木」の語源が
「水を通す中空のもの」
という意味だったのだと思います。
「茎(くき)」も古くは「くく」と読みました。
「木」と「茎」は今ではイメージが違いますが、
古い日本では同じ言葉でした。
「茎」であれば、
中が空洞なイメージがピッタリきます。
なにせ麦の茎=麦わらの英訳は「ストロー」です。
木の幹から分かれて細くなる部分を
「枝(えだ)」と呼ぶのも、
接尾語「だ」のルール通りです。
今の話の中で、
「管(くだ)」の語源も分かりました。
「木=く(く)」、「茎=く(く)」+「だ」です。
「茎」=ストローのように細長く中が空洞なものを
「管(くだ)」と呼びます。
この議論から、
「果物(くだもの)」の語源も分かります。
「くだもの」の「く」は、
「木々(くく)」「茎(くく)」の「く」なので、
水を通す導管が沢山通っている
みずみずしいイメージになります。
また、接尾語「だ」が付いていることで、
「実(み)」=種の部分ではない外側を食べることが強調されています。
桃を想像すると分かりやすいですね。
農林水産省は木の実=種を食べるものを果物に分類しているようですが、
語源からするとおかしな分類になります。
(果実と呼ぶのなら同じ分類で良いと思います。)
私達が、果物と聞いて、
みずみずしいイメージを持ち、
くるみやアーモンドを果物と思えないのは、
果物の語源のイメージがあるからです。
このイメージは漢字文化圏でも共有されていて、
「果」の上の部分は、
田圃の畔(あぜ)の形をしています。
水を蓄える空間がある様子を表していて、
実(み)=種を食べるのではなく、
その周りのみずみずしい果肉を食べることが
表されています。
果物を「木の物」とする誤った解釈により、
スイカや苺は果物か、という議論があります。
私達はスイカも苺も間違いなく果物だと確信しています。
どちらもみずみずしいことと、
「くだもの」の「く」は、
「木(くく)」だけでなく、
「茎(くく)」の「く」でもあるからです。
「札(ふだ)」もそれっぽいのですが、
「文板(ふみいた)」が変化したもので、
接尾語「だ」とは関係ありません。
「無駄(むだ)」は、
「無(む)」に中が空っぽ、空しいという意味があるので、
接尾語「だ」のルールにピッタリです。
ところが「無(む)」は漢字の音読みで、
大和言葉ではありません。
漢語に大和言葉のルールは違和感があります。
(「駄」の漢字は当て字のようです。)
岩波古語辞典の用例は
江戸時代の洒落本と咄本と呼ばれるものから取られています。
「無駄」は、おそらく新しい言葉なんだと思います。
「無(む)」が日本語として十分馴染んだので、
大和言葉の接尾語「だ」のルールを適用したのかもしれません。
そうではなく、「無駄」=「空(むな)しいこと」なので、
「空(むな)しい」の「む」に「だ」を付けたのかもしれません。
「むなこと」=実のない言葉、という語は万葉集にあります。