仕事と生活の授業(続き)

前に作ったホームページは、あまり読まれないようなのでブログで再挑戦です。

8.『Mine』 2014年 Aimer

2015年01月27日 | 歌の感想文
『Mine』 2014年 作詞 aimerrhythm 作曲 Chikara Morimoto 歌 Aimer


(歌の感想ですが、ちょっと変わったことをします。

 エメさんの歌の行間に

 これまで書いてきた映画の感想を読み込んでいきます。

 単純にエメさんの歌の感想だと思って読まれる方には、

 期待はずれになってしまうかもしれません。

 どちらかと言うと映画『秒速5センチメートル』の

 感想のまとめと言った方が近いかもしれません。)


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


前から耳にしたことはあったはずですが、

Aimer(エメ)さんの歌を強く意識したのは、

『今日から思い出』という曲を知ってからです。

(YouTubeの動画は十数回見ましたが、毎回必ず涙がこぼれます。)


音楽も声も素晴らしく、

そして、詩がとても心に響きます。


エメさんの詩には、

手垢にまみれていない新鮮さが感じられます。


とりわけ「今日から思い出」というフレーズの

新しさと深みが印象に残ります。


『今日から思い出』と同じように

『Mine』には、

想像力をかき立ててくれる言葉があふれています。


とても私的な、

一人称で語られるべき『心』という言葉の後に、

「二人を知って」初めて見えたという

意外なフレーズが続きます。


そして『心』は君がくれたと...。


「今日から思い出」というフレーズが、

思い出という過去の出来事を、

(今日より後の)未来から見つめるという、

とても新鮮な視点の移動を示してくれたように、


『Mine』では、一人称で語られるべき

『心』を二人称を通じて語るという

視点の移動を見せてくれています。


そこで示されているのは、

視点をずらすことによる目新しさではなく、

視点をずらすことによって初めて分かる大切な事柄です。


『心』は、決してその場その場の感情の集まりではなく、

その場を覆っている気分でもありません。


私が私であるために必要不可欠な何か、

自分らしさを形作っている何か、です。


自分らしさの輪郭を捉える為には、

自分ではない何かとの関係が必要となるのではないでしょうか。


三人称で語ることのできる第三者ではなく、

自分にとって特別な誰か、

一人称の世界の奥深くでつながっている誰か、

すなわち二人称である『君』との関係において

『心』は語られるものかもしれません。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


「『心』は君がくれた」

という情景を描いている物語があります。

このブログに『秒速5センチメートル』の感想を置いてあります。


その映画にその情景があります。


子供の頃、

見るものや体験するできごと

全てに新鮮な驚きや喜び、怖れや悲しみ

といった感情がともなっていました。


『秒速5センチメートル・桜花抄』の主人公には、

全てのものごとについて感情を共有できる

特別な存在がいます。

二人は、一人称と二人称を区別する必要のない

特別な関係にありました。


悲しい出来事を前に、

思わず発した主人公の一言が

その特別な関係を揺るがします。

二人は、同じだと信じて疑わなかったものが

実は違うものだったことに気がつきます。

そこに距離が生まれ、

その距離が自分の心の輪郭を映し出し始めます。


そして、

雪の降る桜の木の下で

異なる二つの心が奇跡的に

再び一つになるという経験を経て、

『心』とは何か、どこにあるか、

を知ることになります。


しかし、一つにつながった心は、

いつしか二つに分かれ、

痛みを伴いながら色褪せていきます。


子供の無邪気さの中で、

感情に満ちあふれていた世界は、

奇跡的な経験により、

まばゆい光を放ち、


けれども「君」と別れることで、

まばゆい光だけでなく、

生き生きとした感情という

色彩をも

失っていきます。


目に映る情景のすべてが、

悲しみという磨り硝子を通して現れるようになります。

豊かに感情を表現するはずの一人称の世界は、

冷たく平板な三人称の世界に埋もれ、

心の輪郭が失われていきます。


ただ記憶の中にだけ、

あるいは遠くにいるはずの『君』を想う気持ちの中にだけ、

自分らしさを見つけることができます。


『心』は、君がくれたものです。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


作詞をする方(かた)は、

少ない言葉で独自の世界を形作らなくてはならないので、

とても広い解釈の余地を残してくれているのかなと思います。

歌に映画のストーリーを読み込むということも、

的外れかもしれませんが、

想像力が刺激されて、興味深い作業です。



「浮かぶ景色でも 同じ花を見ていた」


同じものを見る...。


考え出すと難しく思えてきます。

見ている対象が同じでも、

受け取る側の心のありようで

映り方が全く異なるということもあります。


濃い薄いの違いはあるものの、

見るもの全てに何らかの感情がまとわりついています。


同じ感情、同じ心で見るということができたとき、

とても強い意味で同じものを見た、

といえるのではないでしょうか。


『秒速5センチメートル 第2話 コスモナウト』のラストで、

心を通わせることができない絶望的な状況の中、

突然現れたH2-Aロケットを荘厳さに打たれながら、

同じ気持ちで見つめる二人(高樹と花苗)が描かれています。


その時二人の心は

同じものを見ている、

という感覚に溢れています。

絶望的に通じ合えない二つの心の奥底に、

分かち合える感覚の泉がある。


花苗はそのことに気づき、

高樹はそのことに気づきません。

女の子は分かち合う共感の泉を通じて

男の子の心を理解できました。

一方、悲しみで視界の曇った男の子は、

心が通じていることを認めません。


花苗は、

心の通路が今は一方通行であることを

悲しんでいます。

けれど、

自分の心の中に分かち合うことのできる

共感の泉があることを確信できた彼女は、

その通路はいつか必ず行き来できることを知っています。

そしてその泉が自分の心の奥深くにあること、

距離がゼロであることを...。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



映画『秒速5センチメートル』の主人公といえる高樹くんは、

少年のときに大切な人との関係を

つなぎ止められなかったという

自責の念から逃れることができません。


まるで色メガネを掛けているかのように、

全ての色彩が悲しみ色に歪められています。

そして見えるはずのものも見ることができません

...見ようとしません。


以前、山崎まさよしさんの

『One more time, One more chance』

の感想を書きました。

この歌は、失ったものを直接歌うのではなく、

大切なものを失くした心の穴の大きさを歌うことで、

間接的に失ったものの素晴らしさを讃えています。


高樹くんも、大切な人、

明里ちゃんの不在という心の穴を見ることで、

少年時代の大切な経験を讃えています。

自分の目の前に現れる世界を見ながら、

同時に彼女の不在という心の穴を見ている。


全てを曇らせる逃れられない悲しい罠であり、

少年時代の素晴らしい経験を讃える証しでもある

心のメガネがそこにあります。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


例えば...、


  梅雨の曇り空を見上げて憂鬱になる。

  秋の高い青空を見上げながら清々しく歩く。

  夏の重たい空気をくぐり抜け、気弱な星明かりがたどり着く。

  真冬の凍てつく空気が、

  距離を感じさせない活き活きととした星明かりを届けてくれる。


見上げている自分がここにいて、

見られている空や星が向こうにある。


それでは、その時々の感情は、心は、

どこにあるのだろう。


高樹くんの心は、

見ている自分と見られている対象の間にあって、

夏の重たい空気のように世界を覆っています。


高樹くんと同じ空を見上げていた女の子、

花苗さんは、

水面(みなも)では通じ合えない心の奥深くに、

大切な人と分かち合える共感の泉があることに

気付いています。

荘厳さに打たれた心は、

...同じものを見せてくれた心は、

見ている自分の側にあることを知っています。


高樹くんにとって大切な人、

明里さんは、

新しい生活へ踏み出すにあたり、

世界の新しい表情と出会うため、

心のあり方を変えようと決意します。


世界と自分の間にあって、

世界を覆っている心の膜を、

見ている自分の一部として引き受け、

見ている自分と見られている対象の間に何もない世界、

ありのままの世界を曇りのない眼差しで見つめようとします。


心の膜も見られている対象のひとつです。

悲しい気持ちの自分を見ている自分がいます。

見られている自分と見ている自分。


素晴らしい経験も、

許すことのできない自分の過去も

全て見られている自分のあり方です。

もしこれらを見る側の自分の一部にできるなら、

曇りのない世界を見ることができるのではないか、

メガネを外せるのではないか。


明里さんはこの試みに成功していません。

ありのままの対象を見ることができるなら、

再会した大切な人を受け入れるはずです。


城之内ミサさんの『あの頃』

という歌が歌うように、

凍てつく風が、

距離を感じさせない

ありのままの「君」の姿を届けてくれるとき、

「私」は「君」に声を掛けることができます。


ありのままの「君」を見つめることができるのなら、

映画のラストの場面、

行き交う電車が通り過ぎた後、

踏切の対岸に明里さんはいるはずです。


けれども、柔らかな風が巻くそこに彼女はいません。

自責の念と過去を讃える気持ちとの葛藤は、

世界をまだ曇らせています。

メガネを外すことはできませんでした。


それは、

すれ違ったばかりの高樹くんと同じ心のありようです。


同じ心を持っている高樹くんと明里さんは、

その時、強い意味で同じ景色を見ることができます。



桜舞う、陽だまりの踏切を...。



踏切を背に、

少し軽くなった足取りで歩き続ける高樹くんには、

きっと次の電車を待つ踏切の音が小さく聞こえてくるはずです。


「遠ざかる陽だまりの音」

として。




Fin.

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【Aimer*Mine 蛇足】

『Mine』にでてくる

「静かに遠ざかる 陽だまりの音」

と言うフレーズは、とても新鮮です。

全くその音が想像できませんでした。


「陽だまりのにおい」であれば、

布団を干した後の心地良いにおいなど、

いくつか浮かぶのですが、

陽だまりはどちらかというと静寂をイメージしてしまう

(猫が縁側で寝ている様子)ので、尚更です。


衝撃を受けた、

というとちょっと大げさですが、

驚きました。

この歌に映画のストーリーを読み込もうと試みた時、

まず浮かんだ陽だまりは、

走り始めた電車の中の座席に差す日差しです。

(だから、遠ざかる音は、電車の過ぎゆく音です。)


でも座席の陽だまりが見えるのは、電車の中で、

電車の中にいると座席は「遠ざか」らないので

違うな...と。


踏切を陽だまりと表現するのは

少しためらいがありましたが、

映画の冒頭でも

陽がさんさんと降り注ぐ踏切が描かれているので、

良いのかな...と。


それと、

山崎さんと城之内さんの歌の感想が

伏線になっていたのですが、

それが回収できてよかった。


本当はもう一つメガネを外す方法があって、

それも入れ込もうとしたのですが、

収拾がつかなくなるのであきらめました。


それはまた今度です(機会があれば)。

星の王子様をからめた話になります。


(一方的なものですが)この歌の感想を書くという

約束が果たせて良かった。


ほんとのおしまい。


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7. 『秒速5センチメートル』 その3 「秒速5センチメートル」

2015年01月05日 | 映画の感想文

7. 『秒速5センチメートル -a chain of short stories about their distance-』 その3 「秒速5センチメートル」

    2007年 脚本・監督 新海 誠


 『秒速5センチメートル』の感想の続きです。

 短編第2話『コスモナウト』の感想からずいぶん間が開いてしまったので、同じトーンでは書きにくくなってしまいました。

 短編第3話『秒速5センチメートル』は、後半が山崎まさよしさんの歌『One more time, One more chance』をバックにした回想シーンです。

 いろいろな設定が詰め込まれているのですが、映画を見ただけでは細かい部分は分かりません。それでも映像美と音楽で物語に引き込まれていきます。

 私は、何の予備知識もないまま、この映画を見ていたのですが、小さな音でかかっていた山崎さんの音楽が急に大きな音となり、テーマ曲として始まります。

 そして『秒速5センチメートル』というタイトルのクレジットが現れました。

 一瞬、「えっ、これからはじまるの?」「今まで見てきたのはプロローグ?」「どんなに長い映画なんだ」と驚き、混乱しますが、すぐに「やられた」という感覚とともに事態が理解できました。

 このタイミング(ほぼラスト)でのテーマソングとタイトルのクレジットは、見る人に新鮮な驚きを与える演出です。

 元々この歌のファンだった私にとって、心を奪われる巧みな演出になっていました。

 そして歌をバックに流れるセリフの無い映像が、短編第1話で心を一つにしたはずの二人の間に、その後何があったかを雄弁に語ってくれます。


 しばらく文通を続けていた二人でしたが、それぞれの新しい生活、日常の中で手紙を出さなくなっていく様子が説得力ある形で映し出されます。

 どんなに強い気持ちも飲み込んでいってしまう、平板な日常が...、

 残酷だけれども優しくもある日常が、そこに描かれています。

 二人は、中学生の時、その他の人生の経験全てを足し上げていってもかなわないほど価値ある経験を共有しました。

 その後の人生において二人は、大切な人との関係を守れなかったという、自責の念を引きずったまま暮らしていくことになります。

 隣のホームに昔のままの彼(彼女)を見かけた気がしたのなら、嬉しくなっても良いはずなのに、いるはずの無い場所に相手の影を求めている自分を、否定的に見てしまう。

 自責の念という気持ちが視界を覆っています。


 彼女の方はいち早く、視界を覆っている曇りガラスを払いのける術(すべ)を見つけています。

 素晴らしい経験を(のみならず、彼自身をも)自らを構成する自分自身の一部だと考えることで、その経験との(もしくは彼との)距離をゼロにしようと決めています。

 彼女には、距離をゼロにするにはもう少し時間が必要だということも分かっています。(まだ傷の痛みが癒えないということです。)


 この短編の最初と最後に、二人が小田急線の踏切ですれ違う場面が描かれています。

 すれ違った踏切で彼女は振り向きかけ、けれども、踏切の反対側で上下線が相次いで通り過ぎる電車を彼女が待っていなかったことで、彼には、彼女の決意と今の心が微かに伝わったのだと思います。

 踏切の幅の分の距離以上に近づくことができないということは、彼女もまだ自分と同じ荷物を背負っているということです。

 そして荷物は二人で背負えば軽くなります。

 最後の場面、主人公の足取りが軽くなったように感じられるのはそういうことではないでしょうか。

 もっと、いろいろ書く準備をしていたのですが、どうも理屈っぽくなりすぎるような気がして、少し早足で綴ってみました。


 Fin.






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