小名木善行さんという方の
ユーチューブやブログを
フォローしています。
小名木さんは、
私を素晴らしい日本の歴史の世界に
誘(いざな)って頂いた大切な先生です。
毎日何かしらを見て、
刺激を受けていました。
小名木先生のブログのテーマで、
「人はいさ 心も知らず ふるさとは」
の歌がありました。
人 は いさ
心 も 知らず
ふるさと は
花 ぞ 昔の香に 匂ひける
少し分かりにくいですが、
上の句と下の句は対になっています。
助詞「は」は、
主格の格助詞ではありません。
比較の副助詞か
主題を提示する副助詞です
(古典文法では係り助詞ですね)。
「は」を二つ使っているので、
比較の副助詞で
「人」と「ふるさと」
が比較されています。
「心」と対になっているのは、「花」
「知らず」の対は「匂ひける」です
「いさ」に対応する語はなさそうですね。
少し前から、
いざなぎ、いざなみという
神様の名前にある
「いざ」とは何かについて
考えていたので、
ちょうどぴったりなテーマでした。
意味を調べると
「いざ」:
「さあ(人を誘うときに発する語)」
「どれ。さあ。行動を起こすときに発する語」
「いさ」:
「さあねえ。ええと。」「さあ、どうだか」
この二つは別語で、
誤用で混乱すうようになった、
とネットで出てきます。
そんなことあるでしょうか。
私の中の語感では、
どちらも同じか少なくとも、
語源を同じくする言葉に思えます。
そもそも、
現代語に訳すときにどちらも
「さあ」になるんだから、
同じ語のような気がします。
(そうとは限らないのでしょうか?)
「いざ」の古い意味を推測できます。
「なふ」という
名詞や形容詞などを動詞にする
接尾語があります。
「うらなふ」「あきなふ」などの例があり、
「いざなふ」もその一つです。
(その他の「なふ」の用例
おこなふ ともなふ うべなふ)
「いざなふ」は他の人にある行為を
誘(さそ)う、 促す
という意味ですから、
「いざ」は、
他人の意図的な行為を表す語だった
のではないでしょうか。
「いざ(さあ)」と言って促す時は、
自分もやっている行為を
一緒にやるというイメージが強いですね。
「さあ、いっしょにやろう」。
自分はやらないことを
やらせるとしたら、
「さあ、早くやりなさい」
となります。
「いざ」は人に行動を促す言葉で、
「さあ」と訳しますが、
もっとぴったりの現代語訳があります。
「どうぞ(おやりください)」です。
先ほどの二つの意味は、
「私もやっていますので、
どうぞおやりください」
「私はやっていませんが、
どうぞおやりください」
に翻訳できます。
相手がその行為をやりたがっている
ことが前提になりますが、
前の文は、
「どうぞ、私と一緒にやりましょう」
という意味に取れます。
後ろの文は、
「どうぞ、ご勝手に(私は知りません)」
というように否定的にも
取ることができます。
前の「どうぞ」が「いざ」で、
後ろの「どうぞ」が「いさ」
と説明されていましたが、
実は語としては同じなのでは
ないでしょうか。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
現代語でも残っている
「いざ知らず」
を見てみましょう。
「スーパーマンならいざ知らず、
アンパンマンでは勝てはしない」
「アンパンマンならいざ知らず、
スーパーマンなら楽勝だ」
意味を変えずに言い換えていきます。
「アンパンマンであるなら
分からないけれども、
スーパーマンであれば、
楽勝であることは分かっている」
「アンパンマンでは不確実であるが、
それに対してスーパーマンが
楽勝することは
確実だ」
「アンパンマンが
楽勝することを考えるのは、
どうぞご自由に、
結果は知らないよ
(分からないよ)、
けれどもスーパーマンが
楽勝することは
分かっている」
前後を反対にして
「スーパーマンが
楽勝することは分かっている。
アンパンマンが
楽勝するかどうか、
考えるなら、
どうぞご自由に、
でも、考えたって、
分からないよ」
(確実に勝てるとは言えないから、
五分五分か、負けるかもね)」
「知らず」は特定の誰かが知っている、
知らないと言うことではなく、
誰も分からないという意味で
使っています。
「お釈迦様でも知りますまい」
と同じです。
「人はいさ」の歌でも
「人」=「他人」
が知っている知らないではなく、
何かが
「分からないものだ」
「不確実なものだ」
と言っているのです。
その何かは、
人ではなく「心」です。
下の句で
「心」と対の「花」が匂っているので、
「匂っている」の対の「分からない」
の主語は「心」になります。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「は」について先ほど、
比較の副助詞と言いましたが、
主題の提示でもあり、
「については」
「にとっては」
「においては」
という意味です。
この歌の訳は、
こうなります。
「人にとって、
心ほど不確実なものは
ありません」
「それに比べて、
ふるさとには、
昔のまま
ずっと変わらない
梅の香りが漂っています」
この訳で正しいと思います。
思いますが...、
ちょっと軽い、
いや、軽すぎます。
こんな軽い話ではないはずです。
作者の紀貫之さんは「心」について
深い考察をしてきた人だと思います。
その彼が「心」について
歌っているのですから、
こんなに軽いはずはありません。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
もう一度、
上の句と下の句の対応を
見てみましょう。
人 は いさ
心 も 知らず
ふるさと は
花 ぞ 昔の香に 匂ひける
下の句では、
花が昔と同じ香りに匂っている
と言っています。
助詞「に」は場所を示すだけでなく、
目的や結果も示すことができます。
「紙を三つ折り“に”折る」
という用例と同じです。
「昔の香に」対応する語が、
上の句にありません。
省略されています。
花にとっての香りは、
心にとって何でしょう。
私たちは、花と聞いて、
花びらの「色」を思い浮かべます。
花びらは「色褪せて」散っていきます。
一方、香りは、
花の咲くころにしか香りませんが、
色褪せることもなく、
次の春には同じように香ってきます。
花びらも次の春にきれいな色を付けます。
ところが、
花びらにはうつろい、
色褪せ、枯れていく、
という過程が伴います。
花にとって、
移り変わっていく花びらという色に対し
隠れていることはあっても
変わることのない香りの方が
確かなもの、
花の本質といえないだろうか、
こういう問いかけが
この歌の背後にあります。
✦☆✦☆✦☆✦☆✦☆✦☆✦☆✦☆
花の香りが常に漂っている
異世界=常世(とこよ)が
あるのかもしれません。
春、花が咲くことで、
異世界の扉が開かれて、
私達が花の香りを
感じることができる。
こんなニュアンスを
場所を示す助詞
「に」一つで
伝えることができます。
日本語の奥深さに
あらためて驚かされます。
✦☆✦☆✦☆✦☆✦☆✦☆✦☆✦☆
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
同じように「心」でも、
日々刻々、ころころと
「感情」=「思い」が
うつろい、流れ続けています。
その心の奥底に
花と香りとの関係のように
心にとっての何かがあります。
けれども、それが何か、
誰も知りません。
みんなが身近に感じ、
歌われ続けている
「心」
ですら、
その本質は何も分からない。
花にとっての大切な何かは、
皆知っているのに。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「も」は副助詞
(古典なら係り助詞)ですが、
「すら」「さえ」の意味があります。
「も」の意味を味わうために
「を」に言い換えた歌と比べてみて下さい。
人はいさ 心を しらず
故郷は 花ぞ 昔の
香に 匂ひける
「も」を使うことで、
心の奥底にある別のものが
あることを暗示しています。
その別のものが分からない
どころか、
よく知っているはずの
「心」すら、分からない。
ということを言っています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「ぞ」+「用言の連体形」
これは倒置によって
強調を表す語法です。
元々「ぞ」の前の名詞が
用言の後ろにあったので、
用言の活用が連体形に
なっているのです。
元に戻してみると
故郷は 昔の香に
匂ひける 花ぞ
「ふるさと」が「花」だ
と言っていたことが
分かります。
「母親」が「ふるさと」だ
と言えば、多くの人に
しっくりくると思います。
「ふるさと」から感じられる
温かなぬくもりを
「香る花」が体現しています。
私の訳は次の通りです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
人はいさ 心も知らず
ふるさとは 花ぞ昔の 香に匂ひける
ふるさとには、
散りゆく花びらの色を導きとして
昔から変わらない花の本当の姿が
香りとして
充ちている
人においては、
日々うつろう思いの波のなかで、
身近にあるはずの心でさえ、
本当の姿を、
誰も知らない