仕事と生活の授業(続き)

前に作ったホームページは、あまり読まれないようなのでブログで再挑戦です。

73. ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 唐紅に 水くくるとは 在原業平

2024年08月29日 | 和歌 短歌 俳句
 和歌の枕詞「ちはやぶる」について考えます。
 一番有名なのは百人一首にある在原業平さんの歌です。

ちはやぶる神代(かみよ)も聞かず
 龍田川(たつたがは)
  唐紅(からくれなゐ)に水くくるとは

 蛇行した川の膨らみの細い出口に溜まった紅葉が長い髪を一点でくくる(しばる)ように見える。この画像のようなイメージです。


 「ちはやぶる」は「神」「宇治」に付く枕詞です。枕詞に意味が無いというのは嘘です。「千早振」「千磐破」などと書かれますが、古事記では「道速振」とも書かれています。


 古語の「ち(道)」は、「みち」と方向という意味です。「ち(風)」という言葉もあります。風には通り道があり、方向が大切なので同根です。方向を持って何かが流れているイメージなのでしょう。岩波古語辞典で、ち=風、はや=速、ぶる=様子(振り)と解説しています。

 人が通る道も風が通る道も「ち」です。水が通る道も「ち」と呼んだはずです。水流が速い川を「ちはや_道速」と呼んだので急流の宇治川に掛かるのです。また、龍田川は今の大和川全体の呼び名だったそうで、やはり急流とされています。

 川の神様は龍神様です。初めの歌の「ちはやぶる神」は後段の「龍田川」の「龍」の縁語になっています。神様なら誰でも良いわけではなく、「ちはやぶる」は、龍神様限定です。高天原の神様達が地上の神々を「ちはやぶる(道速振)」「荒ぶる」国つ神と呼んでいますが、天孫降臨以前の神様です。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 万葉集の歌を見てみましょう。(巻第三譬喩歌404)

千磐破(ちはやぶる)
  神の社(やしろ)し(四)
    無かりせば 
 春日の野辺に
   粟(あわ)播(ま)かましも


 春日にある社とは春日大社のことです。藤原氏の神社で、祭神が四柱なので、四の字を当てています。藤原氏の守護神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)と経津主命(ふつぬしのみこと)、藤原氏の祖神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)、そして謎の神様である比売(姫)神です。

 謎の神様、比売神とは誰なのか。
 天児屋根命の奥さん「天美津玉照比売命(あまみつたまてるひめのみこと)」と言われますが、その名前が前面に出ずに敢えて比売神と呼ばれるため、色々な説が生まれました。
 天照大御神(あまてらすおおみかみ)のことだという説がウィキペディアに出ています。

 長野県安曇野市にある熊倉春日神社は、大同4年(西暦809年)治水開拓のため奈良春日大社から分霊したと碑文にあります。祭神は、天児屋根命、武甕槌命、経津主命、瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)です。
つまり、比売神様の位置に瀬織津姫命がいることになります。

 先ほど、姫神は、天照大御神だという説を紹介しましたが、伊勢神宮内宮の荒祭宮に祀られている天照大御神の荒御魂(あらみたま)が瀬織津姫だと言われています。比売神は、瀬織津姫命です。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 瀬織津姫命は、水の神様です。
 ウィキペディアによると、「水神や祓神、瀧神、川神である。九州以南では海の神ともされる。祓戸四神の一柱で祓い浄めの女神。「人の穢れを早川の瀬で浄める」とあり、これは治水神としての特性である。」とのことです。
 「早川」とあります。つまり瀬織津姫自身が道速(ち=川_はや)の形容にふさわしい神様です。

 ちはやぶるが春日の歌に出てくるのは、元々春日に祀られていた神様が龍神である瀬織津姫だったからです。この歌の前後の歌を読み解くと、藤原氏と大伴氏の対立や藤原氏がそこで祀られていた神を押しのけて自分たちの神様を春日大社に祀った経緯が読み取れて興味深いと思います。

 水田耕作を広めた天孫系の神々が現れる前、縄文時代に山側にいた人々のくらしは、次のようなものでした。
 建築材料に使うために森や林を切り開きます。そこで山焼き、野焼きをします。その土壌にそばや粟や稗を植え、土壌が痩せてくると栗や栃の実、どんぐりの採れる広葉樹を植えます。

 そこには、数十年単位の循環により生活圏を確保して来た人々が暮らしていました。この歌は、粟に託してその人々に思いを寄せているのです。

 神様に社を建てるのは、後の風習です。信仰の対象である磐、瀧、川をそのまま崇めていたのが原初の姿なのでしょう。


千磐破(ちはやぶる)
 神の社(やしろ)し(四)
  無かりせば 
   春日の野辺に
    粟(あわ)播(ま)かましも

【超訳】
いにしえの早川の神に
 社(やしろ)はいらない
  社などなかったら
   春日の野に粟を蒔いて
    昔のように穏やかに
     暮らしていたのに 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 百人一首の中の「ちはやぶる」で有名な歌の作者、在原業平さんは、屏風絵を見て歌を歌っています。

 実は紅葉が水に落ちても比較的すぐに沈んでしまいます。桜の花びらのように浮かんで桜の堰を形作るようなことはありません。まして龍田川はちはやぶる急流です。水をくくるような淀みのイメージはないのではないでしょうか。




 業平さんは、屏風絵の嘘を指摘しているのです。(…想像力の素晴らしさを褒めているのかもしれませんが、…)
 「ちはやぶる」の本来の意味が薄れていき、いにしえの神様が忘れ去られている様子を惜しんでいるのかもしれません。

一方で、

 この歌を救う光景があります。屏風絵の嘘を指摘しながら、別の可能性を認めて称えていると考えることができます。
この写真を見れば…、



ちはやぶる神代(かみよ)も聞かず
 龍田川(たつたがは)
  唐紅(からくれなゐ)に水くくるとは


【超訳】
神代を忘れ龍田川
  水を束ねる紅葉の堰は
    早瀬に映える光の綾縄















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72.ちはやぶる 「道速振る」  風の流れの枕詞

2024年08月26日 | 和歌 短歌 俳句
 今年の夏も暑かったですね。
 私は、エアコンを使わず、扇風機の風で快適に過ごしています。

 百人一首に「ちはやぶる神代も聞かず龍田川」という歌があります。
 「ちはやぶる」は、川を象徴する龍神様や蛇の神様、急流で有名な「宇治川」に掛かる枕詞です。岩波古語辞典によると「道速振る」で、「風」が速い様子を表しています。東風(こち)に残っていますが、「ち(道)」には風という意味があります。

(「ちはやぶる」は、「春日」にも掛かりますが、春日大社に祀られている「姫神」は、龍神である瀬織津姫命だと考えられます。)

 川は大切な「風の道」の一つです。また縄文遺跡の貝塚は、真夏でもとても涼しいのですが、どんなに海岸から離れていても海からの「風の道」を感じられます。人工の盛り土なので、今風に言えばビル風が吹くのです。

 仁徳天皇は、南北に真っ直ぐな大阪の難波津(上町台地)の西側を干拓するため、東西に真っ直ぐな堀を作り、それを基に碁盤の目のような都市計画をしました(日本書紀にはっきり書いてあります)。

 そのため真西からの風が吹く日以外は海風が入ってこない暑い都市を作ってしまいました。江戸はその反省から海風を取り入れられるように曲線を残した運河を作っています。日本橋川がその典型です。


 現在でも都市計画によりビル建設をうまく管理することで「風の道」を確保することが可能です。汐留の開発で「風の道」の確保に失敗した東京都と港区は、今は反省して「風の道」の確保を行政指導しています。


 昔の人は、川に沿って流れる風の塊を龍神様に見立てていたのでしょう。







(古事記と日本書紀を見比べれば、
分かりますが
龍とは、ワニのことです。)

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71.いろは歌の解釈 その5 『中論』から見た今できる最善の解釈

2024年08月17日 | 和歌 短歌 俳句
 今までの考察を受け、あらためて『いろは歌』の解釈を書きます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 いろは歌は、素直に読めば、無常の世を越えて悟りの世界へ誘(いざな)う歌のように読めます。
 一点残念なのは、「浅き夢見じ」と、「浅い夢を見ない」と読むことです。
 この歌の雰囲気からすると「浅い夢を見た」と読みたいところです。


 「夢見し」と読むと「し」は過去の助動詞「き」の連体形になるので、「我が世 誰ぞ」の係助詞「ぞ」の結びとして読むことができます。(間が長く、従属節が入ってしまいますが、そういう文例もあります。)

 そう読むと、連体形終わりの「常ならむ」が「誰ぞ」を受けられないので、すぐ次の「有為の奥山」を修飾する形容詞句になります。

 すると今度は、「色は匂へど散りぬるを」という逆接の終助詞「を(〜けれど)」で終わる従属節と主節「我が世 誰ぞ 常ならむ」との対応がなくなります。

 「散りぬるを」の「を」は目的格の格助詞として「夢見し」で受けます。「花が散るのを 夢見た」という解釈になります。

 「常ならむ 有為の奥山」というのはとても皮肉の利いた言葉になります。

 「有為」というのは人の作為でできた世界で、「無常」の世界と考えられています。

 「人の世は無常だ」、ということが正しく、決まったことであれば、その言葉自体は恒常的なものになるので、一見矛盾しているように思えます。

 無常の世界は恒常的だと言っているように見えるからです。

 助動詞「む」には仮定の用法があります。
「もし〜したら、その〜」のように訳すそうです。

 「常ならむ  有為の奥山 今日越えて」は次のように訳すことができます。

 「もし、人の世が無常だ、ということが恒常だとしたら、そんな恒常的な無常の人の世などという込み入った議論は今日でお終(しま)いにして」

 まさに戯論(通常、無益な議論と言われているもの)への批判ですね。龍樹が『中論』で言いたかった柱となる議論の一つです。

────────────────
 「酔(えひ)もせず」は、普通に読めば、「酔ってもいないし、(夢でもない)」と素直に読めます。

 ここでは夢を見たことにしたので、「酔ってもいないのに、酔った時のような浅い夢を見た」と、「も」を並列の意味ではなく、英文法で言う譲歩の意味に取ります。

 「酔ってもいないのに、幻のような浅い夢を見た」

 「空」の観点からすると、全ては幻のようなものですが、幻のように無常だということが重要なのではなく、花は咲き、花は散るという縁起が重要です。

 龍樹にとって「空」の理論は、論敵と戦う道具です。一方で、彼の信仰にとって最も重要な議論は、「縁起」だった、と言われています。

 龍樹の縁起説では、「空」の理論を踏まえることで、現実を肯定的に捉えることができます。「空」は、「無」ではなく、無限の可能性を秘めた活力に満ちたものです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 花が咲き、花が散るということの中には、花は咲かず、咲いても散らなかったかもしれないという可能性が秘められています。

 それがどのような経緯でその可能性を捨て、散っていったのかを考えることが大切な一歩です。

───────────────
 何かで苦しんでいる人が、それが幻のようなものだと割り切ったからといって、楽になるのでしょうか。

 苦しまない可能性が同じようにあったのに、なぜ苦しまなければならなくなったかの経緯を知り、原因を取り除くことこそ重要なのではないでしょうか。

 目の前のできごとから目を背けるのではなく、よりよく見つめ、深く掘り下げることを大切に思うことから始めましょうと言われているような気がします。

───────────────
 次は、「我が世 誰ぞ (浅き夢見し)」の句です。

 独我論という考え方があります。
 世界と言っても結局自分から見た世界しか見えないのだから、世界は全て自分の心の中の出来事だ、という考えです。

 浅い夢があるということは、深い夢もあるということです。

 「空」の見方を深い夢とすれば、深いところから、浅いところ、花が咲き、花が散るという縁起を見ています。

 深い悟りの世界があることを知っている人が、現実世界の浅さを知っています。

 仏陀様、観音菩薩様はそのように世界を見ているはずです。

 けれども独我論で考えたこの世は、私の世界です。

 悟りに至っていない私の世界で悟りを開いた人達が世界を見ているということはどういうことでしょう?

 全てが私の心の中の出来事だと言える独我論では、それが幻覚なのか、現実なのか区別は付きません。

 私という枠組みを超えることができないので、客観的(間主観的)に正しいかどうかは意味がなくなってしまいます。

 老荘思想の胡蝶の夢を思わせるこの歌にぴったりの表現に思えます。

─────────────

 ところが、

 いろは歌は、最後に「酔いもせず」として、見たものは、酔って見た幻覚ではないと言っています。

 つまりそれは、幻覚かどうかの判断基準があることを示しています。

 さらに、それは私を超える世界が広がっていることをも意味します。

 また歌の途中で、我と誰(彼)を対比することで、独我論も、無条件に他人の存在を前提とする素朴な実在論も、正しい見方ではないことが表現されています。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 大乗仏教には、唯識という考え方があるそうです。

 主観と客観の対立を超える立場だと思われます。

 エルンストマッハの要素一元論が思い出される言葉です。

──────────────
 さて、一通り説明し終えました。

 ここでの解釈のいろは歌は、無常か恒常か、独我論か素朴実在論か、という形而上学的な議論(龍樹が戯論と呼んだもの)は、もうお終いにしよう、と訴えています。


 大切なのは、

 一歩一歩段階を経て

 移り変わっていく

 現実を、


 深い眠りから

 覚めつつある時

 浅い夢を見るように

 少し距離を置いて

 見つめることだ

 ということです。


 (夢が浅いと分かるのは、

 深い眠りを知っているからです。)

 そして、いろは歌は、


 花が咲き、花が散る姿を

 ただ虚しいと感じるのではなく

 とても美しいと思える

 肯定的な世界感を

 歌っているのだと思います。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 【いろは歌超訳】

 咲いても散りゆく桜の花を

 見ているあなたは

 誰でしょう


 儚い世界に

 変わらぬものを

 求める旅は

 もう終わり


 咲いても散りゆく桜の花は、

 深い眠りを覚ましつつ

 ほのかに見える浅い夢


 けれども

 幻ではありません






〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
あまりにもこの超訳が

振り切りすぎているので、

少し分かりやすく訳しなおします。

────────────

『いろは匂えど 散りぬるを

 我が世 誰ぞ (浅き夢見し)』

【この花が咲き、散るのを、

 浅い夢として見たのは

 私だけ

 (他に誰がいるだろう) 】



『常ならむ 有為の奥山 今日越えて』

【人の世が無常であることが

 常に正しいなどと言う、

 山奥深く入り込んだような議論(戯論)は

 今日で終わりにしよう 】



『浅き夢見し 酔ひもせず』

【(浅い夢があるのは、深い眠りがあるから)

 深い眠りから見れば、

 浅い夢に過ぎないのかもしれないけれど

 美しいこの花が咲き、散る姿は、

 決して幻(うそ)ではない 】


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(最後をもう少し元の歌に寄り添うと)

『浅き夢見し 酔いもせず』

【(浅い夢があるのは、深い眠りがあるから)

 お酒に酔ってもいないのに

 浅い眠りで見た夢の

 美しい花が咲き、散るさまは、

 酔ってみた幻とは違い

 決して嘘ではない 】

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

龍樹の中論、空観から見た
いろは歌の解釈でした。

受験文法ですが、
古典文法に沿った解釈なので、
(現代人には無理があるように
 見えるかもしれませんが、)
平安時代の人からすれば、
それほど違和感はないと思います。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


夢かもしれないけれど、

幻ではない。





【追伸】
「夢や記憶」と「現実」は、
「うそ」と「ほんとう」のように
対立するものではなく、
同列に並んでいる。

そんな世界観が
横たわっているのかもしれません。


【追伸その2】

 龍樹さんの『中論』は、形而上学的な議論=戯論の消滅を最初に掲げています。
 そしてほぼ最後に縁起の詳しい話をしています。

 それを踏まえると、いろは歌の句の順番は次のようなものになります。


常ならむ 有為の奥山 今日越えて

いろは 匂へど 散りぬるを

我世 誰ぞ 浅き夢見し

酔ひもせず




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70.いろは歌の解釈 その4 龍樹とアリストテレス

2024年08月12日 | 和歌 短歌 俳句
いろは歌の解釈のために
ナーガールジュナ(龍樹)の
『中論を読みました。
中村元先生の本を通じてです。

龍樹は観念実在論と戦っていたのですが、
同じく観念実在論=イデア論と戦った
アリストテレスが思い出されました。

二人が使っていた
インド・アーリア系の言葉では、
主語と述語があって、
述語の内容を
主語に付け加えていきます。

この花は赤い

と言えば、
色の規定の無かった花という主語に
「赤い」という色の情報が加わります。
一方でこの花が黄色い可能性は否定されます。

この赤い花は、甘く香る

この甘く香る赤い花は、早く散る

このように文章を重ねることで、
何の規定もなかった
この花という主語に
多くの情報を加えていくことができます。

この花が香らない可能性や
長く楽しめる可能性も否定されています。

ある情報を一つ加えるということは、
それ以外の可能性を
否定することになります。

情報が増えると可能性は減ります。
情報量が多いということは、
可能性が低いということになります。
(情報理論ではそのように
 定義されています。)

壮大な物語や
素晴らしい科学技術も
多くの文章の積み重ねから生まれます。

私達の人生の物語は、
多くの出来事の積み重ねです。
そしてその出来事も
文章で表すことができます。

逆に、
文章から主語に遡っていくことが
できるのならば、
文章によって作られた
窮屈な理屈や様々な規則から解放された
可能性に満ちた自由を
手に入れられるのかもしれません。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
一般的ないろは歌の解釈を
この観点から読み解いてみましょう。
(夢を見ない方の解釈です。)

いろは匂へど
 「この花は薄紅色に色づいていますが」

散りぬるを
 「この薄紅色の花は散っていきます」

我が世 誰そ 常ならむ
 「この散っていく花と、人の栄華は、等しく虚しいものでしょう」

有為の奥山
 「この栄華と同じはずの花は、(ソメイヨシノと言って)手の込んだ奥義とでも呼ぶべき人の技(わざ)、奥深い人の技によって生まれたものです」

今日越へて
 「いくら奥深い技によるといっても人の技で作られた花は簡単に乗り越えられ、更に奥深い技による素晴らしい花を見ることができます」

浅き夢見じ
 「そのさらに素晴らしい花は、奥深い世界に咲いていて、浅い夢に見ることはないでしょう」

酔ひもせず
 「浅い夢で見ることのできない花は、酔った時のような幻覚としても見ることはありません」

『さらに素晴らしい花』というものは、
奥深くに潜む悟りの世界でのみ、
見ることができます。

この一連の流れのなかで、
初め「この花」と言われ、
なんの規定もなかった花は、
色や喩えをまとい、
悟りの世界へ導く
とても大切なきっかけになります。

その花に導かれた世界を
素晴らしいと思う人もいるのでしょう。

一方で、
狭く窮屈な世界だ
という人もいるでしょう。

現実に打ちひしがれ、
不幸に見舞われた人がいたとします。

その人にとって、
あまりに遠く狭い世界を悟りの世界だ
と言われているような気がします。

そう言われても、
とてもそこにたどり着けるとは思えず
絶望が増すだけなのではないでしょうか。

そうではなく、
龍樹は、眼の前の現実を
見つめ直すことから
始めよう
と言っています。

つらい現実を見つめ直すことは
とても難しいことかもしれません。

それでも現実を見つめ直して、
今とは反対の現実があった
可能性について想いを馳せてみます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
今の現実はとてもつらい
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
という文章は、
述語から主語に遡っていくことで、
つらくない現実がありえた
可能性を示唆しています。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
昔幸せだった現実は今とてもつらい

昔、私の周りには温かい人々がいた

私の周りの人々は私を理解してくれていた

私には私の話を聞いてくれる人がいた

その人はもういない

その人を私はいつまでも覚えている

(その記憶が
 「私」の救いになるのかもしれません。)



─────────────
(さらに、)

(私が誰かの「その人」になりたい)

(なろう)

(その意思が
 私の希望になり得るのかもしれません。)
─────────────

文章を逆に辿っていくことで、
今とは違う可能性について
思いを巡らせることができます。

この奥深い世界をとても苦痛に感じ、
別の世界に逃れたい
と思っている人がいます。

一足飛びに桜の散りゆく悟りの世界に
向かうのが一つの方法です。

他方、
そのやり方についていけない人もいます。

その時、
「薄紅色の花は散らない」
「私の心の中ではいつまでも
 美しい姿で咲き続けている」
という思いが
その人を支えてくれるのかもしれません。

現実の花は散るかもしれませんが、
心の中の花は散らないのかもしれません。

「花が散る」と言う前には、
そのどちらの可能性を秘めていました。

文章を逆に辿ることで、
今と違う可能性を広げていくことができます。

このように文章を逆に辿る過程で
つねに主語の位置を占め、
情報が減っていく毎に、
可能性が増えていく、
その無限の可能性を秘めた何か
(ここでは「色の無い花」のこと)
を龍樹は「空」と言ったのでは
ないでしょうか?

あるものごと(薄紅色の花)と
その反対のもの
(薄紅色ではない色、黄色や紫色の花)、
その両方を
受け入れることができるもののことを
アリストテレスは、「質料」と呼びました。

そして薄紅色の花(桜)を「本質」
または「形相」と呼び、
その反対のもの(黄色や紫色の花)を
形相(「薄紅色の花」)の「欠如態」
と呼びました。

ものごとを説明する為、
アリストテレスは、
「形相」とその「欠如態」と
もう一つ、
その二つの相反するものを
受け入れることができる
「質料」の三つが必要だ
と考えていました。

龍樹も、
ものごとが独立してある
と考えるのは間違いで、
つねにそのものごとの
反対のものとの相関関係
(相待=そうだい)で成り立っている、
それを成り立たせているのが、
反対のものをも受け入れることができる
「空」だ、と考えていました。

反対のものを受け入れることができる器、
それを「空」と呼びました。

───────────────

以前、龍樹とアリストテレスの
言いたかったことを詳しく書きました。
気になる方は、ご覧ください。
47.万物は流転するのか 龍樹の中論とアリストテレスの形而上学の読書感想文  - 仕事と生活の授業(続き)

47.万物は流転するのか 龍樹の中論とアリストテレスの形而上学の読書感想文 - 仕事と生活の授業(続き)

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69.いろは歌の解釈 その3 相待(そうだい) 長いという言葉は、短いものがなければ意味を為さない

2024年08月11日 | 和歌 短歌 俳句
いろは歌の中の
「有為の奥山」
という言葉の意味を調べていて
気が付きました。

「有為」とは、
無常なこの世のこと
だそうです。

直前に「常ならむ」とあるので、
「常」と「無常」の対義語が
並んでいることになります。

「わがよ」「たれそ」も
「我」と「誰」が並んでいて、
自分と他人が対比されています。

「にほへと」「ちりぬるを」も
「匂ふ」(色付く=咲く)と「散る」
という反対の意味の言葉が
並べられています。

仏教において
全てのものは対立の中にあり、

対立の両極は
反対の極があるから意味を為(な)す
という考えがあります。

いろは歌は、
この考え(「相待_そうだい」と呼ばれます)
を表そうとしているのではないでしょうか。

世の中に「長いもの」しかなければ、
「長い」という概念は意味を為しません。
「長い」という概念は、
「長いもの」より少しでも「短いもの」
があって初めて成り立ちます。

「長いもの」という概念は
「短いもの」 に依存していて、
「短いもの」もまた「長いもの」
に依存しています。

その相互依存の関係が
「相待_そうだい」です。

いろは歌の中には、
反対を並列している箇所が
まだあります。

「奥山」を奥深い山として意味を補うと
「奥(深い)山」・・・「浅き夢見し」
となります。

「深」と「浅」が並ぶことになります。

次は、掛詞(かけことば)
のようになりますが、
「浅(あさ)」が「朝」に通じ、
「朝」は「あした」と読み、
昔は意味も同じでした。

すると、
「けふこえて」・・・「あさきゆめみし」は、
「今日」と「朝(あした=明日)」が
並んでいることになります。

「今日」は、
「今日の明日」や
「今日の今日」という使い方で、
「すぐに(なにかできる、できない)」
を意味します。

「昨日の今日」「昨日今日」
という使い方も含め、
「簡単に(できる)」
という意味を持っています。

「奥山今日越えて」は、
「奥(険しい=難しい)山、
今日(すぐに=簡単に)越えて」
と取れば
「難しい」と「簡単」
という対比と読むことができます。

「ゑひもせす(酔いもせず)」
の対義語は詠まれていません。
「酔い」の対義語は、
「素面(しらふ)」「正気」などです。

「酔(ゑ)ひ」の後に
「も」という助詞が付いています。
意味を補うと、
「酔いもしていないし、
素面(しらふ)でもない」
となります。
直接には書かれていませんが、
「酔い」と「素面(しらふ)」
の対立が含意されています。

なぜこのように
反対の意味を持つ単語を
並べているのか?

偶然か(強引な読み込みか)
と思われるかもしれませんが、
「相待_そうだい」という
考え方を踏まえれば、
敢えて並べていることが分かります。

「相待_そうだい」という考え方を
お話するためには、
インドの思想史を踏まえないといけません。

次回は、上座部仏教の有力宗派
「説一切有部(せついっさいうぶ)」と
大乗仏教の中核的な考え方
「中観=空観」
との考え方の相違を考えていきます。

短いですが、今日はこれでおしまいです。

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