旧国民党軍は現在の人民解放軍と同じ民族である
支那軍の反日宣伝を狙った人民虐殺~自国民を大量虐殺しておきながら、「日本軍の仕業」と宣伝・・・
(歴史通 2013年1月号 より)
反日宣伝を狙った人民虐殺
支那軍の空爆・火攻め・水攻め
自国民を大量虐殺しておきながら、口をぬぐって「日本軍の仕業」と宣伝・・・
かの民族に流れる「暴戻(ぼうれい)の血」、それに騙される学者・ジャーナリストの呆(ほう)けぶり・・・。
有史以来、支那ではさまざまな悪逆非道が繰り返されてきた。支那事変においても、同胞であるはずの民間人を意図的に大量殺害するという非道を行なっただけでなく、悪質・卑怯な「逆宣伝」を展開した。
支那軍が行った民間人大量虐殺を日本軍の仕業とする大嘘を世界に向けて喧伝したのだ。ほかならぬ日本人のなかにも、それをいまだに信じている人々がいるほど、嘘の逆宣伝は執拗かつ厚顔に行われ、それはいまだに続いている。
本稿では、そうした多くの事例の中から、大規模でわかりやすい、昭和12年(1937)8月の上海爆撃、翌13年6月の黄河決壊、同年11月の長沙市焼き払いの三件を紹介しよう。
◎上海爆撃
昭和12年8月14日と23日、支那の国民党軍は上海の国際租界(行政自治権や治外法権をもつ清国(のちに中華民国)内の外国人居留地)を爆撃し、多くの民間人や外国人を殺害した。14日の爆撃ではわざと上海中心部のホテルやデパートを狙い、およそ3600人の死傷者を出した。
支那国民党が国際世論を日本への憎悪と支那への同情に導くのが目的だった。
国民党はすぐさま「日本軍による爆撃である」と宣伝したが、『ロンドン・タイムズ』をはじめとする欧米メディアが事実を報道したため、各国の抗議に対し、やむなく国民党政府は、「日本艦艇を狙った際の誤爆であった」と遺憾の意を表明している。
◎挑発をくり返す
そもそも、当時の支那は、(ハンス・フォン)ゼークト大将やファルケンハウゼン中将らのドイツ軍事顧問団のアドバイスにしたがって対日開戦の機会をうかがっていた。1937年7月、蘆溝橋(ろこうきょう)事件の後、郎坊事件(=廊坊事件)や広安門事件のように、日本軍に銃撃を行うなどして挑発をくり返していた。
7月29日には支那の保安隊(冀東(鬼頭)防共自治政府軍)が、多くの民間人を含む日本人200名以上を虐殺した。
日本国民を激怒させたこの通州事件は、国民党が「日本軍を撃破したので次は通州を攻める」というデマ放送を流し、だまされた通州の支那保安隊が国民党に寝返るために行ったことだった。
そして8月9日には上海海軍陸戦隊中隊長・大山勇夫中尉と斎藤要蔵一等水兵が支那軍に虐殺された。
例によって、支那軍は日本側が先に発砲したと宣伝した。いわく「大山中尉が支那兵の止めるのも聞かず、衛兵を拳銃で撃ち殺して飛行場に押し入ったので射殺した」などと。大山中尉は拳銃を持っておらず、運転手の斎藤水兵は持ってはいたがホルスターに入ったままで殺されていた。
ユン・チアン、ジョン・ハリディ著『マオ 誰も知らなかった毛沢東』によれば、この事件は国民党軍司令官の張治中が仕組んだものであり、彼はソ連のスパイでもあったという。
上海爆撃前日の13日には、アメリカの批判を無視して上海の国際共同租界に向かった支那正規軍十個師団が日本人区域を包囲し、突然、機関銃射撃を始め、第二次上海事変の火蓋を切った。(※参考:猟奇的な大山中尉殺害事件)
これも例によって、戦後は「日本が支那軍に対して攻撃をしかけた」ということにされ、それをいまだに信じて疑わない日本人もいる。
しかし、上海にいた日本の軍隊は、居留民保護を目的とした海軍陸戦隊2500人だけだった。日本軍から攻撃を仕掛けるわけがない。
このときの様子は、トレヴェニアンの冒険小説『シブミ』(菊池光訳、早川文庫)に以下のように描かれている。
<8月12日に中国側は日本総領事館と商社の電話線を切断した。その翌日、13日金曜日に、中国軍第88師団が北停車場に到着して、租界から外に通じる道路をすべて遮断した。それは、ごく少数の日本軍と自分たちの間の緩衝用にできるだけ多くの一般市民を閉じ込めておくのが狙いであった。
8月14日にアメリカ製ノースロップ機に乗った中国軍パイロットが上海を盲爆した。高性能爆弾の1弾がパレス・ホテルの屋根を貫いた。別の1弾がカフェ・ホテルの表の路上で爆発した。729名が死に、861名が負傷した。
31分後にべつの中国機が女性と子供の避難所になっていた大世界娯楽センターを爆撃した。1012名が死に、1007名が負傷した。
(中略)外国の介入を誘い出すつもりで、中国軍は、日本軍の砲撃による人命や建物の損害に輪をかけるように、連日空軍による<誤爆>をくり返した。
さらに、彼らは、道路の遮断を続行して緩衝の目的で数万人の市民を閉じ込めていた・・・それも自国民を>
◎自国民を犠牲に
この小説は1979年にアメリカで発表され、ベストセラーとなった。もちろん、フィクションだが、この上海事変の記述は、実に正確だとされる。作者の実名は長く伏せられ、いわゆる覆面作家だったが、この『シブミ』出版を機に正体を明かしている。
本名はロドニー・ウィリアム・ウィテイカーといい、もともと情報学の教授だった。朝鮮戦争に従軍したというから、その際、日本にも滞在したと思われるが、上海事変についてどんな史料をもとに書いたのかはわからない。
しかし、トレヴェニアンが、支那軍は自国民が逃げられないように道路をすべて封鎖し、民間人のいるホテルや避難所を爆撃したと書いていることは重要だ。
世界の注目を集めるために、蒋介石は自国民を含む一般市民を犠牲にしたばかりでなく、あえて外国人の被害者を出したとさえ思われる。しかも、それを日本軍がやったことだと宣伝したのだ。
また、アメリカで活躍したジャーナリスト、河上清がK・カール・カワカミの名で1939年に英文で発表した著書『シナ大陸の真相』(福井雄三訳、展転社)には、以下のような記述がある。
<8月15日(原文ママ、事実は14日)に中国軍の飛行機が国際租界のキャセイホテルとパレスホテルを爆撃した時、中国政府の宣伝広報局は、この爆撃は日本軍のものである、というニュースを流した。
ワシントンポストの上海特派員であったマーク・J・ジンスボーグ氏は、
「24時間以内にこの宣伝広報局は重大な訂正を発表し、我々特派員スタッフの完璧なる調査によって問題の爆撃機は日本軍のものではなく中国軍のものであることが判明した、ということを内外に通告した」と書いてある>
(※参考:人物探訪:河上清~嵐に立ち向かった国際言論人 米国の指導的な言論人として、河上清は日米戦を避けるために必死のペンを振るった)
◎大ウソの宣伝ばかり
<さらにまた8月22日(原文ママ、事実は23日)、中国軍の飛行機は国際租界を爆撃し、この時にはシンシアーデパートとウィン・オンデパートに被害を与えた。この時も同様に中国の宣伝広報局は、この爆撃は日本軍機から投下されたものであると発表した。
ニューヨークタイムス上海特派員は中国側の検閲を避けて真実を伝えるため、この爆撃に関する特電を上海ではなく香港から発信した。
彼が香港から発信した8月27日(爆撃の5日後)付の特電の一部は次のようになっている。
「上海の国際租界及びフランス特権区域に居住する無力な一般市民を、中国軍が無責任に空爆したり殺害したりするのを防ぐために、武力手段または他の抑止策をとることについて何らかの国際的な合意が必要であるということは、上海在住の外国の領事館員や陸海軍スタッフ達の一致した見解となっている」
この特電は中国の検閲に不満を漏らして次のようにも述べている。
「中国の検閲官は発信された外電やラジオ通信から前述の事実や意見を削除した。そして場合によっては外電のニュースそのものを変えてしまいさえもした。その目的は、現地の外国人たちがあたかも心の中で、この爆弾は恐らく日本軍の飛行機から投下されたものかもしれない、と疑っているかのように見せかけるためだったのである。だがしかしこれは明らかに真実ではない」
さらにまた9月6日付香港発信ニューヨークタイムス特電は、同爆撃について次のように述べている。
「中国軍は、この爆弾は日本軍機から投下されたものである、と宣伝することによって責任を拒否した。しかしながら今や、これらの爆弾は両方とも中国がイタリアから購入したイタリア製のものであることが判明している。この判明した事実について、アメリカとイギリスの現地の海軍調査官の意見は一致している。そしてイタリア当局もこの爆弾が自国製であることを認めている。これは決定的な証拠であるように思える。何故ならイタリアは、日本がイタリアからそのような軍需物質を購入したことは一度もない、と証言しているから」>
ほかにも、『ニューヨーク・タイムズ』(1937年8月30日付)はこの一連の事件を「日本軍は敵の挑発にもかかわらず、最大限い抑制した態度をとった」と報じ、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』(同年9月16日付)は「支那軍が上海で戦闘を無理強いしたことに疑う余地はない」と記している。
上海戦のケースでは、支那軍の宣伝が大嘘だったと世界にバレた。
にもかかわらず、戦後、占領軍な東京裁判であくまでも日本を悪者にするために、当時各国メディアで否定されたこの支那の逆宣伝を引っ張り出し、すべて日本が仕掛けたものとした。それをいまなお多くの日本人が信じているから困るのだ。
笠原十九司は、この当時の支那国民党の大嘘に便乗して『写真記録日中戦争3-拡大する日中戦争1937~1941』(鈴木亮・笠原十九司編、ほるぷ出版)なる本を出版しているからタチが悪い。
都留文科大名誉教授・笠原十九司(かさはらとくし)
◎ウソをあばく
この嘘本の25頁に住宅街らしき所が爆撃されている写真があり、「日本空軍の爆撃で燃え上がる上海市 日本軍は連日にわたる渡洋爆撃と航空母艦からの爆撃によって・・・」と説明されている(①)。
次の26頁には写真Aとして、爆撃後の、路上に死体が散乱した写真が掲載され、その説明には「上海市の惨状 爆撃による市民の惨状は目をおおわせた」とあり(②)、まるで日本軍がこの惨状を作り出したように書かれているが、真犯人は支那軍だ。
この写真は昭和12年(1937)年8月14日に支那軍機が上海・南京路に爆弾を落とした時のものだ。
そして、25頁の写真(①)は9月末から10月初旬にかけての閘北(ざほく)総攻撃の時の写真で、上海戦の終わり頃に日本軍が支那軍の本拠地と叩いている様子であり、市民を攻撃しているわけではない。笠原十九司の歴史捏造には呆れるばかりだ。
さらに、27頁上段Bに掲載された写真(③)には「日本空軍の爆撃による破壊 上海市の中心・先施公司の爆撃で中国市民数百人が犠牲となった」と説明をつけているが、これは二重の誤り(嘘)だ。
この写真に写っているのは先施公司(シンシアデパート)ではなく、8月14日に支那軍の爆撃により破壊されたパレス・ホテルだ。マヌケなことに、同じ27頁の中段Cに8月23日に支那軍の爆撃で破壊された本物の先施公司の写真を載せている(④)。歴史を偽造するだけではなく、そもそも恐ろしく無知なのだ。
次に、28頁下段の避難民の写真(⑤)。これにも「上海避難民 日本軍の爆撃と攻撃にさらされた市民はなだれを打って外国人租界に流れ込んだ。写真はフランス租界」というデタラメな説明がついている。
これは、昭和12年7月の廬溝橋事件の後、上海攻撃を企図した蒋介石が徐々に日本人居留区の包囲網を狭めていたため、戦争を察知して国際租界へ逃げ込んだ市民の写真というのが真実だ。つまり市民が逃げたのは支那軍が戦争を始めようとしたからだ。そして、支那軍は13日に攻撃を開始し、翌日、上海中心部を爆撃した。
ハッキリしていることは、この中には日本軍による加害写真は一枚もなく、酷(むご)い写真は、どれも支那軍機の仕業によるものということだ。
笠原の無知とデタラメな歴史偽造は度を超している。笠原は、「日本が侵略して、爆弾を雨あられと降らし、上海を地獄に変えた」と主張したいようだが、これは「支那の逆宣伝」そのままであり、事実無根だ。
実際は、支那軍が、上海を包囲し攻撃爆撃し、日本海軍は、陸軍が間に合わないので、支那軍の飛行場や前線基地を叩いて、上海の邦人の命を護ろうとしたにすぎない。
◎笠原十九司の不明
そして、この嘘本の50頁からはいよいよ「南京大虐殺」の嘘とデタラメのオンパレードとなっている。
この機会に、笠原十九司の有名なインチキを紹介しておこう。
写真⑥は「アサヒグラフ」昭和12年11月10日号に掲載された「我が兵士に護られて野良仕事よりへかえる日の丸の女子供の群」という写真だったが、笠原はこのキャプションを故意に捻じ曲げ、「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち。刻印政府軍事委員会政治部「日寇暴行実録」(1938年刊行)所蔵」と捏造した。
こんな人物が国立大学(宇都宮大学)の教育学部の教授をしていたのだから、驚くほかない。
それだけではない。
読売新聞は、専門記者で構成した検証委員会による「検証 戦争責任」を平成17年(2005)8月から約1年間にわたり掲載したが、その《主な参考文献》としてあげていたのは笠原十九司など南京大虐殺捏造派や共産主義工作員の著書ばかりで、案の定、記事は嘘とデタラメのオンパレードだった。
そして驚くべきことに、文部科学省は、笠原十九司の学説を教科書検定の際に重要視したという(産経新聞、2006年3月30日付)。
支那の逆宣伝そのものの嘘が、日本の教科書や世界最大の部数を誇る新聞にまかり通っていることを思うと、怒り心頭に発する。
(※参考:南京大虐殺の否定は恥ずかしい。国際的に日本の評価をおとしめている。笠原十九司が嘘出鱈目のオンパレード!恥かしいのはお前だ!食料の補給はあり、住民の虐殺はなく、捕虜は保護した / 笠原十九司 -大虐殺ありきの「妄想」-)
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◎黄河決壊
次は、昭和13年(1938)の黄河決壊事件だ。
この年の6月6日、日本は河南省の開封(かいほう)市を占領し、交通の要点である鄭州市を射程に入れた。蒋介石は、支那国民党軍の「黄河の堤防を破壊して洪水を起こすことによって日本軍の進撃を阻止する」案を承認すると、ただちに爆破するよう命じた。
これは国民党軍の撤退が終わるまで延期されたが、当初、蒋介石は味方もろとも水攻めにするつもりだったのだろう。
第1回目の堤防破壊は6月9日。続いて支那軍は11日夜に黄河の堤防3ヵ所を破壊した。
例によって支那は、これを「日本軍がやった」と宣伝した。支那国民党の通信社であった中央社は、6月11日午前、「日本の空爆で黄河決壊」という偽情報を発信した。13日、支那国民党はさらに、支那全土の各メディアに「日本軍の暴挙」と逆宣伝させ、これを受けて各国の世論も日本を非難することになった。
だが、このとき日本軍は濁流に飲まれる支那住民を救っていた。
6月12日に日本軍2部隊が堤防修理に出動し、筏船(いかだぶね)百数十艘を出して住民と共に救助活動を行い、同時に氾濫した水を中牟(ちゅうぼう)付近から別の地域に誘導するため堤防と河道を築いた。日本軍に救助された支那人非難民は10万人を超えた。
6月23日の同盟ニュース、國史図書刊行会編『支那事変』には、ボートで救助作業をしている日本軍の写真が載っている(➆⑧)。
泥流渦巻く黄河の洪水被災地で、支那人に対する日本軍の必死の救助作業が続く。
同盟ニュース、昭和13年6月23日
濁流に車馬を渡す須磨部隊(第10師団工兵第10連隊)。
中下は洪水によって浸水した農村地帯
また、毎日新聞社『支那事変画報』第33号では救助された被害民の写真が紹介された。
わが軍の慈愛の手に救はれた黄河氾濫の被害民の群れ
支那事変画報 第33号(毎日新聞 1938年7月11日)
一方の国民党軍は、防水作業を支援中の日本軍の航空機と、地上で作業中の支那住民に激しい射撃を加えている。
にもかかわらず、国民党は、日本軍が洪水の被害を受けた避難民を機関銃で銃撃していると報じ、黄河決壊だけではなく、住民への銃撃まで日本軍の仕業だという嘘をバラまいた。
当然、日本側は否定のコメントを出し、自軍の前進を妨げる洪水を引き起こす黄河の堤防破壊をするはずがなく、さらに堤防の大きさを考慮すれば爆撃と砲撃によって堤防を破壊することは不可能だと主張した。
【上海特電15日発】
上海軍当局談「支那側は目下しきりに黄河堤防決壊は日本軍の所為なりと宣伝に努めつつあるが、決壊地点と称される京水鎮には、まだ、日本軍は進出しておらず・・・」(昭和13年6月16日付、東京朝日新聞夕刊)
◎郭沫若の記録
このときの支那軍の嘘を見破ったメディアも、実はあった。
フランス急進社会党の機関紙『共和報』は、この黄河堤防破壊を支那国民党の自作自演と報じた。戦後には、この逆宣伝の嘘を明らかにする文献は数多く出ている。
共産党政権下で郭沫若が書いた『抗日戦回想録』には、次のような記述がある。
<あの時、黄河の堤防は開封の西北の五荘、京水鎮、許家堤等で同時に決壊したわが方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、実はわが軍の前線の将軍が命令によって掘りくずしたのだった。わが伝統兵法-「水、六軍を淹(ひた)す」だった。
しかし敵が水浸しになった程度はたかの知れたもので、むしろわが方の民間の生命財産が想像もつかぬ犠牲をこうむった>
そして、1967年に刊行された、フランスの学者ルシアン・ビアンコの『中国革命の起源』には、こう記されている。
<一般住民に対して、挑発と略奪があまりしばしば行われたので、農民は日本軍よりも彼等自身の軍隊をさらに一層憎んだ。
穀物を略奪されまいとして抵抗する農民を飢えた中国兵が殺したり、日本軍の進撃を免れるために逃亡兵が村民を殺し、その衣類を自分が着込んで変装するということも起こった。
日本軍の進撃を鈍らせて鄭州の町を守るために、政府は1938年に黄河の堰(せき)を開いた。
すると、黄河は1世紀近く前から打ち捨てられたままになっていた古い河道を再び流れた。「思い切った」決定であったが、このために、河南省東部の数十万の農民が命を失った。彼等は水に溺れ、或は飢えて死んだのである。>
(坂野正高、坪井善明訳、東京大学出版会)
1982年には、堤防破壊の実行者である魏汝霖自身が、「抗日戦争期間黄河決口紀実」(『戦史会刊』第14期)で、堤防破壊は蒋介石の命令によるものだが、海外へは日本軍の仕業だと宣伝したと証言している 。
蒋介石の次男、蒋緯国(しょういこく)は、堤防破壊の犠牲者たちを「すすんで国に命を捧げた愛国者」と言って自分たちの殺戮を隠しているが、実際には日本軍には被害がほとんどなかったのだから、この作戦はただ大勢の支那人同胞の生命を無意味に奪っただけにすぎなかった。
蒋緯国の言う「すすんで国に命を捧げた愛国者」(死者)の数は、終戦後の1945年(昭和20年)12月に国民政府が発表した「河南省戦時損失調査報告」によれば約32万人。
1988(昭和63年)に共産支那で刊行された『中国革命史辞典』(馬洪武ほか主編、档案出版社)では89万人とされている。
黄河だけでなく、支那軍は6月16日と9月23日に揚子江の堤防も決壊させた。
日本軍を足止めして自分たちが安全に逃げ、日本に国際的非難を集めるためだけに、同胞の生命と生活・財産を犠牲にしてはばからない-これが支那人のやり方だ。
そしてお人好しの日本軍に支那人民を救助させたのだ。
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◎長沙市焼き払い
同胞に対する「水攻め」の次は「火あぶり」だ。
昭和13年(1938)11月には長沙市焼き払い事件が起こった。日本軍が長沙に迫っているとの噂を聞いて逃げ出すことにした支那軍は、置きみやげに長沙の街を略奪・放火した。
これは蒋介石の命令によるもので、日本軍の仕業として逆宣伝することが唯一の目的だった。
その場にいあわせた郭沫若は、『抗日戦回想録』でこう記している。
<「お前たちはいったい何をしているんだ?」私は腹を決めて大声でたずねた。
「放火です、命令です」その連中は異口同音に答えた。
・・・・・沿道の情景はまったく目をおおうものだった。公路は避難の人々で埋まっている。子供たちを連れているもの、家財道具をかついでいるもの、泣くもの、叫ぶもの、罵るもの、ふとんをかぶったもの、老人を背負っているもの、傷ついたもの、身ごもっているもの、兵士、難民、みな入りまじってごったがえしている。
・・・・・・大火はまさに燃えさかっていた。長沙全域は火煙に包まれ、火煙の勢いは空を呑みつくさんばかりだった。
「どうやら、敵は長沙には入ってないらしいな」周恩来が感慨深げにいった。
「もし敵が長沙に入っていたら、きっとぎりぎりまで追って来るだろう、まったく何の動きもみせないはずがない・・・・」
(中略)
長沙に火をつけたのは、国民党が蒋介石の指図でやった大仕事だった。彼らは一度派手な手柄をたてようと、クトゥーゾフがモスクワを焼き払ったのをまねて長沙焼き払いをしでかしたのだ。
しかし、残念ながら日本軍はこれを道化役にしてしまい、ナポレオンを演じに登場してはくれなかった。全市に焼け棒杭(やけぼっくい:燃えさしの切り株)の山を残し、百余万戸の家を焼き、そればかりいまだに総数もわからぬ傷病兵や年寄り、子供、病人などの市民を焼死させた責任は、いったい誰が負うのだろうか?
行政上の処分は-18日に警備指令艶悌、警備第二連隊長シュークン、公安局長文重孚の3人が銃殺された。
・・・・・・私たちがのちに手に入れた確実な情報によれば、張文白(張治中。引用者注)は12日午前9時、長沙全域を焼き払えという、蒋介石の密電を受け取ったのだ。したがって、長沙の大火に関する責任は蒋介石が負うべきもので、「三個の人頭」ですら本当のところは冤罪だった>
周恩来が気づいたように、このときには幸いにも日本軍がまだ長沙には入っていなかったから、支那の嘘がばれ、日本軍は濡れ衣を着せられずにすんだ。
しかし、長沙の市民にしてみれば、まったく無意味に家と街を焼き払われたことになる。死者の数は2万人以上という。
◎清野作戦の伝統
敗走時に民衆から食糧などを奪い、民家などを焼き払う「清野作戦」(焦土戦術)」を行うのは、歴史書をひもとけば、支那人の伝統的な作戦であることがわかる。
昭和12年(1937)12月の南京戦の前にも支那軍や盗賊による強奪や放火、殺害が大量に発生したことは、あの笠原十九司(解説)の『南京事件の日々-ミニー・ヴォートリンの日記』(大月書店)にも描かれている。
長沙市焼き払いの約1か月前の10月19日には、支那軍は広東東方約50キロの増江の橋を爆破し、増城城内を焼いて退却した。その2日後、日本軍が広東に突入すると、支那軍はやはり街に火を放って逃げた。
國史図書刊行会編の『支那事変』254頁には、もうもうたる黒煙と炎で包まれた広東市街を、珠江の対岸から見ている日本兵の写真がある。
同じく255頁には、逃げ遅れた老婆を背負って避難場所に運んでいる日本兵の姿も写っている。
支那人が同胞を爆撃し、水攻めにし、焼き殺す。
日本人がその救助にあたる。
この一見不可解は”逆転現象”が繰り返されたのが支那事変だった。
数千年にわたって戦乱と権力闘争による殺戮が続き、支配民族の交替が行われてきた支那大陸では、そもそも「同胞」という意識が希薄であり、自らが行った悪逆非道はすべて敵に転嫁するのが支那の伝統的なやり方なのだ。
そもそも支那共産党が廬溝橋事件を起こし、即座に「日本軍が侵略開始」と宣伝したことが支那事変のきっかけとなった。
国民党はベイツやティンパーリのような第三国の外人宣伝工作員などに南京に係る捏造情報を発信させたり捏造本を書かせたりして日本軍の「悪事」を逆宣伝した。
そして、自らが略奪や放火などを徹底的に行った「清野作戦」「焦土作戦」と称して日本軍の仕業ということにした。
日本に攻略された後も、南京には反日宣伝を目的とした反日攪乱工作隊が存在した。
共産党と国民党による国共内戦では大虐殺の応酬となり、戦後、共産支那はこれらの犠牲者も日本軍による犠牲者数にカウントし、その数は現在も増加中だ。
共産党に追われて台湾に逃げた国民党は、2・26事件で台湾民主を大虐殺し、共産党は資本家や地主を大虐殺して、国民党員を大量処刑、知識人を大量衰弱死させた。
その後も支那共産党は、チベットを侵略して大虐殺を行ない、文化大革命では数千万人という驚愕の大量殺害を行なった。
東トルキスタンでも侵略と大虐殺を行ない、さらに天安門事件でも多数の学生や市民を殺した。
現在でも、農民から土地を強制収用しておいて補償せず、抗議する農民を虐殺する事件が頻発している。支那人のやり方は数千年来、変わっていない。
支那の暴虐非道と逆宣伝は、支那事変に限ったことではなく、現在も続いていると考えるのが当然だ。
今なお日本を「悪」と宣伝しつづけるこんな隣国が存在するというのに、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」と宣言することの愚かさを知るべきだ。
ここまで**
「正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現」ブログの、同じ内容の記事です
↓
◎支那軍の上海爆撃で犠牲者多数!1937年8月14日、支那軍機が上海国際租界のパレスホテルとキャセイホテルを爆撃・日本軍の仕業と逆宣伝・嘘はばれたが、今も反日左翼の笠原十九司が無知(恥)さらしと歴史偽造
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/41604967.html
◎黄河決壊事件・蒋介石が日本軍の進軍を阻止するため1938年6月11日夜黄河の堤防を破壊・死者数は89万人~100万人(河南省だけの犯人の報告で32万人)・支那事変で住民を大量殺戮した支那軍と
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4274.html
◎長沙市焼き払い1938年11月13日・日本軍を悪者にするため蒋介石が命令・支那軍の「清野作戦」(焦土戦術)のまとめ・支那の「極悪暴虐・大虐殺」と「卑怯な逆宣伝」のまとめ
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4447.html
■参考
大嘘の南京事件1
http://vaccine.sblo.jp/article/919147.html
↑ 反日ワクチンさんのブログです。ブログ主としては、ぜひ他の記事もおすすめします!