アメリカ政府は、法治を実践し、人権を尊重し、国民に自由と民主主義をもたらすふりをしている。ワシントンの見せかけと、容赦ない現実とは全く正反対である。
アメリカ政府当局は、非民主的で、人権を侵害しているといって日常的に他国政府を批判する。ところが、爆弾やミサイルや無人機を主権国家に送り込んで、一般市民を殺害する国は、イスラエルを除いて、この国以外にない。アブグレイブ、グアンタナモ拷問監獄と、CIAの秘密引渡しサイトが、人権に対するブッシュ/オバマ政権の貢献だ。
ワシントンは自国民の人権を侵害している。ワシントンはアメリカ憲法で保障されている市民的自由を停止し、法の適正手続き無しで、アメリカ国民を無期限に拘留すると宣言した。オバマ大統領は、彼の自由裁量で、アメリカにとって脅威と彼が見なすアメリカ国民を殺害できると宣言した。
議会はこうしたとんでもない声明に対し、弾劾手続きで反撃しなかった。連邦裁判所、法学大学院や、弁護士会からの批判も皆無だった。国土安全保障省は"売女マスコミ"になるのを拒むジャーナリストを攻撃しているとグレン・グリーンワルドは報じており、我々は穏やかなウォール街占拠抗議行動参加者に対する警察の残虐な弾圧の映像を目にしている。クリス・フロイドは、アメリカを支配する拷問嗜好変質者について語っている。
今やワシントンは、世界中できるだけ多くの国々に、国際条約や国際法を捨て去るように強制している。
ワシントンはワシントンの言葉だけが国際法だという布告を発したのだ。ワシントンの許し赦免を得た国を除き、イランと貿易したり、イラン石油を購入したりするあらゆる国がアメリカにより制裁されるのだ。そうした国々はアメリカ市場から排除され、そうした国々の銀行制度は国際支払い処理をする銀行を利用できなくなる。言い換えれば、ワシントンの“対イラン経済制裁”はイランに適用されるのみならず、ワシントンに逆らい、イラン石油でエネルギー需要を満たすような国々にも適用されるのである。
クリスチャン・サイエンス・モニターによれば、ワシントンは、これまでの所、日本と欧州連合の10ヶ国に対して、イラン石油購入を継続する特権を認めた。イランがワシントンが据えつけた傀儡、イランのシャーを30年以上昔に打倒して以来ずっと継続している復讐、ワシントンの対イラン復讐に応じるため、各国の経済を停止させるという要求は、さすがにワシントンがやりおおせるものを越えていた。ワシントンは、日本がイランからの通常の石油輸入の78-85%を輸入し続けることを認めた。
ところがワシントンの許しは恣意的だ。中国、インド、トルコや、韓国にはこうした許しは与えられていない。インドと中国はイラン石油の最大の輸入国で、トルコと韓国は輸入の上位十ヶ国よ入っている。ワシントンの対イラン報復のあり得る意図しない結果を検討する前に、ワシントンの対イラン主張が何なのか見てみよう。
実のところ、ワシントンに論拠は皆無だ。単なる“大量破壊兵器”の嘘の繰り返しに他ならない。イランはイスラエルと違って、核不拡散条約に署名している。この条約に署名した全ての国に原子力発電の権利がある。イランは核兵器開発をして、条約に違反しているとワシントンは主張している。ワシントンの主張には、いかなる証拠もない。
イランには2003年以降核兵器計画はないと、ワシントン自身の16の諜報機関が異口同音に言っている。更に国際原子力機関の兵器査察官がイランに駐在しており、エネルギー計画用核物質の、兵器計画用転用はないと一貫して報告している。
ごく稀に、ワシントンがこの事実を思い出すと、ワシントンは違う主張をする。核不拡散条約により、イランには権利があるにも係わらず、イランは将来どこかの時点で、原爆を製造することができるほど色々学んでしまうだろうから、イランは原子力発電をしてはならないのだと、ワシントンは主張する。世界覇権国が一方的に、イランがある日核兵器製造を決断しするかも知れない可能性は余りに危険なリスクだと決めたのだ。ワシントンは言う。将来イラン政府が核兵器を製造することを懸念するようになるよりは、石油価格を押し上げ、世界経済を混乱させ、国際法に違反し、大戦争の危険を冒す方が良い。これは、英米の法制度によって否定されている、法律に対するジェレミー・ベンサム流の専制的手法だ。
ワシントンの立場を、良い判断の一つとして描き出すのは困難だ。しかもワシントンは、イラン核兵器の可能性にワシントンが見ている膨大なリスクを決して説明していない。ソ連の核兵器やら、現在のアメリカ、ロシア、中国、イスラエル、パキスタン、インドや、北朝鮮の核兵器のリスクよりも、一体なぜ、このリスクがそれほど大きいのだろう? イランは比較的小国だ。ワシントンのような世界覇権の野望を持ってはいない。ワシントンと違って、イランは半ダースの国々と戦争状態にあるわけではない。
一体なぜ、ワシントンは、可能性が未知な、あり得る将来の展開を巡って、法を尊重する国としてのアメリカの評判を破壊し、大戦争や経済混乱の危険を冒すのだろう?
この疑問に対する良い答えは無い。対イラン主張の証拠の欠如を、ワシントンとイスラエルは、イランを悪魔化することですり替えている。現在のイラン大統領は、イスラエルを地上から消し去るつもりだという嘘が真実として確立されている。
アメリカとイスラエルのプロパガンダによって、イラン大統領の意図とされているものは、イラン大統領の発言のとんでもない誤訳であることを多くの言語専門家達が証明しているにもかかわらず、この嘘はプロパガンダとして成功している。またもやワシントンと、その売女マスコミにとって、事実は重要ではないのだ。計略こそ重要であり、計略を推進するためにはあらゆる嘘が利用される。
ワシントンの経済制裁は、イランを痛めつけるよりも、ワシントンの方を一層ひどく痛めつける結果となりかねない。
もしインド、中国、トルコや韓国がワシントンの脅しに屈しなかったら、ワシントンは一体何をするつもりだろう?
最近のニュース報道によれば、インドと中国は、ワシントンの対イラン報復を支援するために不便な目に会ったり、経済発展を損ねたりするつもりはない。中国の急速な勃興を目の当たりにし、北朝鮮がアメリカによる攻撃から免れる様を観察している間に、あとどれほどの期間、ワシントンの傀儡国家であり続けようかと韓国も思案しているかも知れない。
文民で多少イスラム教主義的な政府が、アメリカが支配するトルコ軍から、何とか自立しているトルコは、ワシントンとNATOが、トルコの同類諸国に対しワシントンの代理人を務める“奉仕係”を、トルコにさせていることを、次第に自覚し始めているように見える。トルコ政府はワシントンの手先であることの利益を再評価しつつあるようだ。
トルコや韓国の決断は、本質的に、こうした国々が独立国家になるか、それともワシントン帝国内に組み込まれるのかという決断なのだ。
イランの独立に対するアメリカ-イスラエル攻撃の成功はインドと中国次第だ。
もしインドと中国が、ワシントンに肘鉄を食らわせたら、ワシントンは一体何ができるだろう? 全く何もない。途方もない思い上がりに溺れているワシントンが、インドと中国に対する経済制裁を宣言したらどうなるだろう?
ウォル・マートの棚は空となり、アメリカ最大の小売業者がホワイト・ハウスのドアをハンマーで叩くことになるだろう。
アメリカ市場向けの製造を中国に海外移転しているアップル・コンピューターや無数の有力アメリカ企業は自分達の儲けが消滅する目にあうのだ。ウオール街の仲間達と一緒になって、これら有力大企業が、赤軍どころではない勢力でホワイト・ハウスの馬鹿者に襲いかかるだろう。中国の貿易黒字は、アメリカの財務省証券へと流れ込むのを停止するだろう。インドに外注している、アメリカ中の銀行、クレジット・カード会社の事務処理業務や電気・ガス・水道等の公益事業の顧客サービス部門は機能を停止するだろう。
アメリカでは無秩序が支配するだろう。それがこの帝国が育て上げたグローバリズム帝国への褒美だ。
ホワイト・ハウスの能無しや、彼にもっと戦争をやれとけしかけるネオコンとイスラエルの戦争屋どもは、アメリカがもはや独立国家ではないことを理解できていない。
アメリカは、海外外注をする大企業と、そうした大企業がアメリカ市場向けの製造拠点を置いている諸外国に所有されているのだ。
中国やインド (そして韓国)に対する経済制裁は、アメリカ企業に対する経済制裁を意味している。トルコに対する経済制裁は、NATO同盟諸国に対する経済制裁を意味している。
中国、インド、韓国やトルコは、自分達が勝ち札を持っていることを分かっているだろうか? アメリカ帝国に肘鉄を食らわせて、破滅させることができるのが分かっているのだろうか、それとも彼等もヨーロッパや世界の他の国々のように、強力なアメリカには抵抗などできないのだと洗脳されているのだろうか?
中国とインドは、アメリカに対して彼等の力を行使するだろうか、それともこの二国はイラン石油を購入し続けながら、この問題を誤魔化し、ワシントンの顔を立てる姿勢をとるのだろうか?
この疑問に対する答え。両国以外の国々に対するワシントンの独裁的権力を、中国とインドが認めるふりをすることの見返りとして、中国とインドに対し、例えば南シナ海からのアメリカ退去のような秘密譲歩を、ワシントンがどれだけするかにかかっている。
中国とインドに対して譲歩しなければ、ワシントンは自らの権力が消滅して行くのを見守りながら無視される可能性が高い。工業製品を生産できず、かわりに債務証書とお札が印刷できるだけの国家は強力な国家ではない。言い伝えの男の子が“王様は裸だ”と言うまで、もったいぶって歩き回っていられるだけの、用済みで取るに足りない役立たずだ。
http://www.paulcraigroberts.org/2012/04/12/washington-leads-world-into-lawlessness
自国の教育制度を破壊し、公共情報の質を低下させ、公共図書館を破壊し、放送波を安手で、低俗な娯楽の為の媒体に変える国は、耳が聞こえなくなり、口がきけなくなり、目が見えなくなる。アメリカは、批判的に考える能力や読み書き能力よりも、テストの得点を重んじている。アメリカは、丸暗記の職業訓練や、特異な、金を儲けるという、道徳心に欠けた技術を、褒めたたえている。アメリカは、様々な思い込みや、法人国家構造に、疑問を投げ掛ける能力や語彙が欠如した、発育不良の製品人間を量産している。アメリカは、そういう連中を、ごくつぶしやシステム管理者のカースト制に、注ぎ込んでいる。アメリカは、民主的な国家を、大企業の奴隷所有者と奴隷という封建制度に変身させている。
現在攻撃されている教師、教員組合は、バーガー・キングの最低賃金従業員同様、入れ換え可能なものとなりつつある。子供たちに考えるよう動機付けたり、若者が自分の才能や潜在力を発見するのを手助けしたりする能力がある本物の教師を、我々は拒絶し、彼等を、共通テストに絞って教える講師と置き換えている。そういう教師達は服従する。彼等は子供たちに服従することを教える。そして、それが大事なのだ。“テキサス州の奇跡”を範にした落ちこぼれ防止計画は詐欺なのだ。アメリカの規制緩和された金融制度同然の機能しかない。しかし議論を排除してしまえば、こうした駄目な考え方が、自己増殖できる。
マークシート式テストというものは、特定の形の分析的知能を称賛し、報いるものだ。投資管理者や大企業は、この種の知能を重んじる。連中は従業員には、気まずい質問をしたり、既存の体制や前提を検討したりして欲しくないのだ。連中、従業員は体制に奉仕して欲しいのだ。こうしたテストは、基本的な機能やサービス業を勤めるのに十分なだけの読み書き、計算しかできない人々を生み出す。テストは、そうしたテストに備えられる経済的資力を持った連中を昇進させる。連中は、規則に従い、公式を暗記し、権力に対して服従する人々を評価する。反逆者、芸術家、自立して考える人々、変わり者や、因習を打破する人々、我が道を行こうとする人々は、排除される。
ニューヨーク市のある公立学校の教師が、名前を決して出さないことを条件に話してくれた“自分がしていることのほとんどが詐欺的だと知りながら、一層残酷な世界での暮らしに、自分の生徒を備えさせようとしているわけでは決してないと知りながら、お膳立て通りの試験対策コースを教えなければ、しかもそれを更にうまくやれるようにならなければ、失業すると知りながら、毎日学校に出かけることを想像してみてください。つい最近までは、学校の校長というのは、オーケストラの指揮者のようなものでした。メンバー全員のパート譜、全ての楽器の位置について、深い経験と知識を持った人物です。過去10年間に、[知事の]マイク・ブルームバーグのリーダーシップ・アカデミーやら、エリ・ブロードの監督者アカデミーが登場していますが、いずれも、もっぱら、即席の校長や、CEOを手本にした管理者やらを作り出すべく設立されています。一体どうして、この種の学校なるものは合法的なのでしょう?そのような‘アカデミー’は一体どのようにして認可されるのでしょう?一体どんな質の指導者が、‘リーダーシップ・アカデミー’を必要としているのでしょう?一体どのような社会が、自分の子供が通う学校をそういう連中に運営させるでしょう?いちかばちかの試験は、教育として価値などない可能性が高いのですが、学校制度を弱体化させ、恐怖を植えつけ、企業乗っ取りの論拠を生み出すには素晴らしい仕組みです。教育改革が、教育者ではなく、投資家、投機家や、億万長者によって遂行されつつあるという事実は、何とも奇怪なことですあらゆる方向から攻撃されつつある教師達は、その職から逃亡しつつある。“改革”電撃作戦が始まる前から、働き始めてから五年以内に、全ての教師の半数を失っていたのだ。しかもこの人々は、教師になる為に何年も学校に通い、何千ドルも費やした人々なのだ。敵意という今の条件の下で、一体どうして国が、威厳ある、経験を積んだ専門家を雇い続けることを期待できようか。税補助は受けるが、従来の公的教育規制を受けない学校、チャーター・スクール制度の背後にいる、ヘッジ・ファンド・マネージャー達、つまり、一番の関心事が決して教育ではない連中は、本物の教師を、非組合員で、経験の乏しい講師に、喜んで置き換えようとしているのだと見ている。本当に教育をするということは、公益を推進し、歴史的健忘症の愚行から社会を守る価値観や知識を教え込むということだ。共通テストや、リーダーシップ学校という制度が奉じる功利主義的な、大企業イデオロギーには、文科系の教育に特有の微妙なあやや、道徳的な曖昧さ等を、論じている暇などないのだ。大企業が政治を牛耳るコーポラティズムというのは、我欲崇拝だ。人間存在の唯一の目的として、個人的豊かさと、利益が大切なのだ。そして同化しない連中は脇に押しやられる。
“こうしたお決まりの企業読書計画や共通テストは、色々なことに役立つのだと、子供たちに教え込み、事実上、嘘をついているのだと自覚するのは、何ともやりきれません”彼がはっきり意見を述べていることを、もし学校の管理者連中が知ったら、報復されるのではあるまいかと恐れるこの教師は、そう語っている。“自分の生計が、益々この嘘を維持し続けることにかかっていることを考えると更に気が滅入ります。一体なぜヘッジ・ファンド・マネージャーが突然に都市部貧困層の教育に関心を持つのか?と自問すべきです。テストが流行っている、本当の狙いは、生徒の格付けではなく、教師の格付けです。”
“確信をもって言うことはできませんが、全く何も知らない分野について、絶大な確信を持って、もったいぶって語るビル・ゲーツや、マイク・ブルームバーグのような確信では。けれども、改革キャンペーンの主な狙いは、教師の仕事を、極めて恥ずべきものにし、威厳ある、本当に学識のある教師達を侮辱し、一片の自尊心がある間に、簡単に離職させるのが狙いだろうと益々勘ぐるようになりました”彼は補足した。“十年もたたない間に、私たちは、自主性を剥奪され、益々こと細かに管理されつつあるのです。生徒達は、テストに落ちることによって、我々を解雇するという権力を与えられています。教師達は、餌桶の所にいる豚にたとえられ、アメリカ合州国の経済崩壊の原因だとされています。ニューヨークでは、校長は、経験豊富な教師を、22歳の終身在職権がない新米で置き換えるよう、財政上でも、管理上でも、ありとあらゆる手段で仕向けられているのです。そういう連中は給料が安いのです。連中は何も知りません。連中は従順で、首にしやすいのです。”
教師を悪者に仕立て上げるのは、アメリカ労働者の給料、貯蓄や収入から、約170億ドルを窃盗する行為や、労働者六人に一人が失業している状態から、目をそらせるための、大企業にとっての方便、もう一つの陽動作戦広報活動なのだ。ウオール街の相場師連中は財務省を略奪した。連中はあらゆる種類の規制を妨害した。連中は刑事責任を免れてしまった。連中は、基本的な社会福祉をはぎ取っている。そして今や連中は、アメリカの学校や大学を運営すると主張しているのだ。
“改革論者達は、要因から、貧困を除外しただけではありません。連中は要因としての生徒の適性や、動機付けも除外してしまいました”教員組合に加入している、この教師は言う。“生徒達は草花のようなものだから、水をくれてやり、自分による教育という日に当ててやれば、全て花開くのだと、連中は考えているように見えます。これは生徒と教師双方を侮辱する妄想です。改革論者達は、教育という職業を専門職とするためのステップなる様々な狡猾な策略を考え出しました。連中は全員実業家なので、この分野のことを何も知らず、教師達に、自主性を与え、敬意を払って、こういうことをする訳ではないのは、当然のことだ。連中は、マークシート式テストの成績が良い生徒の教師には、多く給与を支払い、マークシート式テストの成績が、さほど良くない生徒の教師にはより少ない給与を支払うという業績給を持ち込むのです。もちろん、考えられる限り、そういうことが公正となる唯一の方法は、それぞれのクラスの生徒を全く同等の集団にすることですが、それは不可能です。業績給の本当の狙いは、教師達が、より賢く、より意欲のある生徒を奪い合うことで、教師同士を分断することと、共通テストという愚劣な発想を更に制度化することです。この両方において、ある種の悪魔的な諜報工作が行われています。”
“もしも、ブルームバーグ政権が何かの点で成功したと言うのであれば”と彼は言う。“連中は、学校を、校長を満足させられるかどうか、学校は今から一年先も続いているかどうか、自分たちの組合が、その頃でもまだ存続していて、何らかの保護をしてくれるかどうか、来年も仕事があるのかどうかと、教師達がいぶかりながら、走り回るストレス製造工場へと転換することには成功したのです。これは学校組織を運営する方法とは言えません。これは学校を破壊する方法です。改革論者達と、マスコミ業界にいるその友人連中が、駄目な教師と良い教師という、マニ教の二元論世界を作り出したのです。この二者択一の世界には、他の要因は一切存在しません。あるいは、貧困、堕落した両親、精神疾患や、栄養失調など他の全要因は、全て駄目な教師の言い訳で、勤勉と良い教師によって克服できるのだ。”
本当に教育された生徒は自覚を持つようになる。生徒達は自己認識をするようになる。生徒達は、自分自身に嘘をつかない。生徒達は、詐欺は道徳的であるとか、企業の強欲は善であると偽りはしない。彼らは、子供たちの飢餓や、病人の診療を、市場の要求で拒否することが、道徳上、正当化できるなどとは主張しない。彼等は、事業を行う為のコストだとして、600万の家族を家から追い出すようなことはしない。思索とは、人の、内なる自分との対話だ。お上が、聞かれたくないと思っている質問をしよう、と彼等は考えるのだ。彼等は、私たちが何者かを、我々の出自を、そして我々が進むべき先を知っている。彼等は、権力については、永遠に懐疑的で、不信の目を向けつづける。そして彼等は、この道徳的自立こそが、集団的無自覚からうまれる根本的な悪に対する唯一の防御であることを知っている。考える力こそが、盲目的服従を押しつけようとする、あらゆる中央集権化した権力に対する唯一のとりでだ。ソクラテスが理解していた通り、人々に、何を考えるべきかを教えることと、いかに考えるべきかを教えることには、大きな違いがある。道徳的な判断力に恵まれた人々は、たとえそれが、法人国家によって認可されたものであっても、犯罪を行うことを拒否する。彼等は、結局、犯罪人連中と一緒に暮らしたい等とは望んでいないからだ。
“世界中と対立する方が、自分自身と対立するよりはましだ”とソクラテスは言った。
正しい質問ができる人々は、道徳的判断をし、外部からの圧力に直面した際、善を擁護する能力を備えている。そして、これこそが、哲学者イマニュエル・カントが、他人に対する義務より、自分自身に対する義務を重んじた理由だ。カントにとっての規範は、自己愛、つまり、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい、という聖書の考え方ではなく、自尊心なのだ。私たちを、人間として、意義があり、価値あるものとしてくれるのは、全世界の不正や、巨大な道徳的無関心に対して、立ち上がり、立ち向かう能力なのだ。正義が滅びてしまえば、カントが理解していたように、人生はあらゆる意味を失ってしまう。宗教法も含め、外部から押しつけられた法や規則に、おとなしく従う人々は、道徳的人間とは言えない。押しつけられた法律を履行することは、道徳的に中立とは言えない。本当に教育された人々は、正義、共感や良識といった高尚なものに、自らの意思を役立たせようとするものだ。ソクラテスも、悪に苦しむ方が、悪を行うより良いと言って、同じことを主張した。
ハンナ・アーレントが書いているように、“しでかされた最大の悪というのは、誰でもない人間、つまり人間であることを拒否している人間によって犯された悪だ。”
アーレントの指摘通り、我々はこの自覚を持った人々だけを信じるべきなのだ。この自覚は、意識することから生まれる。それは、犯罪が行われるのを見た際“私にはやれない。”と言える能力に付随する。アーレントは警告した。盲目的服従という脆弱な構造を中心に構築されている道徳体系の持ち主達を、私たちは恐れなければならない。考えることができない人々を恐れなければならない。自覚無き文明は、全体主義の荒れ地となる。
“悪事を働く者共の中で一番悪い奴らは、決して、物事にじっくり思いを巡らすことをしない、記憶のない連中であり、彼等に記憶が無ければ、何事も連中を引き止めることはできないのだ”と、アーレントは書いている。“人間にとって、過去の出来事を考えるということは、深みの方向に向かい、根を下ろし、そして時代精神なり、歴史なり、単なる誘惑なり、起こりうるあらゆることによって押し流されないよう、自らを安定させることを意味している。最大の悪というものは、根源的なものではない。根を持たず、根が無いがゆえに、限界が無く、想像を絶するような極端に走って、世界中を襲いかねないのだ。”