浮世風呂

日本の垢を落としたい。浮き世の憂さを晴らしたい。そんな大袈裟なものじゃないけれど・・・

消し去られた歴史

2013-09-03 08:55:50 | 資料

歴史から消された「通州事件」 

1937年(昭和12年)7月29日に発生した事件のこと。

「冀東防共自治政府」保安隊(中国人部隊)が日本軍部隊・特務機関及び日本人居留民を襲撃した事件。

虐殺の犠牲者は渡部昇一の調査によると日本人260人。
当時の支那駐屯軍司令官香月清司中将の『支那事変回想録摘記』が記録する犠牲者の数は、 日本人104名と朝鮮人108名。



通州は、北平(現:北京市)の東約12kmにあった通県(現:北京市通州区北部)の中心都市で、日本人を妻とする殷汝耕が南京政府から離脱して設立した冀東防共自治政府が置かれていた。

また、北京議定書に基づき、欧米列強同様に日本軍が邦人居留民保護の目的で駐留していた。

 

★逃げのびた通信社の安東利男記者によると比較的治安の良い日本人街だったのに、突然中国人の兵士が小銃や機関銃を連射しながら街に飛び込んで来たそうだ。

記者は割烹旅館「近水楼」の天井裏に逃げ込み惨状を目撃することとなった。
女中四人が中国人兵士に射殺され、死体を凌辱したのを目撃し隠れて居るところを兵士らに見付かり、他に見つかった人達と共に数珠繋ぎで連行され、順番に銃殺されそうになり、崖下に飛び降りて北京まで怪我を負いながら逃げて助かったという。

日本人街は惨状を呈していた。

同じく逃げて助かった浜田巡査の妻は強姦されたあと、連行される途中に逃げて助かった。
しかし、長男は銃剣で刺され死亡、長女に至っては強姦されたあと陰部に手榴弾を突っ込まれ爆死した。

食堂にいた男児は中国兵士に壁に打ち付けられ頭が割れ脳ミソが出ていた。
止めに入った五人の女性も全員銃殺されて断首、テーブルに一列に生首を並べた。

食事処の旭軒では女子店員八人が強姦され、衣服を剥ぎ取り全裸にして並べ、順番に陰部を銃剣で刺して殺害した。

道端では女性の全裸死体が並び、全員の陰部が抉り取られていた。

男性は生きたまま目玉を抉り出され、腹から腸を引っ張り出されて死んだ。

子供は牛の様に鼻や喉に針金を突き通され、車で引き回され、木に吊るされて死んだ。

カフェの女子店員も強姦され、
一人は強姦中の首を絞められ死亡、
一人は強姦の後に長い箸を陰部に突き刺されて死亡、
一人は強姦の後に口に大量の土砂を詰め込まれて窒息死していた。

中国の兵士は事前に日本人の住所をリストアップしており
街の中の日本人宅を狙い撃ちにしている。

これは紛れもなく事実である。

指揮官は、張慶餘と張硯田と宋哲元と判明したが
実行部隊の兵士と首謀者三人は逮捕もされていない。

385名の日本人のうち、223名が殺戮され、幼児12人も殺されていた。

犠牲者には妊婦もおり、腹を裂かれ胎児を引き出され
代わりに土砂が子宮に詰め込まれて母子共に死亡していた例もある。

これ等の野蛮な行為は中国に古来から伝わる中国軍の「作法」だそうな。

日本人は決して忘れてはならない日がある。

昭和12年7月29日を忘れるな。

 



このときの写真の多くを、南京大虐殺や371部隊の人体実験などとして支那共産党が出してきた。
犠牲者は通州事件当時の日本人であるのに。

 

 ◆第二次上海事変の日本人捕虜と協力民間中国人の虐殺

  通州事件をうけて1937年(昭和12年)8月13日から始まる中華民国軍の上海への進駐とそれに続く交戦で捕虜となった日本兵とその日本軍に協力したとして夥しい民間中国人が国民党軍により虐殺された事件。

 http://edition.cnn.com/WORLD/9609/23/rare.photos/index.html

 

7/7に起きた盧溝橋事件に続き8/13に蒋介石は上海の日本人疎開を防御する日本守備隊を攻撃。国民党は空爆を行い、結果的にフランス租界や国際共同租界にも爆弾が落ち、民間人2000人ほどの死傷者が出た。この際においても日本軍は不拡大方針に基づいて防御と戦闘拡大を防ぎ民間人の保護に徹している。

「日本政府は、国民党軍が上海において日本側に対しての砲撃、さらには日本の軍艦に対しての爆撃まで行ったことから14日夜から緊急閣議を開き、それまで日本側が取ってきた事態の不拡大政策を見直し、8月15日未明、「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」との声明を発表した。上海派遣軍が編制され、松井石根大将が司令官となる。 

日本海軍は、前日に延期された九州から南京への航空機による渡洋爆撃をこの日より開始し、戦闘の激化と共に飛行機を輸入に頼る国民党軍を駆逐し上海周辺の制空権を掌握していく」

日本軍が中国を侵略したというのは真っ赤な嘘で、真実は国際法に基づき租界を守備していた日本軍を武装した中国軍が襲った。 

それにも関わらず日本政府は不拡大方針を取り、休戦条約締結など外交努力を行った。しかし、再び上海の日本人租界を守備する日本軍を強襲。中国軍は民間人に死傷者が出る空爆を行い、死傷者は出続けた。

ここまでの事態となり、ようやく日本政府は不拡大方針を改める。

 

戦闘の一方で日本人に強力したと見られる民間人を毎日捕まえては公開処刑を行っている 

「上海南市においても毎日数十人が漢奸として処刑され、その総数は4,000名に達し、中には政府の官吏も300名以上含まれていた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに処刑され、その首は警察官によって裏切り者に対する警告のための晒しものとされた」 

 

 

これら一連の国民党軍による虐殺写真が、しばしば南京大虐殺事件の日本軍の蛮行として扱われる。すべて国民党軍による民間人虐殺でありながら、不都合な部分を合成してまで日本による犯行と言い立てるのである。大東亜戦争で戦っていたのは日本軍と国民党軍であり、日本に言いがかりをつけてくる共産党軍は、洞穴に隠れたり山岳地に隠れて、日本軍とは殆ど出会わないように逃げ回っていた。彼らがやっていたのは村を襲い食料の略奪や婦女子の強姦である。そんな馬賊や夜盗が、今では日本と戦った中国軍だと言いがかりをつけ金をせびって来るのである。

◆南京事件

1927年(昭和2年)3月、蒋介石の北伐軍が南京入城の際に起こした襲撃事件。

1927年(昭和2年)3月24日早朝、国民軍総司令蒋介石の北伐軍が南京に入城した。その軍長は程潜であった。当初は平和裏に入城していたが、まもなく、反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が外国の領事館や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行い、日本1人(後述の宿泊船(en)警備の海軍兵)、イギリス3人、アメリカ合衆国1人、イタリア1人、フランス1人、デンマーク1人の死者、2人の行方不明者が出た。

このうち日本領事館では、警備の海軍陸戦隊員は反撃を禁じられていたため、館内の日本人は一方的に暴行や掠奪を受けた。駆逐艦「檜」などから派遣されていた領事館警備の陸戦隊の兵力は10人しかなく、抵抗すれば尼港事件のような民間人殺害を誘発する危険があると考えられたため、無抵抗が徹底された。正門で歩哨に就いていた西原二等兵曹が侵入者を制止しようとした際、群衆は「やっつけろ、やっつけろ」と連呼しながら銃剣で突きまくり顔面や頭部をめった打ちにして負傷させた。根本博陸軍武官と木村領事館警察署長は金庫が開かない腹いせに銃剣で刺されて負傷、領事夫人も陵辱された。領事館への襲撃のほか、係留中の宿泊船(ハルク)の警備についていた後藤三等機関兵曹は狙撃により射殺された。

この事件はあえて外国の干渉をさそって蒋介石を倒す中国共産党の計画的策謀といわれている。

事件のかげにはソ連の顧問ミハイル・ボロディンがいて、第6軍政治部主任林祖涵と、第2軍政治部主任李富春は共産分子であり、軍長の程潜は彼らにあやつられていた。

事件前夜の3月23日にボロディンが武漢で招集した中央政治委員会で、林祖涵は程潜を江蘇政務委員会の主席にするよう提案していたという。その後の中国の進路や日本の対中政策を大きく変えることになった。

下関に停泊中のアメリカ軍とイギリス軍の艦艇は25日午後3時40分頃より城内に艦砲射撃を開始、陸戦隊を上陸させて居留民の保護を図った。砲弾は1時間余りで約200発が撃ち込まれ、日本領事館近傍にも着弾した。多数の中国の軍民が砲撃で死傷したとされている。

日本は、虐殺を誘致するおそれありとして砲撃には参加しなかったが、25日朝に警備強化のため新たに陸戦隊90人を上陸させた。領事館の避難民らは、イギリス軍による反撃に巻き込まれるのを避けるため、増援の陸戦隊に守られて軍艦に収容された。

蒋介石は、29日に九江より上海に来て、暴行兵を処罰すること、上海の治安を確保すること、排外主義を目的としないことなどの内容を声明で発表した。しかし、日英米仏伊五カ国の公使が関係指揮官及び兵士の厳罰、蒋介石の文書による謝罪、外国人の生命財産に対する保障、人的物的被害の賠償を共同して要求したところ、外交部長・陳友仁は責任の一部が不平等条約の存在にあるとし、紛糾した。

◆消された歴史・漢口事件

1927年(昭和2年)4月3日、国民革命軍の武漢攻略の際、一部の無秩序な軍隊と暴民が漢口の日本租界に侵入し、掠奪、破壊を行い、日本領事館員や居留民に暴行危害を加えた事件。

日本海軍の軍人も傷害や暴行を加えられた。被害は150戸、被害見積額は92万円。共産党の扇動により発生した。
日本海軍の水兵と中国の少年との口論を端緒に次第に拡大していったとされる。

4月3日午後3時過ぎ、水兵2名が日本租界燮昌路の料亭「妻鶴」の横手を通行中、支那人子供から投石され、口論中に30人ぐらいの支那人が食って掛かってき、車夫の一団が水兵を取り囲み殴り始めた。

水兵は一人の車夫を突き倒して、近くの料理店「山吉」に逃げ込んだ。たちまちの間に野次馬も加わって、「山吉」とその隣の「浪花食堂」は跡形もなく破壊された。

さらに、「日本水兵が支那人を殺した」「車夫がナイフで刺された」といったデマが喧伝され、ちょうど日本租界北側の平和街に差し掛かかっていた農民協会成立大会の祝賀行列の一団が、日本租界に殺到し、租界の三分の二は暴民によって埋められた。

日本人を見れば取り囲んで殴打し、日本人商店は軒並み襲撃された。これらの暴徒の襲撃は徹底的にしかも巧妙に行われた。事件を聞いて駆けつけた田中副領事も、日本領事だと叫んだにもかかわらず、暴行された。南小路から平和街に出る角の理髪店の隣の田村氏の宅では、産後間もない身を病床に横たえていた妻女が、暴徒によって足蹴にされ遺骸は放置された。

午後4時ごろ、数千の群衆は子供を先頭に立て赤旗を振るい、指揮者の下に喚声をあげて河岸に殺到しようとしていたところ、陸戦隊が上陸し、まず空砲を放ち、数発の実弾を撃った。すると暴民は雪崩を打って退却、略奪しつつ租界外に向かった。平和街に接近するや頑として退かず、やむなく陸戦隊は本願寺の土堤に向かって機銃の威嚇射撃を行うと、群衆は逃げ去った。

陸戦隊によって租界を追われた群衆は、他国の租界にある日本人商店を襲撃した。水兵6名は飲食店にいたところを襲われ、散々殴打されて拉致され、総工会本部に監禁された。夜には日本人25名がイギリス艦ビー号に避難し保護された。同仁病院も漢口から引き上げを行った唐生智は4日朝、軍隊を派遣して引き取ったが、総工会は、日本側に有利な条件を容れさせるための人質なので、そのまま返したら承知せず、と言って、唐生智が日本側に送ろうとしても、糾察隊は衛戍司令部を監視して妨害した。総領事が協議した結果、7日夜にようやく取り戻した。

国民政府外交部長の陳友仁は事件の夜に駆けつけ、高尾総領事に対して遺憾の意を表し、当方にて全責任をもって解決すると言った。武漢衛戍総司令の唐生智も来て遺憾の意を表し、租界は支那軍隊にて護衛するので陸戦隊の撤退を要求した。

総領事は支那側の誠意を尊重して陸戦隊の撤退を希望し、また支那側は軍隊を租界の周囲に配し、糾察隊とともに群衆を遠ざけ、日本人に危害を加えるな、略奪するなといったポスターを貼るなど誠意があるように見えたので、陸戦隊は一時大正ホールに引き上げた。

しかし軍隊の略奪が行われ、直ちに陸戦隊を配備した。

本願寺に進入した唐生智の軍隊は木堂内の略奪容疑で、何健の軍隊に代えられ、それも陸戦隊の抗議により、本願寺から撤退した。

総工会の代表は「支那人が十人死んだ。発砲は不法だ。衝突の原因を明らかにされたい。陸戦隊を即刻引きあげられたい」など勝手な注文を持ち出したが、総領事のために一蹴された。また総工会は食糧封鎖を強行しようとした。

4月6日には、婦女子1320名が大福丸と襄陽丸に乗って引き揚げた。その後数回に分けて引き揚げ、二千数百人の在留邦人は五百余名となった。

4月3日、宜昌ではスタンダード石油は店を閉鎖し、アメリカ人全員がイギリス艦、アメリカ船にて引揚げることを決する。アメリカ公使は在北京アメリカ人に対して北京からの引揚げの勧告を行った。

4月12日、共産党を警戒する列強の支持を受けた蒋介石は上海クーデターを起こし多数の共産党幹部を処刑した。

◆済南事件(さいなんじけん) 南京虐殺の捏造に使われた事件

1928年(昭和3)5月3日、中国山東省の済南で、日本の権益確保と日本人居留民保護のため派遣された日本軍(第二次山東出兵)と北伐中であった蒋介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件。蒋介石は日本軍による北伐の妨害であったと後に非難している。

事件の中で、日本人居留民12名が殺害され、日本側の「膺懲」気運が高まった。一方、日本軍により旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16名が殺害されたが、中国側はこれを重く見て、日本軍の「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した。さらにこれを機に、日本軍は増派(第三次山東出兵)を決定した。

衝突はいったん収まったものの、5月8日、軍事当局間の交渉が決裂。日本軍は攻撃を開始、5月11日、済南を占領した。中国側によれば、その際、中国軍民に数千人の死者が出たとされる。

昭和3年の4月、蒋介石は中国統一を実現させるため、国民革命軍(南軍)総司令として第二次北伐の軍を進めた。全軍総司令官は蒋介石、参謀総長は何応欽将軍で100万の大軍が4個の集団軍として編成されていた。

これに対して張作霖大元帥の北軍も7つの方面軍、兵力100万を有していた。4月7日北伐宣言を発した南軍は4月中旬に早くも済南を包囲する態勢に入った。

済南は山東省の商業都市で人口38万を有し、諸外国人が多くここに住み、日本人も1810人が居留民として ここに住んでいた。しかし南軍が北上するにつれ、済南が危機に陥った。

南京事件(1927年に日米英仏の公館が国民革命軍に襲撃され略奪、婦女暴行、殺戮が行われた事件)のような事件がまた発生するかもしれなかったためだ。

現地からの保護要請を受けた田中首相は居留民保護のためやむを得ないと決断し、4月下旬に済 南に軍を出した(第二次山東出兵)。

日本軍は現地に到着すると済南城に隣接する商業地(居留民の大部分がここにいた)に、東西2か所の守備地区を設置して居留民を収容保護した。

しかし北軍が退却した後の5月1日、南軍が入市してくると恐 れていた事態が起こってしまった。

 

済南事件で中国兵が日本人居留民に加えた残虐行為は、まさに「中国式」で想像を絶する残虐さだった。 事件直後に惨殺死体を発見した南京駐在武官・佐々木到一中佐はその手記に次のよ うに記した。

「予は病院において偶然その死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の極だった。手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加へ、あるいは滅多切りとなし、婦女は全て陰部に棒が挿入されてある。

ある者は焼かれて半ば骸骨となっていた。焼け残りの白足袋で日本婦人たることがわかったような始末である。わが軍の激昂 はその極に達した」(「ある軍人の自伝」より)

この話は嘘でも誇張でもない。済南の日本人惨殺状況に関する次の外務省公電がこれを立証している。

「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を挿込みたるもの、顔面上部を切落したるもの、右耳を切落され左頬より右後頭部に貫通突傷あり、全身腐乱し居れる 者一、陰茎を切落したるもの二、」とある。

検死記録(中国政府も同席し確認)
 東条きん(女性・24歳)
 両腕を帯で後手に縛られて顔面、胸部、乳房に刺創。助骨折損。陰部に棒をさしこまれていた。

東条きん氏と思われる検死写真B

  

※検死記録と完全に一致
※済南病院で1928年5月に撮影(山東省動乱記念写真帖)

★支那は、この写真を371部隊の人体実験の証拠写真として出してきた。

要は、「731部隊の人体実験」だという説明の根拠は見つかっていない。
しかし「済南事件の被害者を日本人医師が検死している」というのには上記の根拠がある。

犠牲者の検死写真A

 写真Bと医師も助手も場所も同

◆「敦化事件(日満パルプ事件)」

性奴隷にされ自決した23人の日本人女性

 1945年8月27日に満洲国吉林省敦化(現吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)でソ連軍によって連日に渡り集団強姦され続けていた日満パルプ製造(王子製紙子会社)敦化工場の女性社員や家族が集団自決した事件。
「日満パルプ事件」とも呼称される。

事件の現場となった日満パルプ製造敦化工場は、1934年に王子製紙が敦化県城南門外牡丹江左岸(敦化郊外5キロ)に設立した工場である。
工場に隣接して設置された社宅地は、高さ4.5mの煉瓦壁でおおわれた2万坪の敷地内に壮麗な造りの社宅と福利厚生のためのクラブなどが設けられており、日本人職員とその家族260人が暮らしていた。

また、敦化市内には2,000人の関東軍守備隊の駐屯地があり、終戦当時には敦化北部の山地に築城しソ連軍の侵攻を食い止めようと備えていた。

1945年8月9日未明に突如としてソビエト連邦が満洲国に侵攻し、敦化に近い東部国境付近では関東軍・満洲国軍がソ連軍と交戦していたが、工場や敦化市内では満人や朝鮮人の態度も変わることなく治安が保たれたままであった。

8月15日に敗戦を迎えた後も工場の満人や朝鮮人従業員は変わることはなかったが、敦化市内では満人や朝鮮人の一部による略奪・放火・日本人女性への暴行が行われるようになった。
8月17日、敦化郊外で陣地を築いていた敦化守備隊は工場に資材を取りに来て初めて終戦を知った。
8月19日、ソ連軍が敦化市内に進駐してきたため、敦化守備隊は降伏し武装解除された。

8月22日、ソ連軍は日満パルプ製造敦化工場に進駐した。ソ連軍は社宅に侵入すると1時間以内に社宅の一角を引き渡すよう要求した。ソ連兵はすぐにホテル・レストランを兼ねた壮麗な造りのクラブに惹きつけられていった。

ソ連兵はクラブ従業員の女性2人を引きずり出すとジープで社宅から連れ去った。数時間後に拉致された女性がぼろぼろになって社宅に帰ってきたがもう一人の若い娘は強姦された後に牡丹江に流され行方不明となった。

8月25日、ソビエト軍は男性全員を集合させると10キロほど離れたところにある飛行場の近くの湿地に連行し、婦女子は独身寮に集められた。

170人ほどの婦女子は15,6人ずつに分けられ監禁されることとなった。夜になると、ソ連兵300人あまりが独身寮に移ってくるとともに、短機関銃を乱射する頻度が夜が更けるにつれて増えていった。女性たちは夜が明けることを祈りながら一晩中恐怖と戦っていた。

8月26日夜明け、酒に酔ったソ連兵たちは短機関銃を空に乱射しながら女性たちが監禁されている各部屋に乱入すると、女性たちの顎をつかみ顔を確認しながら、気に入った女性たちを連れて行こうとした。女性たちは金品を渡したり、許しを懇願したが聞き入れられず、次々に引きずり出されていった。各部屋からは女性たちの悲痛な叫びが溢れたが、ソ連兵は構うことなく短機関銃を乱射し続けていた。このため、女性たちは頭を丸坊主にしたり、顔に墨を塗るなどしたが、ソ連兵による強姦は朝になっても収まることはなく、部屋に乱入すると女性たちの胸部をまさぐるなどして気に入った女性たちを何度も連行していった

社宅と塀を隔てた工場に残されていた男性社員たちは、社宅の異変を察知するとソ連兵の監視を掻い潜り塀を乗り越え社宅に潜入したが、厳重な警戒が布かれている独身寮には近づくことができなかった。ソ連兵たちは狼藉を続けるうちに女性たちの部屋の廊下に監視兵を置くようになったため、御不浄や食事もままならないようになった。女性たちは自身のおかれている状況や絶え間ない銃声から、すでに男性社員たちは皆殺しにあったのではないかと考えるようになった。

ソ連兵による女性たちへの昼夜に渡る暴行は8月27日の深夜になっても収まることはなかった。このため、28人の婦女子が集められていた部屋では自決をするべきか議論がなされるようになった。議論中にもソ連兵の乱入があり、隣室からも女性たちの悲鳴や「殺して下さい」などの叫び声が聞こえてきたため、自決することに議論が決した。隠し持っていた青酸カリが配られ全員が自決を図り、23人が死亡、5人が死に切れずに生き残った。他の部屋ではソ連兵に引きずり出されるときに剃刀で自殺を図った女性もいた。

8月27日早朝、ソ連兵が集団自決を発見し、将校に報告されると各部屋にはソ連兵の見張りが付けられ、女性たちは外を見ることを禁じられ、遺体はどこかへ運び去られた。責任を問われることを恐れたソ連軍将校によって、これ以上の暴行は中止されることとなった。

◆尼港事件

1920年(大正9年)1月29日

1920年初頭にはチェコ軍救出というシベリア出兵目的も達成しつつあり、日本は満洲、朝鮮の防衛以外は守備隊を縮小し、速やかに撤兵する方針を声明したが、ここにとてつもない惨劇が起こった。

尼港(ロシア語名:ニコライエフスク)は、樺太の対岸、黒竜江がオホーツク海に注ぐ河口に位置する町である。

1920年初頭、ここに日本人居留民、陸軍守備隊、海軍通信隊約7百数十名が在住していた。

連合軍が撤退すると、ロシア人、支那人、朝鮮人からなる4千人の共産パルチザンが同市を包囲襲撃、守備隊とのあいだに偽装講和を結んで同市を支配した。

共産パルチザンは革命裁判と処刑を開始したが、ロシア革命三周年記念の日に日本軍と交戦状態に入り、日本守備隊は大半が戦死、居留民ら140余名が投獄された。

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以下、下記サイトより引用
http://megalodon.jp/2009-0203-0940-12/chie.okigunnji.com/n/nikoujiken.htm

大正7年、共産ソ連の誕生に対し、各地への共産化防止のため各国軍は共同でシベリアに出兵した。

黒龍江河口から20キロの地点にある尼港(ニコライエフスク)には当時、日本居留民が約700名、白系ロシア人が約1万5000名、その他朝鮮人などが住んでいた。
シベリア出兵以来、日本軍の2個歩兵中隊(第14師団隷下)が駐屯し現地の居留民保護にあたっており、付近の共産主義武装組織は一時鳴りを潜めた。

ところが大正9年になって勢いを盛り返した武装組織が尼港市街を包囲、守備隊は衆寡敵せず、停戦に応じることとなった。
2月、尼港に入った武装組織員はまず、白系ロシア人を武装解除し、資本家階級の家族ともども惨殺する(約2400名)。

在尼港の石田副領事はこの暴虐に抗議したが武装組織は受け入れず、逆に日本側に対し武装解除を要求してきたのである。

武装解除後何をされるかは明らかであったことから、現地の部隊および義勇隊(あわせて110名)は武装組織の本拠を急襲しましたが、衆寡敵せず駐留部隊指揮官石川少佐以下多数が戦死した。

居留民の多くは領事館に退避したが、集まったのはわずか250名で、逃げ遅れて武装組織の手にかかった人も多かったそうである。
武装組織は子供を見つけると2人で手足を持って石壁に叩きつけて殺し、女と見れば老若問わず強姦し両足を2頭の馬に結びつけて股を引き裂いて殺したりと、それは残虐な方法で命を奪ったということだ。

一昼夜戦闘が続き、領事館のなかでの生存者も28名となり、弾薬も尽きたため、一同はまず子供を殺し、石田副領事、三宅海軍少佐以下全員が自決した。
尼港に残る日本人は河本中尉率いる別働隊と領事館に避難しなかった民間人140名となったが、彼らは武装組織と交渉した上位部隊指揮官からの命で武装組織に降伏し、監獄に入ることとなった。

春になって、第7師団(旭川)の多門支隊が同地の救援にようやく赴いたが(武装組織侵攻以後は海面凍結のために派遣できなかった)、そこで見たものは地獄絵図であった。
焼け野原と化した尼港には死臭が漂い、「いったん撤退するが再び来て日本人を征服し尽くす。覚悟せよ」との武装組織の声明書が残されていた。
「救援部隊来着近し」の報を受けた武装組織は、中国人の妻妾となっていた14名以外全員を虐殺したのである。

唯一生き残った彼女らの話では、犠牲者たちは、両目を抉り取る、5本の指をバラバラに切り落とされて刺殺される、
金歯があるものはあごから顔面を裂かれて抜き取られる、
女は裸にされ凌辱された上で、股を裂かれ、乳房や陰部を抉り取られるなどの方法で殺された。

獄舎の壁には血痕、毛のついた皮膚などがこびりついており、被害者の手によると思われる鉛筆書きで
「大正9年5月24日午後12時を忘れるな」と書かれていた。

以上が尼港事件の概略である。

 


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