タケ・タケ・エヴリバディ!

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昭和30年代の訪問魚屋の記憶

2023年04月25日 | 徒然なるままに

昨日の記事で「出雲崎の魚や”元”」について書きましたが、書きながらボクが小学校に上がる頃の昭和30年代の記憶が蘇りました。随分前に女房にこの話をしたとき、「え~?信じられない!」「何時代の話?」ってビックリされた記憶も思い出しました。

まずはこのエピソードを理解するために、わが家と海の位置関係を確認しておきましょう。わが家は昭和31年の市町村合併で三島郡から長岡市に合併した地域にあり、海のある出雲崎町の海岸線までは中永峠を経由して17kmほどあります。ボクは高校時代に夏休みの地学の野外学習で自転車で海まで行ったことがありますが、峠越えはけっこう大変だったのを覚えています。

さて、昭和30年代のボクの記憶、小学校に入学する頃の話です。わが家に年に何回か、出雲崎の魚屋さん(今考えると、漁師さんだったかもしれません)が魚を売りに来ることがありました。今で言う「魚の訪問販売」ですが、当時わが家に来る出雲崎の魚屋さんは、自転車でやって来ました。自転車の後ろの荷台には魚を入れる木箱が何段も積み重なっており、そこには氷詰めになった鮮魚が入っていました。と言っても当時は発泡スチロールではなく木箱なので、当然氷は溶けてきており「氷水(場合によっては水)に浸された生魚」の状態になっていました。

続いてのシーンが、ボクの記憶にある驚くべき光景です。女房に話したら「信じられない!」「縄文時代じゃないんだから!」と驚かれた場面です。その魚屋さん(たぶん漁師さん)から魚を受け取った祖母が、その代金をどうやって支払っていたと思います?なんと!台所の米びつの中から、升で量ったお米を魚屋さんに渡していたのです。そうです、魚の代金を米で支払う「The 物々交換」ですよ。江戸時代か?いや縄文時代か?

まぁ、海魚の捕れない山間部の住民(わが家)と、海岸部の米が手に入りにくい地域の住民が、互いの特産物を交換し合う「物々交換」っていうのは、人類の歴史の中で自然に発生した「経済的生活の基礎的行為」です。ですが人類はとっくに「貨幣」という便利なツールを発明して、文化的な生活を手に入れる術を知っていたわけです。それなのに、昭和40年に近いこの頃のボクの記憶に「物々交換」が残っているというのは、やっぱりスゴいことですよね。

このエピソードって、やっぱり孫たちの世代にも伝えておくべきかな?「どうしてスマホ決済しなかったの?」なんて言われるかもね。

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2 コメント

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貴重なお話ありがとうございました。 (りゅーと)
2023-04-26 09:07:23
 魚の代金を台所の米びつの中から、升で量ったお米を魚屋さんに渡していた…、う~ん、凄いですね~。
 ウチの実家では、となりの家がなんかくれると、代わりになんかお返し…ってパターンは結構ありましたけど、実体経済のお話ですからね~。

 自転車での峠越えけっこう大変だった…、プロの自転車選手は山岳ステージでは延々と激坂登って、下りでは100キロ近くでダウンロードしていきますけど、「人間離れしてるな~」って思っちゃいますね。(下りで抑えきれず落車して亡くなることもありますし)

 貴重なお話ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。
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よく考えたら… (八百政)
2023-04-27 06:31:32
>りゅーとさん
よく考えたら縄文時代は「米作りの前」の時代なので、本文中の引用は不適切でしたね。「弥生時代」とするべきでした。失敗、失敗。まぁ文脈は通じると思うので、本文はそのままにしておきます。
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