宗の本家のお墓は、1730年頃に当時の当主であった平安統惟次が建立したと伝えられていますが、それから230年後の昭和40年代の頃に現在のように作りかえられました。
1730年頃当時の墓石は今も現存していますが、当時のお墓の様子がどのようになっていたのかを知りたいと思っておりましたので、写真など残っていないのか島の本家の叔父に問い合わせてみましたが、その頃までは電気・水道も無く裸足の生活。カメラなんて高級品だったので写真は無いだろうとのことで諦めておりましたら、先日吉報がありました。
なんと、当時のお墓の写真が出てきたのだそうです。
いつ撮影されたのか、一緒に写っている男性が誰なのかは分からないのですが、これが230年前からあったお墓です。
そしてなんと、お墓の上に屋根がついているのです。周りには一族の墓石が他にもたくさんあったようですが、屋根がついているのはこの総本家である墓石だけのようです。
沖永良部島の当時のお墓が全てこのような作りになっていたのかは定かではありませんが、今は墓石の上に屋根が付いたお墓は見かけないそうです。
なぜ屋根付きなのか調べてみました。
鹿児島は桜島の火山灰が降るので、それを避けるために火山灰が降る地区ではこのように墓石の上に屋根をつけていて、それは現在でも同じでした。この鹿児島独特の風習を、火山灰が降らない沖永良部島に雨風をしのぐために応用したのか?そこは今となっては全くわからないのですが、何かこう風情があるお墓のように感じますね。
そして墓石ですが、これは大名墓のように見えますね。大名墓は当時は身分の高い家が作るお墓だったそうです。この墓が出来た当時は、島役人としては最高の与人職をしておりましたので、薩摩の管理が厳しかった時代にでも少し高級なお墓を建てることができたのかもしれません。
このお墓が、この屋根付きのまま現存していたら、ご先祖様についてまた別の何か情報を発見できたかもしれないなと思うと、少し残念な気がします。
そして、この屋根などもじっくり確認したかったですね。
この写真で確認できる範囲には、あの沖縄の微粒砂岩でできた謎の物体である石は見当たりません。いったいどこで使われていたのやら。
ちなみに、この写真は白黒でしたのでカラー化しております。一般家庭にカラー写真が普及したのは昭和40年代頃なので、それ以前に撮影された写真だと分かります。