非才無才の雄叫び

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「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽その5

2020-09-09 10:43:35 | 日記
藤井氏は大東亜共栄圏を「意義があります」と賛同しながら、
片や、戦前の大政翼賛会で積極的に軍部に加担した
朝日・毎日は、その当時から「反日」だと決めつけるのは、
明らかに論理矛盾だ。

このような論理の展開を平然とやるということは
読者いや国民を小馬鹿にしている、愚弄している証拠だ。

さて「第一章日米関係史ー両国は衝突する運命だったのか?」を
読んでみる。

「南北戦争勃発で生じた日米関係の空白」の中で
「ペリー提督には、その他に、チャイナ(当時の清朝)との交易を
開始するという目的がありました」
単に清朝と記述すればよいものを、わざわざ「チャイナ」
と呼ぶのはなぜだろう。
パラパラとページをめくって確認すると、中国をすべて
「チャイナ」表記している。
日本、韓国、チャイナだ。ここまで首尾一貫して「チャイナ」
と記述するということは、なにかあると疑わざるを得ない。
中国と呼びたくないということだろう。

つまり自国は世界の中心で回りはすべて野蛮な国という
中華思想に由来する「中国」名を認めたくないということ
ではないのか。

戦前までは中国のことを「支那」と言っていたようだが、
戦後もその呼び名は残っていて、小生も小学生の低学年の頃に、
中国人のことを「支那人」と呼んでいたような気がする。
大人たちから「支は支える、出先という意味で、邦は我が国の
ことだ。シナは日本の出先という意味だ」と大人たちから
教わった記憶がある。勿論、これは正しい教えではなかった
のだが、「東支那海」は「東シナ海」へと改められた。
ちなみに中国では東シナ海を「東海または東中国海」と
呼んでいる。

とにかく中華思想に由来する名称「中国」を中国と呼ばずに
「チャイナ」と呼び続ける藤井氏は、正に並みの保守主義者
ではない。

ところが、次の記述は固執した表現に綻びが見える。
曰く「アメリカ外交の側から日米の関係史を見ると
・・・・対関係を・・・」
藤井氏にとっては、日米中ではなく、日米チャイナ、対チャイナ
と表現するのが順当だと思うが、これでは文章的にチグハグ
ではないのか。滑稽の極みだ

読み進めて
「アメリカは、日本がチャイナの利権を独占するのが
許せなかった」

さすが大東亜共栄圏信奉者だ。いまどき中国大陸を「シナ大陸」
と仰る。おまけに、そのシナ大陸での日本の権益を、「すべて
合法的」と宣う。
ここには「侵略」のシの字も出てこない。

ところがweb辞書には
満州事変(まんしゅうじへん、旧字体:滿洲事變)は、1931年
(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の
柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件 (柳条
湖事件)に端を発し、関東軍による満州(中国東北部)全
土の占領を経て、1933年5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と
中華民国との間の武力紛争(事変)である。中国側の呼称は九一八
事変。 関東軍は約5か月で満州全土を占領した。
」とあり

戦後のGHQの調査などにより、本事件は河本大佐の後任の関東
軍高級参謀板垣征四郎大佐と、関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首
謀し、軍事行動の口火とするため自ら行った陰謀であったことが
判明している。奉天特務機関補佐官花谷正少佐、張学良軍事顧問
補佐官今田新太郎大尉らが爆破工作を指揮し、関東軍の虎石台独
立守備隊の河本末守中尉指揮の一小隊が爆破を実行した。

とある。
さらに
その後、関東軍主導の下に同地域は中華民国からの独立を宣
言し、1932年(昭和7年)3月1日の満洲国建国に至った。元首
(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅
溥儀が就いた。(いわゆる日本の傀儡政権の誕生)
満洲国は建国以降、日本、特に関東軍と南満州鉄道の強い影響下
にあり、「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置
付けられていた。
当時の国際連盟加盟国の多くは満洲地域は法的には中華民国の主
権下にあるべきとした。このことが1933年(昭和8年)に日本が
国際連盟から脱退する主要な原因となった。


その5年後、再び大事件が発生する。
盧溝橋事件は、1937年(昭和12年)7月7日に中華民国
北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命
軍第二十九軍との衝突事件である。この事件後に幾つかの和平
交渉が行われていたが、日中戦争(支那事変)の発端となった
とされる。


この記事の右端に画像があったので、よく見ると
「支那駐屯軍兵力配置図」があり、目を凝らすと天津の支那駐
屯軍司令部の駐屯地に国際連盟軍(イギリス、アメリカ、フラン
ス、イタリア)の兵士の数が約3000。北平(北京)の歩兵旅団司令
大隊駐屯地に同じく国際連盟軍の兵士約1000.。これらは監視団
だと思われる。この監視団で群を抜いて多いのがフランスで、
次にアメリカ、イギリス、イタリアと続く。

なぜ国際連盟の監視団が日本軍の駐屯地に、駐屯していたのか。
藤井氏のいう「日本が合法的に獲得した権益」ならば、このよ
うな事態にはなっていないはずだ。
また藤井氏はやたらアメリカとの対立構図を強調しているが、
余りにも意図的だ。ヨーロッパでドイツが戦争を起こしてから
イギリス、フランスは主力な戦力をヨーロッパに向けざるを
得なくなってから、アメリカの存在感が増したというのが自然
だろう。

さらに「支那駐屯軍兵力配置図」には、もう一つ興味をそそる
地図上の区分図があった。

冀東(きとう)防共自治政府 非武装地帯とある。webを調べてみると
日本の関東軍が中国の河北省 (冀) 東部につくった傀儡
(かいらい) 政権。
1935年 11月 25日冀東防共自治委員会が成立し,12月 25日
冀東防共自治政府と改称。管轄地域は塘沽 (タンクー) 停戦協定に
よる非戦区 18県を含む 22県で,人口は約 600万,首都は通州,
政務長官は殷汝耕で,五色旗を掲げた。日本品の密輸入を公認し,
36年輸入港4ヵ所を指定し低関税を実施した (冀東貿易) 。この
ような日本の露骨な収奪に対して抗日機運はますます高まり,
日中戦争開始直後,通州保安隊による日本人虐殺事件が発生。
通州事件後,首都は府山に移ったが,38年2月1日北京の中華民国
臨時政府に合流して解消した。


これらの記事を藤井氏は虚妄だと吐き捨てるに違いない。

なにせ大東亜共栄圏信奉者だから

ハル・ノートについては次回に割愛します。