非才無才の雄叫び

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「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽その9

2020-09-15 22:11:17 | 日記
先のブログは長々とweb記事を転記したので、読みづら
かったと思います。申し訳ありません

さて続けます。
藤井氏はフーヴァーが大統領として「バナナ戦争」に
関与したことを伏せておきながら、フーヴァーの言を
借りて「やる必要もない戦争をやり」とルーズベルト
を非難しています。
果たして、どうだったのか。

1937年10月のシカゴでのルーズベルトの「隔離演説」が
あるので、一部を抜粋してみます。

・・・・宣戦布告もなく、また如何なる警告も正当な理
由もなく、女性や児童を含む一般市民が、空からの爆弾で
容赦なく殺害されている。いわゆる平時にありながら、
船舶が理由も通告もなく潜水艦によって撃沈されている。
ある国々は、これまで彼らに害をなしたこともない国
々における内戦を煽動し、加担している


名指しこそしていませんが、1931年10月の日本軍による
中国・錦州市に対する無差別爆撃、1937年4月のドイツ軍と
イタリア軍によるスペインの都市ゲルニカに対する無差別
爆撃を指していると思われます。

ある国々は、己の自由を要求しておきながら、他国に
自由を与えることを拒否している。罪なき人々や国々は
残酷にも、正義感も人道的配慮も欠如した、力と覇権へ
の貪欲さの犠牲となっている


ある国々」とは、当時言われていた枢軸国(日本・ドイツ
イタリア)のことです。

そして
他国の権利と自由を尊重し、条約の尊厳を守り、国際的侵略
行為に終止符を打つという、基本的な必要性も喚起されねばな
らない。・・・・
世界的無法状態という疫病が広がりつつあるというのは、残念
ながら真実らしい。体の病の流行が広がり始めた場合、共同体
は病の蔓延から共同体の健全性を守るため、患者の隔離を承認
し、これに参加するのである・・・・


ルーズベルトは世界の平和と自由を求める国々のために、
日本・ドイツ・イタリアの枢軸国と闘わなければならないと
国民を諭している。

日本は柳条湖事件を発端とした満州事変を起こし、満州国の
独立を宣言して、日中戦争へと突き進みます。

日中戦争の発端となった盧溝橋事件をウィキペディアは
陸軍自身の調査でも「豊台ニ法的根拠ナシ」との結論が出さ
れており、法的根拠なしに臨時として部隊を置きこれを永駐化
する方針の元に駐兵が行われた。豊台駐兵は中国外交部の
反対にもかかわらず行われた上、中国軍兵営とも近く、
盧溝橋事件の遠因と指摘されてきた
」と報じている。

この部分のウィキペディアの記事は、下線や「要出典」等の
脚注もないことから、学者たちの合意が得られた部分でしょう。

そしてこの後、日本軍も中国・重慶で無差別爆撃を行う。
重慶爆撃は、日中戦争(支那事変)中の1938年12月18日から
1943年8月23日にかけて、日本軍により断続的に218回行われ
た重慶に対する戦略爆撃

日中戦争の最中、中国の国民党政権の臨時首都となっていた
重慶市にたいして、日本軍は、無差別爆撃をくり返し、多くの
人々を殺傷しました。(中国人民政治協商会議四川省重慶市委
員会文史資料研究会編『重慶抗戦紀事』によると、爆撃は19
38年2月~43年8月にかけて218回、被害は死傷者2万
6千人、焼失家屋1万7千戸。ほかに41年6月5日、防空壕
で数千人から1万人以上が窒息死したといわれる惨劇がある)


このような状況をルーズベルトは見過ごすことができなかった。
一国平和主義者のフーヴァーからすれば「やる必要のない戦争
をやり
」と記述しながら、日本に対する「宣戦布告」には賛成
するという自己矛盾は、どう処理したのだろうか。

その結果として、世界的に共産主義の進出を許し、アメリカの
中にも広めてしまった


ここでアメリカの共産主義政党についてのwebの記事を転載
して、反論の糧としたい。

1919年9月1日、モリス・ヒルキット率いるアメリカ社会党の
改良主義的な路線に反対して離党した左派党員により結成。
当初はアメリカ共産党とアメリカ共産労働党に分かれて出発した
が1921年5月に統合した。発足時点の党員のほぼ7割はアメリカ
国籍を持たない外国人、とりわけ東欧系ユダヤ人で占められて
いた
。穏健派の社会党がわずか4万人の規模だったのに対し、
結成から1ヶ月で共産党はアナーキストやその他の急進派も
含め6万人の党員を獲得した


つまりフーヴァーが大統領になる10年ほど前から、アメリカにも
共産党があったようだ。

ところがフーヴァーが大統領になった1929年に世界大恐慌。
1929年に大恐慌が米国を襲い、労働運動や社会改革運動が
再び台頭の兆しをみせるなかで、共産党は学生運動や労働運動、
公民権運動などに着手し、大衆運動に影響力を拡大しはじめる。
他方で1930年代にはスターリンのモスクワ裁判を支持するなどの
教条主義的、硬直的な態度は知識人や学生に幻滅をあたえ、後に
「ニューヨーク知識人」と呼ばれるようになった社会学者の
リチャード・ホフスタッターやダニエル・ベルらは離党し、
敵対していく


1932年全国産業復興法(NIRA)が議会を通過し、翌1933年には
ヒトラーがドイツで政権を掌握すると、それまで対立していた
アメリカ労働総同盟(AFL)に党員を大量に入党させるなど
他勢力との協調の道を探り始め、コミンテルンの人民戦線路線を
積極的に採用し、ニューディール・リベラルなどとの共同関係を
強めて反ファッショ運動の一翼を担う。そのなかでもとりわけ
有名なのは、スペイン共和国支援のための国際旅団「エイブラハム
・リンカーン大隊」である。リンカーン大隊は労働者を中心とする
義勇兵の部隊で、1938年に撤退するまで前線で戦い続けた


ほかならぬフーヴァー自身が、経済対策が間違っていたため、
アメリカの不況が深刻化していき、反面、労働運動や共産党の
活動が活発になっていったことは確かで、言い換えればフーヴ
ァー自身がアメリカ社会で共産党を広めたとも言える。

この回もwebの記事の長い転記になってしまい、
申し訳ありません。今回は、この辺で・・・・。