非才無才の雄叫び

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「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽その6

2020-09-11 08:11:22 | 日記
藤井氏は、第一章の終わりに「ハル・ノート」については
わずか4行程度記述しているだけだ。
アメリカはもう最後は、日本が受け入れられないのは承知
で無理難題を言ってきたのです。ハルノートが最後通牒だとか
、事実上の宣戦布告だといわれるのはそういうことです。
相手が呑めないことを言って追い詰めて、戦争しようという
のが、当時の大統領だったフランクリン・ルーズベルトの
腹だったのですね
」と、さらりと記述している。

ハルノートは、藤井氏の本の帯にも書いているように、日米の
軋轢を読み解くには、極めて重要なポイントのはず。
ハルノートから比べれば、「ハワイ王国」の話は蛇足だし、
その他は枝葉末節だ。

どのように日本が受け容れられないものだったか、また
どのように「無理難題」だったか、また誰が「最後通牒」と
か「宣戦布告」と言ったのか、言及すべきだろう。

このように、さらりと言い逃れてやり過ごしてしまうところ
は極めて恣意的である。

軍事行動をとる日本をすべて是とした藤井氏の論調は、
あまりにも一方的で、陳腐そのものだ。
過去の記録を照合すれば、ただちに瓦解する程度の論述で
笑止千万というしかない。

従ってここでは長い引用になるがweb記事を紹介しながら
感想を述べていく。

まず第一次世界大戦後の様子から見てみる。
webでは
第一次世界大戦後には、その講和原則であるウッドロウ・
ウィルソンの十四か条の平和原則に基づき、従来の勢力均衡
から、新たに集団安全保障という国際紛争や侵略に対し、国
際社会が集団で協調して対処を行うことにより、平和秩序を
構築する多国間主義体制へと転換する試みが行われ、国際平
和機構である国際連盟が設立された。また国際連盟規約では、
その16条において、軍事力の行使に至らない実際の平和構築
の強制手段として、違約国に対する集団的な経済制裁が
定められた。


「国際連盟」の設立は、列強が帝国主義的野望をむき出しに
した時代から、民主的、平和的な時代へと変遷していく過程
を示している。

1931年(昭和6年)9月18日の満洲事変の発生で、国際連盟は
中華民国の提訴と日本の提案により、日中間の紛争に対し介
入を開始し、リットン調査団を派遣した。リットン調査団の
報告を受けて、1933年(昭和8年)2月24日の国際連盟総会
では「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」が、賛成
42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ王国)、
投票不参加1国(チリ)で採択された。この結果を受けて、
中華民国は規約16条の経済制裁適用を要求したが、対日経済
制裁には必要不可欠なアメリカ合衆国は、国際連盟に対し制
裁に反対であることを、リットン調査団が派遣される以前の
1931年(昭和6年)11月11日の段階で、駐米英国大使が確認
しており、中華民国の要求は、他の代表の沈黙および討議打
ち切り宣言により黙殺された。


ところが
1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件が勃発し、日中間が
全面戦争に入ると、中国の提訴を受けた国際連盟総会では、
同年9月28日に中国の都市に対する(日本軍による)無差別爆撃
に対する、23ヶ国諮問委員会の対日非難決議案が全会一致で
可決された。
1938年(昭和13年)9月30日の理事会では、連盟全体による
集団的制裁ではないものの、加盟国の個別の判断による規約
第16条適用が可能なことが確認され、国際連盟加盟国による
対日経済制裁が開始された。


孤立主義の立場から、アメリカ合衆国議会での批准に失敗し、
国際連盟に加盟していなかったアメリカ合衆国は、満州事変
当初は、中国の提案による連盟の対日経済制裁に対し非協力
的であった。しかしその立場は不戦条約および九カ国条約の
原則に立つものであり、満州国の主権と独立を認めず、国際
連盟と同調するものであった。アメリカ合衆国の孤立主義的
な立場が変わるのは、フランクリン・ルーズベルトがアメリ
カ合衆国大統領になってからである。ルーズベルトは大統領
に就任してから1937年の隔離演説発表まで、表面上は日本に
協調的姿勢を見せ、日中国間の紛争には一定の距離を置く外
交政策を採っていた
。しかし、1937年7月に盧溝橋事件が
発生すると、対日経済制裁の可能性について考慮をし始め、
1937年10月5日に隔離演説を行い、孤立主義を超克し増長し
つつある枢軸諸国(日本・ドイツ・イタリア)への対処を訴えた

日本に対する経済的圧力については、アメリカ国内に依然と
して孤立主義の声もあり慎重であり、後述の通り長期的で段
階的なものであったが、(日本軍の)仏印進駐による
1941年(昭和16年)7月から8月にかけての対日資産凍結と
枢軸国全体に対する、石油の全面禁輸措置によって、
ABCD包囲網は完成に至る


以上のようにweb記事は冷静で公平に事実を伝えている。

そして、ウィキペディアは「ハル・ノート」について、日米の
交渉経過から結果までを詳細に記述している。

当該の記事は長大なものになっているので、冒頭だけを
紹介します。

1940年(昭和15年)頃の日米関係は、日本側の北部仏印(
現在のベトナム、ラオス・カンボジア)進駐、日独伊三国同盟
の締結、汪兆銘政権(日本軍の南京傀儡政権)の承認と、それらに
対抗した米国側の対日経済制裁(航空機用ガソリンや屑鉄の
禁輸など)により悪化の一途をたどっていた。重要資源のほと
んどをアメリカに依存する日本にとって対米関係の修復は急務
であり、またアメリカにとっては対英援助の本格化に伴い、
太平洋方面で日本との対立を避ける必要があった。
このような
状況下で、両国の関係改善を模索するため日米交渉が始まる
こととなった


藤井氏が信奉する大東亜共栄圏の理念の下に、帝国主義的野望
をむき出しにしてアジアを南進する日本に、米国は要望している。
「ハルノート」にはハル米国務長官の対日4原則が理念的な表現
ながら示されている。
この4原則のどこが「無理難題」なのだろうか?

1.すべての国の領土と主権尊重
2.他国への内政不干渉を原則とすること
3.通商上の機会均等を含む平等の原則を守ること
4.平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状維持


次回も「ハル・ノート」について、記述します。



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