非才無才の雄叫び

つぶやくこと、叫ぶこと、すべてボケ防止だ!

「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽36

2020-12-02 06:47:45 | 日記
「第3章 原爆を落とす必要があったのか!?」

丹念に読んできたが、予想通りの「荒唐無稽」の代物だった。
虚偽の記載あり、創作ありの小説まがいの書籍は、氏の「反東京裁
判史観」へ読者を誘導しようと、広く浅く、波のように繰り返す記
述が、読む者を辟易とさせた。反面、web記事を読む機会が多くな
り、むしろweb記事を読む楽しみが増えたことについては、藤井氏
に感謝すべきかもしれない。

記述が「浅い」というのは、熟知しているはずの藤井氏が「反東京
裁判史観」へ読者を誘導するために、歴史的な事象を取捨選択して
本来、読者が知るべき事柄を記述しない結果に他ならない。
たとえば「近衛上奏文」。
第3章の冒頭の「日本は終戦のために水面下で動いていた」の
「・・・近衛文麿元首相や岡田啓介らの重臣グループが和平運動を
展開していました。45年2月には、近衛は昭和天皇に対して「近衛
上奏文」を奏上しています。これは「天皇制維持のため、日本の
共産化を防ぐ」ために早期の停戦を訴えたものでした


「近衛上奏文」についてはこれで終わりなのかなと思って、先を
捲ってみると、7、8項目先に再度出てくるという始末。
「徹底抗戦を叫ぶ統制派は、社会主義革命を望んでいた」
「和平を訴える『近衛上奏文』のもう一つの危機感」

近衛が「上奏文」を奏上する動機については、通り一遍の記述を
している。近衛の述懐等の核心部分には、都合が悪いので触れて
いない。

先ず、近衛が小林海軍大将に語った内容の一部
要するに陸軍の赤に魅せられた連中は、政府や軍首脳部の指示を
無視し、無暗に戦線を拡大し英、米との衝突をも憚らず遂に大東亜
戦争にまで追い込んで仕舞った。
しかも其の目的は戦争遂行上の必
要に藉口し、我が国の国風、旧慣を破壊し、革新を具現せんとする
のである。此の一派の率いる陸軍に庶政を牛耳られては国家の前途
深憂に堪えない。・・・・
翻って所謂革新派の中核となってる陸軍の連中を調べて見ると、所
謂統制派に属する者が多く荒木、真崎等の皇道派の連中は手荒い所
はあるが所謂皇道派で国体の破壊等は考えて居らず又其の云う所が
終始一貫してる。之に反し統制派は目的の為に手段を選ばず、しか
も次々に後継者を養っている。速かに之を粛清しないと国家危うし
である


陸軍の赤に魅せられた連中は、政府や軍首脳部の指示を無視し、
無暗に戦線を拡大し英、米との衝突をも憚らず遂に大東亜戦争にま
で追い込んで仕舞った
」このような近衛と同じ認識が重臣グルー
プには、あったものと思われる。
ところが藤井氏は、これは「ルーズベルトの謀略」には気づかない
近衛たちの認識だと、言い逃れるだろうが、それだったら記述すべ
きだろう。しかし、近衛たちの認識はシナ事変まで遡るので、
ルーズベルトの謀略」などという論法は成立しえない。だから
藤井氏は、このことを無視して記述を続けている。

さて、話が逸れてしまったので、元へ戻そう。

その後、近衛は三田村武夫代議士の苛烈な批判に遭遇する。
同年4月、中野正剛と共に東條首相を批判していた三田村武夫代
議士が荻外荘を訪問し近衛と会談した。三田村は1928年(昭和3
年)6月から内務省警保局、拓務省管理局に勤務し、左翼運動の取
締に従事しながら国際共産主義運動の調査研究に没頭した後、衆議
院代議士となり、第七十六回帝国議会衆議院の国防保安法案委員会
(昭和16年2月3日)では、日本の上層部が戦時防諜体制の大きな抜
け穴になっていることを問題視して近衛首相を叱咤し、世間から危
険視されても国家の為に徹底的に、第三国の思想謀略、経済謀略、
外交謀略、政治謀略、中でも最も恐ろしい、無意識中に乃至は第三
者の謀略の線に踊らされた意識せざる諜報行為に対する警戒と取締
を強化するように政府(第二次近衛内閣)に要求していた。
荻外荘の近衛を訪問した三田村は、戦局と政局の諸問題について率
直な意見を述べ、「この戦争は必ず敗ける。そして敗戦の次に来る
ものは共産主義革命だ。日本をこんな状態に追い込んできた公爵の
責任は重大だ!」と近衛を詰問したところ、近衛は珍しくしみじみ
とした調子で、第一次第二次近衛内閣当時のことを回想し、「なに
もかも自分の考えていたことと逆な結果になってしまった。ことこ
こに至って静かに考えてみると、何者か眼に見えない力に操られて
いたような気がする-」と述懐した。
近衛文麿が小林躋造と三田村武夫に告白したこと及び三田村と警視
庁特高第一課長の秦重徳から聴取したことと同じ趣旨の警告と反省
が昭和20年2月14日には近衛から昭和天皇に上奏されたのである

以上が「上奏文」奏上の直接的な動機だ。

ところが、その後、近衛の交友関係を中心に、「上奏文」とは真逆
の実態が明らかになっていく。

三田村は、近衛上奏文を「近衛が自分の経験と反省を述べ、自
分が革命主義者のロボットとして躍らされたのだと告白するもの」
と評し、敗戦後に長年にわたる自分の調査研究と政治経験、そして
自分が入手した企画院事件、近衛文麿のブレーントラスト昭和研究
会に結集していた企画院革新官僚および朝日新聞社出身のソ連ス
パイ尾崎秀実や三木清ら共産主義者の戦時中の好戦的な言動と思
想、ゾルゲ事件、ソ連およびコミンテルンの世界戦略に関する多
数の証拠資料に依拠
して、近衛上奏文に該当する具体的事実を
解剖し、近衛内閣の軍事外交内政政策の背後にソ連の対日諜報謀
略活動があったことを指摘した」


ゾルゲ事件
1942年(昭和17年)11月18日、近衞は予審判事・中村光三か
ら僅かな形式的訊問を受け、「記憶しません」を連発し尾崎との
親密な関係を隠蔽したが、元アメリカ共産党員の宮城与徳は検事
訊問(1942年3月17日)に対して、「近衛首相は防共連盟の顧問
であるから反ソ的な人だと思って居たところ、支那問題解決の為
寧ろソ連と手を握ってもよいと考える程ソ連的であることが判り
ました
」と証言した。国家総動員法や大政翼賛会による立憲自
由主義議会制デモクラシー破壊に猛反対した鳩山一郎は、これよ
り前に日記(昭和十五年十一月一日の条)に、「近衛時代に於
ける政府の施設凡てコミンテルンのテーゼに基く
。寔に怖るべ
し。一身を犠牲にして御奉公すべき時期の近づくを痛感す」と
書いていた


以前にも書いたように、近衛は、言うことは立派だったが、やるこ
とは反対のことをやったり、優柔不断だったりと、一貫していなか
ったようだ。

7月7日に盧溝橋事件をきっかけに日中戦争(支那事変)が勃発し
た。7月9日に不拡大方針を閣議で確認した。杉山元は支那駐屯軍
司令官・香月清司に対し「盧溝橋事件ニ就テハ、極力不拡大方針
ノ下ニ現地解決ヲ計ラレタシ
」との命令を与え、今井武夫らの
奔走により7月11日に現地の松井太久郎大佐(北平特務機関長)と
秦徳純(第二十九軍副軍長)との間で停戦協定が締結された。しか
し近衞は・・・「北支派兵声明」を発表する。派兵決定とその公表
は進行中の現地における停戦努力を無視する行動であり、その後の
現地交渉を困難なものとした。秦郁彦は、「近衛内閣が自発的に
展開したパフォーマンスは、国民の戦争熱を煽る華々しい宣伝攻勢
と見られてもしかたのないものであった」としている」


その後の特別議会で近衞は「事件不拡大」を唱え続けた。しかし
7月17日には1,000万円余の予備費支出を閣議決定。7月26日に
は、陸軍が要求していないにもかかわらず、9,700万円余の第一次
北支事変費予算案を閣議決定し、7月31日には4億円超の第二次北
支事変費予算を追加するなど、不拡大とは反対の方向に指導した

陸軍参謀本部作戦部長の石原莞爾は風見章を通じて、日中首脳会
談を近衞に提案したが、広田弘毅が熱意を示さず、最後のところ
で決断できなかった。この状況を憂慮した石原は7月18日に杉山
元に意見具申し、「このまま日中戦争に突入すれば、その結果は
あたかもスペイン戦争でのナポレオン同様、底無し沼にはまるこ
とになる。この際、思いきって北支にある日本軍全体を一挙に山
海関の満支国境まで引き下げる。近衛首相が自ら南京に飛び蔣介
石と膝詰めで談判する」という提案をした。同席した陸軍次官・
梅津美治郎は、「そうしたいが、近衛首相の自信は確かめてある
のか」と聞き、杉山も「近衛首相にはその気迫はあるまい」と述
べた。実際、風見によれば、近衞は陸軍が和平で一本化するかど
うか自信がなく、せっかくの首脳会談構想を断念したと言われて
いる。当初、近衞は首脳会談に大変乗り気になり、南京行きを決
意して飛行機まで手配したが、直前になり心変わりし蔣介石との
首脳会談を取り消した。石原は激怒し「二千年にも及ぶ皇恩を辱
うして、この危機に優柔不断では、日本を滅ぼす者は近衛である

と叫んだ。

陸軍の赤に魅せられた連中は、政府や軍首脳部の指示を無視し、
無暗に戦線を拡大し英、米との衝突をも憚らず遂に大東亜戦争にま
で追い込んで仕舞った
」と陸軍統制派を非難しながら、近衛は自
らが陸軍統制派に手を貸していたことは念頭になかった。

これらのことから日本が軍部を抑えきれず、戦線を拡大していっ
たことは明白だ。

次回に割愛します。

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