曲学阿世の徒とは、こういう輩(やから)を言うのだろう。これほど露骨な例を見せられると、呆れをこえて滑稽の極み、アハハと笑いがこみあげてくる。私が聞いたのは、こんなニュースだった。
「中国で新型コロナウイルスの脅威を訴えてきた専門家が、感染の主流となっているオミクロン株について、一転して『怖いものではなく『新型コロナかぜ』と呼ぶべきものだ』と強調しました。政府が感染対策の緩和に踏み切ったことにあわせて、専門家が見解まで変えたとして批判の声も上がっています。」
(NHK NEWS WEB 12月16日配信)
本ブログでも紹介したように、中国・習近平政権はゼロコロナ政策を押し進め、コロナ感染者が出た地区をロックダウンするなど、厳しい行動規制を住民に課して、徹底的に人民の自由を奪ってきた。
厳しい規制の根拠になったのは、「コロナは怖い。徹底的に抑え込んで、根絶やしにしなければならない」という認識であり、この認識は専門家の見解に支えられていた。専門家は、習政権の厳しい行動規制策を正当化すべく、「コロナは怖い」と言いふらしたのだ。
問題は、その後の展開である。政府による自由の剥奪に業を煮やした人民が「自由をよこせ!」、「共産党は退陣しろ!」、「習近平は退陣しろ!」と激しい抗議のデモを繰り広げるのを目の当たりにした習政権は、結局、行動規制の緩和に踏み切り、人民の自由を認めるに至った。
規制を緩和した習政権の措置に対して、「そんなことをしても、大丈夫なのか」と危ぶむ声が上がったとき、「コロナは怖くない」と変節した専門家の言説は、たしかに、政権の措置を是認する効果を持つと言うことができる。規制の緩和によってコロナの感染拡大が起こったとしても、そんなことは恐れるに足りず、大したことではないということになるからである。「コロナは怖くない」と一転した専門家の見解は、習政権に阿(おもね)ろうとする意図から出ていたと言うことができる。
だが、ホントにそうだろうか。曲学阿世の徒のこうした言説は、却って贔屓(ひいき)の引き倒しになるのではないか。むしろ習政権の威信の低下を招き入れてしまうのはないか。
ここまでを視野に入れて考えれば、専門家の曲学阿世ぶりはたしかに滑稽の極みだと言えるだろう。
どういうことか。
(つづく)
「中国で新型コロナウイルスの脅威を訴えてきた専門家が、感染の主流となっているオミクロン株について、一転して『怖いものではなく『新型コロナかぜ』と呼ぶべきものだ』と強調しました。政府が感染対策の緩和に踏み切ったことにあわせて、専門家が見解まで変えたとして批判の声も上がっています。」
(NHK NEWS WEB 12月16日配信)
本ブログでも紹介したように、中国・習近平政権はゼロコロナ政策を押し進め、コロナ感染者が出た地区をロックダウンするなど、厳しい行動規制を住民に課して、徹底的に人民の自由を奪ってきた。
厳しい規制の根拠になったのは、「コロナは怖い。徹底的に抑え込んで、根絶やしにしなければならない」という認識であり、この認識は専門家の見解に支えられていた。専門家は、習政権の厳しい行動規制策を正当化すべく、「コロナは怖い」と言いふらしたのだ。
問題は、その後の展開である。政府による自由の剥奪に業を煮やした人民が「自由をよこせ!」、「共産党は退陣しろ!」、「習近平は退陣しろ!」と激しい抗議のデモを繰り広げるのを目の当たりにした習政権は、結局、行動規制の緩和に踏み切り、人民の自由を認めるに至った。
規制を緩和した習政権の措置に対して、「そんなことをしても、大丈夫なのか」と危ぶむ声が上がったとき、「コロナは怖くない」と変節した専門家の言説は、たしかに、政権の措置を是認する効果を持つと言うことができる。規制の緩和によってコロナの感染拡大が起こったとしても、そんなことは恐れるに足りず、大したことではないということになるからである。「コロナは怖くない」と一転した専門家の見解は、習政権に阿(おもね)ろうとする意図から出ていたと言うことができる。
だが、ホントにそうだろうか。曲学阿世の徒のこうした言説は、却って贔屓(ひいき)の引き倒しになるのではないか。むしろ習政権の威信の低下を招き入れてしまうのはないか。
ここまでを視野に入れて考えれば、専門家の曲学阿世ぶりはたしかに滑稽の極みだと言えるだろう。
どういうことか。
(つづく)