筑紫文化財研究所

筑紫における歴史的文化の探求と漫遊

笹野才蔵7 (笹野才蔵と千代鶴国安)

2021-07-04 12:42:17 | 山笠

17番ソラリア山笠 「猛将才蔵退去病」の笹野才蔵(左下は福島正則)

笹野才蔵は槍の名手とされ、『関ケ原合戦絵巻』には
薙刀を得物として描かれており、刀はあまり注目されていません。

現在、櫛田神社にある博多歴史館で展示されている才蔵の刀は、
鞘に「千代鶴」と書かれ、『石城志』では無銘とされています。
神社の記録によれば越前の刀工「千代鶴国安」の作とされています。
国安は元は京都の刀工来国安の門人(子?)で、
戦国期に越前朝倉家の元で作刀しており、
熱田神宮所蔵の朝倉氏の家臣真柄隆基の大太刀(全長244.6cm、刃長166.6cmの長大な刀)
「次郎太刀」を造ったことで知られています(諸説あり)。
可児才蔵が朝倉義景の落胤であるという伝承があることから、
才蔵所有の刀が越前刀であることはとても興味深い記録です。
刀は『石城志』などには元本州出身で黒田藩士の星野介右衛門所有で、
星野の先祖が才蔵の娘婿であったと記されています。
星野家がこの刀を福岡に将来したことが、「笹野才蔵」信仰が博多で始まった所以のようです。
その後この刀は星野家から博多の赤間屋源右衛門に渡り、
櫛田神社の神庫に江戸中期までに赤間屋から奉納され、疱瘡除けの刀として信仰されて来ました。
現在まで神社で刃の研ぎ直しを施すなど、大切に伝承されて来たものです。


笹野才蔵6 (笹野才蔵と櫛田神社)

2021-07-04 12:10:17 | 山笠
「笹野才蔵」信仰の分布は福岡市博物館のいう
江戸期の「博多写し」文化圏と重なります。
このことから信仰の発信元は博多のようです。
信仰の始まりをうかがい知ることのできる逸話が
博多市小路の医師が書いた地誌『石城志』(1765 年)に記されています。


『石城志』巻之八付録 千代鶴刀

ここには「笹野才蔵」が疱瘡にかかった親戚の子どもの看病をしていたある夜、
異形のものの気配を愛用の刀で斬りはらったところ、それが疫病の邪気で、
その後は子どもの病が快癒したことから、疫病にかかった際には
この刀を拝して頂く習慣が博多で広がり、刀が櫛田神社に奉納された後
も疫病が流行すると、神社から度々この刀が貸し出され、人々は争ってこの刀を拝した
と書かれています。
『石城志』が書かれた 1765 年頃はまだお札や人形のことは書かれておらず、
広く民衆に才蔵信仰が広がっている段階ではありません。
このことから「笹野才蔵」信仰の発信地は櫛田神社で
その信仰の根源は才蔵の刀「千代鶴刀」(千代鶴国安作)であったと考えられます。
山笠行事が疫病退散を祈願する行事であることから、
神社にとっては才蔵の刀を伝承することは重要なことであったと考えられます。
現在、櫛田神社境内にある歴史館ではちょうどこの刀を展示中です。


17番ソラリア山笠周りの解説版

笹野才蔵5 (笹野才蔵とささら三八)

2021-07-04 11:36:38 | 山笠

ささら三八(古今勇人伝)

「笹野才蔵」とほぼ同じ疫病(天然痘、疱瘡)を祓うヒーローに「ささら三八(佐々良三八ほか)」がいます。
福岡周辺では壱岐や豊前地域では明治期から戦前頃まで
家の玄関口に「ささら三八」のお札を貼って疫病除けを願う習慣があったそうです。
「ささら三八」信仰は全国的なものであったっようです。

佐々良三八郎のお札_長野市立博物館

「ささら三八」信仰には一つのストーリーが付随します。

佐々良三八は戦国の武士で名護屋九右衛門の家来の一人で
福岡に赴いた時、犬に囲まれて困っている男を助けたら助けた男が
疱瘡神(天然痘や水疱瘡の神様)で、犬(犬は式神か?筆者註)から助けて下さったお礼に
あなたの家には二度と出入りしませんといった事から
各地で「佐々良三八の宿」や「三八の家」と紙や木に彫り吊り下げるんだと云う

典拠;疱瘡神と簓三八(ささらさんぱち)の宿
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3821.html

福岡がその舞台であることが面白いところです。
古代の天然痘は大宰府から大流行しました。
そのことと関わるのでしょうか?
肝心なところはそこではありません。
このストーリーは「蘇民将来」譚の本歌取であることが重要です。

蘇民将来
旅の途中で宿を乞うた武塔神を裕福な弟の巨旦将来は断り、
貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなした。
後に再訪した武塔神は、蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、蘇民の娘を除いて皆殺しにして滅ぼした。
武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、
以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。
除災のため、住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼っている家も少なくない。
(原文;「備後国風土記」和銅6年(713)の逸文)

典拠;wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%B0%91%E5%B0%86%E6%9D%A5


京都祇園祭の最も最後に行われる行事が境内にある疫神社の「蘇民将来命」への祭祀です。
祇園祭の本質は都市を脅かす疫病などの厄禍を祓う御霊会であり
「茅の輪くぐり」や「ちまき」、「蘇民将来守り」の頒布などは
その効力を個々人に分け与える行為としておこなわれています。

「笹野才蔵」や「ささら三八」が疫病除けキャラクターとしてプロモートされ、
お札や土人形が大流行して地方に広がったものと考えられます。



笹野才蔵4 (笹野才蔵は笹野権三郎)

2021-07-03 09:41:41 | 山笠

17番ソラリア山笠の笹野才蔵


『笹野権三郎名槍伝』の笹野権三郎


大橋重雄作の笹野才蔵の人形

かの戦国の猛者「可児才蔵」が博多では、美男の若侍「笹野才蔵」として知られています。
これは近松門左衛門の浄瑠璃「鑓の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)」に登場する
「笹野権三郎」が講談でも大流行し、才蔵の図像を考案したお札の図案の製作者か
博多人形師が「可児才蔵」とは全くの別人「笹野権三郎」の人気にあやかった結果、
「笹野才蔵」が若侍姿となったと言われています。

【笹野権三郎】
宝蔵院流の槍術家。名は義胤。紀州藩士、のち、筑後柳川藩士(三百石)。
父の仇討と美男とで知られ、槍の権三とうたわれた。
寛永~慶安(1624‐1652)頃の人(コトバンクより)
【参考】 昭和10年 須田元一郎「九州北部の伝説玩具」『旅人伝説』8巻8号通巻92号

笹野才蔵3 (笹野才蔵は可児才蔵)

2021-07-03 09:20:28 | 山笠

17番ソラリア山笠の可児才蔵


広島県東区にある才蔵寺の屋根裏から発見された才蔵の甲冑と三又槍
(「戦国最強の武将と呼ばれた男~槍の才蔵~可児才蔵展」2020御嵩町中山道みたけ館より)



可児才蔵は関ケ原合戦後は福島正則家に従い広島に入り
才蔵寺を開いたとされ、ここに彼の墓所があります。
この地に慶長18年、60歳で没したとされています。
ソラリアのヤマに登場した才蔵の兜はこの才蔵寺の
屋根裏で発見された彼の具足をモデルとし、得物の三又槍は
この寺に伝わる才蔵の槍を写したものです。
山の最上部に掲げられた旗には違い笹羽の才蔵の家紋が使われています。