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【1995年】明けまして『映像の世紀』ぶっつづけ放送、10集~11週【一部閲覧注意】

2016-03-21 22:00:34 | テレビ

『映像の世紀』デジタルリマスター版元旦一挙放送まとめ。
第10集『民族の悲劇果てしなく』、第11集(最終)『JAPAN』




※閲覧ご注意ください。

(政治的な意図とかはまったくなく、純粋に一視聴者の「わああ」とか「ひええ」です)




「新・映像の世紀」シリーズ

『新・映像の世紀』第6集、「映像に託された意味」が問われる「新しい映像の世紀」
『新・映像の世紀』第5集、連鎖するエネルギー、色を持った世界。
『新・映像の世紀』第4集、未公開映像で明らかになる秘密と嘘。
『新・映像の世紀』第3集、ヒトラーが描いた世界と未来 【一部閲覧注意】
『新・映像の世紀』第2集 ロックフェラーもヘレンケラーもエジソンも、みんな『人間』だった。
『新・映像の世紀』第1集、1995年の映像と2015年の映像【一部閲覧注意】

1995年版、「(旧)映像の世紀」シリーズ

【1995年】明けまして『映像の世紀』ぶっつづけ放送、1集~5集【一部閲覧注意】
【1995年】明けまして『映像の世紀』ぶっつづけ放送、6集~8集【一部閲覧注意】


『真田丸』『精霊の守り人』『ちかえもん』『映像の世紀』他、大河、Nスペ、BSプレミアムのまとめ。
少々真面目で結構ゲスいテレビっ子の備忘録まとめ<NHK系>(2015.12.13)

朝ドラ「あさが来た」「ゲゲゲの女房総集編」「あまちゃん」こちら。
朝ドラ感想記事のまとめ

『ダメな私に恋してください』『新釣りバカ日誌』など民放ドラマ、映画などなどのまとめ
テレビっ子の備忘録まとめ。<民放系>


10集、民族の悲劇果てしなく


絶え間ない戦火、さまよう民の慟哭。
とてもざっくりいうと、難民の歴史です。

 

1918年11月11日、第一次世界大戦終結。
この大戦によってヨーロッパ各地に君臨していた王朝が崩壊しました。

映像に初めて登場するのは、第一次世界大戦末期、オスマントルコ帝国から追われたアルメニア難民
そのトルコ領へ進駐するイギリス軍の思惑は、バクー油田の利権を手に入れる事でした。

 

そのころロシアではレーニン率いる共産党政権が生まれる頃。
それによって生まれたロシア難民を追い詰める記録的大寒波、その寒さと飢餓。
3000万人に及ぶロシア人が餓死の危機に直面する。



難民救済を国際舞台で訴えるフリチョフ・ナンセン・
ノルウェーの極地探検家であり、初代難民高等弁務官。
「難民の父」とされています。

 

「何もしないで黙って観ていることが果たして許されるのでしょうか」

 

しかし欧米諸国は、ロシアへの経済援助が共産党政権に流れることを懸念。
積極的な援助に乗り出すことはなかったという。

革命からわずか5年。
飢えと寒さで命を落としたロシア難民はおよそ900万人にのぼるとされています。


 

ヨーロッパの覇権を握ろうとした独裁者・アドルフヒトラー。
第一次世界大戦後に誕生したポーランドへ侵攻。
地図に誕生してから20年余りで姿を消すことに。
そして生まれたポーランド難民

 

スターリン、巨大な多民族国家・ソビエト連邦。
1939年、スターリンはポーランドのウクライナ人開放を掲げてポーランド東部を占領。
共産化を推し進める中で、スターリンに背く人々は次々と強制収容所へ送られました。

 

そしてユダヤ難民
ポーランドを追われた300万人のユダヤ人。
ヒトラーにとってもっとも排除すべき民族だったユダヤ人。

 

27万人のユダヤ人が、アルプスを越え、海を渡り向かったパレスチナ。
1920年代から、パレスチナはイギリスの統治下にありました。
それでも民族は共存していて、ユダヤ人の結婚式はアラブ式に執り行われ、アラブ人もまたそれを祝っていた。



 

第一次世界大戦後、民族の平等と融和を掲げて誕生したユーゴスラビア
しかしその大多数を占めていたセルビア人とクロアチア人は宗教も文化も大きく異なっていた。

セルビア人により徐々に独裁色を強めるユーゴスラビア。
1934年、セルビア人国王・アレキサンドル一世が暗殺されます。

その後、反セルビア勢力が台頭。
1941年、パバリッチ将軍のもとクロアチアが独立を宣言。
セルビア人はヤセノバツ強制収容所へ送られることに。

 



あるクロアチア人神父の言葉。
「私は老人からこども、そしてセルビア人が育てた家畜に至るまできれいに片付けるつもりだ」
「私が神父の恰好をしているからと言って、機関銃を乱射しないと思ったら大間違いだ」
「私はクロアチアに反するものはなんでも殺してやる」


 

ヤセノバツ強制収容所(モデルはナチスドイツの絶滅収容所とされている)の詳細が公開されたのは1991年。(旧映像は1996年)
セルビア側は70万人が虐殺されたとするも、クロアチアは「それは誇張しすぎだ」と今でも争っているという。



 

 

世界は地獄を見た。 <→第5集
その先にあったのは、祖国に帰る人々、祖国を追われる人々。

朝鮮半島から引き揚げる日本兵。
インド分離独立で生まれた難民は1500万人。
大戦後、ドイツへ帰る人々。
東部戦線から引き揚げるソ連兵。
西側へ移動するポーランド難民。


 

戦後明かされるアウシュビッツの衝撃は凄まじいものだった。
600万人のユダヤ人虐殺。
世界がそれを知った時にはもう遅かった。

そこから歩み始めるユダヤ人の国家創設。

 

アルプスを越えてパレスチナへ。

その船は60隻以上。
ユダヤ人はイギリスに対し10万人の移住許可を求めるも、アラブ人はこれに強く反発。
ユダヤ難民を乗せた船は入港することがかなわず、海に、そして再びヨーロッパへ送りかえされる。


 
拿捕された難民船の中で、必死に生きようとする乳飲み子の姿が印象的でした。

パレスチナ各地でユダヤ人とアラブ人の衝突が頻発。
アラブ人指導者はユダヤ人の移住を阻止するためには武力で対抗することも辞さないと警告。
1947年、ついにイギリスはパレスチナ問題の調停を放棄。
最後の総督がパレスチナを去り、30年にわたるイギリスの統治が終わる。

 

そして翌1948年、イスラエル建国、第一次中東戦争がはじまる。

戦争って、終わらない。

 

第一次中東戦争はイスラエル側の勝利。
アラブ人はパレスチナを追放され、パレスチナ難民となる。

「我々はただ戦争を避けるために一時的に逃げたのです。だから着の身着のままでした。
誰もが2~3日もすればまた村に帰れると思っていました。しかし我々は二度と自分のうちには帰れませんでした」


この言葉で思い出すのは福島原発事故で避難されている方々。
もちろん状況は大きく違うのだけれど、「すぐ帰れると思っていた。でももう帰れないなんて」と。



 

1949年、スターリン死去。
ソ連共産党の一党独裁体制からの脱却を目指したハンガリー市民が、西側、オーストリアを目指す。
20万人のハンガリー難民が国境を越えた。




長引くベトナム戦争。<→第8集
1970年、米軍はカンボジア領内にベトナム軍が進駐していることを理由に軍を送りこんだ。



泥沼化していくベトナム戦争。
アメリカ軍は撤退を余儀なくされ、ダナンから最後のチャーター便が発とうとする。
そのタラップにしがみつくベトナム難民80万人。
(当時南ベトナムでは「北が来ると皆殺しにされる」とされていた)

 

引き裂かれる家族。
それがベトナム戦争の答えの一つ。





シアヌークにとってかわり、カンボジアを試合していたクメールルージュ、ポル・ポト政治の実態。

 

ユーゴスラビアのカメラマンが撮ったのは無人のプノンペンの映像。


全てのカンボジア人は、荒れ果てた国土の復興作業のため郊外へ移住させられていた。
そこでは子どもたちも兵士だった。
全ての子どもたちが親から引き離され、国家の管理の下で集団労働を強いられていた。


 

ポルポトが子どもたちに掲げたスローガン。

「我々は独自の世界を建設している。新しい理想郷を建設するのである。
従って伝統的な形をとる学校も病院もいらない。貨幣もいらない。

たとえ親であっても社会の毒と思えば微笑んで殺せ。
今住んでいるのは新しい故郷なのである。我々はこれより過去を切り捨てる。
泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。
笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ」




そして1978年、ベトナム軍がカンボジアに侵攻。
ベトナム側には中国、カンボジア側にはソ連がつき、中ソ関係の悪化が反映されたインドシナ半島。

そのベトナム軍により発表された衝撃の事実。

 

250万人の大虐殺。
カンボジア人の3人に1人が虐殺された。
ポル・ポトに背いた人全てが虐殺された。

 

政権を追われたポル・ポトはゲリラ化しカンボジア北部へ。
内戦からのがれるため、北部タイ国境をめざすカンボジア難民
しかしその行く先にはゲリラ軍がいる。

どこまでも、終わらない。

 

「難民キャンプで生まれ育った子どもたちには、祖国もなければふるさともありません。
祖国カンボジアがどんな国で、自分がカンボジアんであるという自覚すらないのです」




「インドシナに生まれ育ちながら木になっているマンゴーを見たこともなければ、稲の植えつけ方も知らない。
おじいちゃんやおばあちゃんがいたということも知らない。
キャンプで育った子供たちが知っていることと言えば、戦いに行くことだけです。
それが彼らが選ぶことができる唯一の道なのです」




 

1989年、冷戦が終結
ベルリンの壁の崩壊とともに、国境を越えていく東欧難民

 

1991年、ソビエト連邦崩壊は旧ユーゴスラビアの内戦を呼び覚ます。

 

戦争の様子はテレビで中継される。
歌手が、歌で、民族意識を高揚させる。



民族の対立は、生まれてくる命にも暗い影を落とす。

「私のお腹の中には私をレイプした兵士の子どもが宿っています。
民族浄化という名のもとに、彼らは私を力づくで破壊したのです。
この赤ん坊は一体誰の子なんでしょう。私には今養う自信はありません


この赤ん坊を生かすべきかそれとも殺すべきか…」


 

戦禍の犠牲者・難民。
1996年、地球上の難民は3000万人にのぼる。



2014年、難民の数は約6000万人UNHCRより)

2015年、日本の法務省に申請した難民の数は約7500人
その中で認定された難民の数は27人。(2016年1月23日付)




ケタが違う。



11集、JAPAN


 

やっとここまできた、最終集です。
ここまでの映像を、今度は『日本』という切り口でみる集になります。

明治期の日本の映像が登場します。

 
1897年、明治30年、市川左団次。
1901年、明治34年、新橋駅。

『あさが来た』でもあさやうめが歩いていた新橋駅。

 

明治時代の大相撲。
古い時代の遺物との考えもありましたが、今でも相撲人気は続いています。。

20代横綱、梅ヶ谷。
19代横綱、常陸山。


そんな日本をみた外国人の言葉も残っています。



のちの小泉八雲である、ラフカディオハーンは『知られざる日本の面影』に記しました。

何もかもが言いようもなく愉快で目新しくてたまらない。
はるか極東のこの国に自分は今いるのだ。
人力車というやつに乗っている私の目の前では、車屋のかぶっている笠がヒョコヒョコと音を立てて踊りながら駆けていく。
青い屋根を乗せた小さな家並み、青いのれん、青い着物を着て始終にこついている小さな人たち。
私をさも物見高そうに眺めていくその目には敵意など少しもない。
大抵にこやかに微笑んでいる。



ラフカデイオハーンが見たのは青色だったんですね。

 

カナダ人は、200年余り鎖国を続けた日本が急速に西洋化したことに驚きました。

僅か30年前、この人々はまだ若い武士で異様な鎧兜であった。
そして家にはじっと座って待つしとやかな妻がいた。
しかし今日では夫は商店や会社や工場で、15ペンスの賃金のために10時間も働いている。
妻の中にさえ忙しく工場で働いているものもいる。
僅か30年ばかりの間の素早い変わりようは、まさに奇跡である。
考えれば考えるほど、この奇跡が偉大なもののように思えてくる。




白黒フィルムに手作業で着色したフランスのカラー作品。
日本映画の専門チャンネルです。

そして20世紀、日露戦争が勃発します。

 

日露戦争をきっかけに世界に台頭する日本。
陸軍大将乃木希典は、大国ロシアを破った名将として世界に名を知られました。

この日本の勝利について、各国では…

粘り強さ、機転、素晴らしい勇気、厳しい状況への知的な対応。
今世界中が興奮している。
日本人は誇り高い西洋人と並び立つ列強であることを世界に示したのだ。
(英国、タイムズ紙)



日本の勝利は私を熱狂させた。
私は新しいニュースを見るため新聞を待ち焦がれた。
どれほど感激したことか。
アジア人によるアジアという声が湧き上がったのである。
(のちのインド初代首相、ネルー)


 

 
世界に人類の運命を決っする大きな危機が近づいている。
日本そのものが危険なわけではない。
統一されたアジアのリーダーに日本がなることが危険なのである。
日本による中国の統一、それが世界に脅威を与える最も不吉なことである。
(ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世)




日本に寄せられる不安と期待。
その映像に映る人たちはみな生き生きとしています。
それは私たちの世代の祖父母や総祖父母くらい。
「近づいたな」、それが率直な感想です。



 

そして大正時代。

日本は国際連盟の常任理事国として、五大国のひとつに数えられるまでになっていました。





大正4年、パナマ太平洋万博
日本のキャッチフレーズは「美しい日本」
どこかで聞いたことがあるこのキャッチフレーズ。



皇太子の訪英は世界から高く評価されました。
「なぜなら日本が明治泊まる前の鎖国政策を完全に捨て去ったと考えられるからだ」
「新しい時代を開いた明治天皇の教えを皇太子は忠実に実行しているのである」


 

1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒、関東大震災。
それは映像として世界に伝えられました。

「このような大震災に対して、東京が秩序正しく整然としていることは実に驚く頃ばかりです。」
「親を失い子に別れ、兄弟が行方不明になった数十万の人々がどこへ行っても涙ひとつ浮かべずに、着々と後始末に取り掛かっています」


どこかで聞いたことのある。
あれだ、東日本大震災の海外メディアの報道だ。




そして昭和。
昭和天皇即位の式典が初のラジオ実況放送。
実況さんかみそう。

 

映像と音声で残される庶民。
朝ドラの世界にも出てきそうなワンシーン。



『ラストエンペラー』の残した言葉。

「日本公使館に住むようになってから、私は何度も深夜に自転車で紫禁城のほとりまで行った。
城壁の輪郭を見つめながら離れて間もない宮殿を思い、思わず胸が熱くなった。
私の目には涙があふれ、心の中で固く誓った。
いつの日か、必ず君主としてここにもう一度戻ってくるのだと。
ツァイチェン、また会おうと低く呟いて自転車に飛び降り飛ぶように駆けた。」




満州事変、リットン調査団。
教科書によく出てくるけど、本当に調査団だ。

「我々調査団は日本側から『満州は日本の生命線である』と繰り返し言われてきた。」
「しかし日本の外相に言いたいのは、世界がもっと大きな犠牲を払い守り続けてきた秩序があるということだ。」
「国際連盟によってつくられたこの秩序こそ、現代文明における生命線なのである」


 

このころの国内は、というと。
リンドバーグ、チャップリン、ベーブルース、ヘレンケラー……
世界的スター(?)の来日に沸いていました。




軍政下におかれたインドネシアで、高まる反日感情。
ここで行われたのが日本語教育。

圧政下のもとで日本を知り日本語を学んだ人たち。
そのご子孫が、今度は当時生きていたかもしれない平成の後期高齢者の介護をする、というのはなんとも複雑な話です。

日本語教育と言えばこの人。
NHKスペシャル『ドナルドキーンの愛した日本人』、水のような伝統を。

 

そんな日本に警鐘を鳴らしたのが、ガンジー(→第6集
アジア人のアジアじゃない、ただの帝国主義だ、と。

「あなたがたはいかなる訴えにも耳を傾けようとはなさらない。ただ剣にのみ耳を貸す民族だと聞いています。
それが大きな誤解でありますように。あなた方の友、ガンジーより」




やがて原子爆弾投下、終戦を迎えます。




占領下の日本



従軍記者の記録。
米兵に背を向ける日本兵、近づこうとしない市民。
占領を恥じているのか何なのかわからないが、ひどく不気味であると。

 

昭和天皇の人間宣言、全国巡幸。
広島に集まった5万人の市民。
映像でみることのできない市民を入れたらもっと何十万人もいたことでしょう。

 

庶民は、といえば。
配給が届かず深刻な食糧不足。
『ごちそうさん』のめ以子たちの時代。
レンズが珍しかった時代だったのでしょうか、テレビ越しに睨み付けられている気分になります。



 

朝鮮戦争が勃発し、冷戦の中の日本がとらえられることなります。
それは資本主義陣営の一翼でした。

国務長官ケナンの言葉では、
「それぞれの国で重荷を負担する必要があった。アジアにおける舞台は日本だ」
と。

 

サンフランシスコ講和会議は、初の全米テレビ中継で。



そしてテレビ時代へ。



華やかな大阪万博の映像が目に刺さります。

明治初期から映像に日本。
それは決して美しいばかりのものではなかった。
ドラマに見るようなものばかりではなかった。

けれど、そこに人が生きていたのだなと。






『映像の世紀』はここで終わります。
その20年後、2016年に『新・映像の世紀』シリーズがはじまります。(リンクは上の方)

元旦からちまちま見て、この一連の記事を残していましたが。
すんげえ疲れた。

一挙放送で元旦0時からその日の昼過ぎくらいまで一気に放送していたのですが。

いややっぱりほんと、NHK-BSさん頭おかしいって(褒めてる





どうもありがとうございました。

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