光と風に乗って地域産品の創出

NPO法人光と風&地魚料理海辺里

屏風ヶ浦 写真展

2009年08月08日 | 地域資源
     目で見る屏風ヶ浦の今昔 
写真展の開催 写真の収集にほぼ目途がたち9月18日から展示が決まり翌年の3月31日まで刑部岬展望館の2階で開くことになった。
 集めた写真は屏風ヶ浦に浸食防止の波消しブロックが設置される以前のものに限定した。その理由は屏風ヶ浦の原形から将来像を見つめたいという考えからであった。現在のところ50枚ぐらい集まったが実際に展示するのは20数枚になる予定である。
 

屏風ヶ浦ー5

2009年08月01日 | 地域資源
    下永井付近 明治末期の護岸工事風景 大正以前の写真は無いだろうと思っていたがこの写真は明治末期のものだという。屏風ヶ浦とは距離を離れるが参考の写真となる。古い写真があったと持ち込まれたものだがその複製の画像は極めて鮮明であった。撮影者が下総・飯岡・荘という以外に撮影年月日などは不明である。人物や背景の下永井の集落(波止崎付近)からは明治という時代であるという確証はつかめないといってよい。
 昭和61年版の「飯岡海岸誌」で調べてみた。明治39年、波止崎付近に初めてコンクリート製の護岸が設置されたという。構造から直立護岸の内側に玉石を敷き詰めたものだがその後、破損したと記されている。当時の記録はこれ以外にないと考えればこの時期の写真となる。しかし、同様な工法で大正初期、昭和初期にも設置されている。
 これ以上は専門の人の知識を頼ることになる。
景観として屏風ヶ浦を写真に記録したものは今のところ、昭和30年代までである。これ以前は町の写真店さんが頼りになる。浸食対策や災害復旧の記録は勢い写真屋さんが持ち込まれたものという。こうした記録の狭間で景観の記録があっただろうと期待したい.


屏風ヶ浦考ー4

2009年07月09日 | 地域資源
   通連洞の侵食崩壊 通連洞はかって屏風ヶ浦を代表する景観・名所であった。ここは侵食によってトンネル状の海食洞が独自な景観を示し、地図上などでも名所として表示されたいた。しかし、昭和30年代前半には侵食が進み以降その形態は消滅して現在に至っている。
 屏風ヶ浦の写真収集の大半を占めるのがこの通連洞に関連するものになっている。当時カメラを手元に於けた僅かな人々が独自な景観として記録を写真に求めたといってよい。
 日本財団が発行した「日本の海岸はいま」の屏風ヶ浦51ページに飯岡町提供の写真が掲載されていた。現在のとこるこの写真が一番古い(大正時代)ということになる。

屏風ヶ浦考ー3

2009年06月22日 | 地域資源
   大正時代の刑部岬 これまで十数点の古い屏風ヶ浦の写真を収集したが、何れも既に町の広報や記念誌等で公表済みあった。
 今回、大正13年12月5日撮影したものが持ち込まれた。これは幻の写真第1号である。持ち主によると親が高等中学のときに写したものという。約86年前であるから本人が生きていれば100歳を過ぎていることになる。
 後ろは刑部岬で屏風ヶ浦の西側に当る。1年に約2メーロル位侵食されてきたと云われてきたがでたらめな数字でないようだ。このように昭和20年代以前の写真は資料として貴重なものになるに違いない。9月からの写真展に向け多くの方の協力を戴きたい。
 


屏風浦考ー2

2009年05月30日 | 地域資源
 屏風浦の資源を掘り起こしまちづくりへ架橋する試みが関係者の協力を戴き少しじつ進んでいます。行政では飯岡の資料館、支所の資料室、また個人では上永井の向後さん、飯岡の大嶋さんなど、展示に当たって写真の著作権について同意の作業に入っています。
 写真は昭和20年代から30年代にかけ通称「通連洞」付近のものです。その後は侵食によってこの景観は見ることが出来なくなりました。現在のところ、これ以外に数点見つかりましたが将来的には貴重な写真になると思えます。30年代以前の写真は撮影した方がほとんど亡くなり記録として遺族に引き継がれたもの以外は自然消滅という運命を辿っていることが判りました。
 専門家に聞いて見ました。昭和20年代前半以前、写真機、フイルムは公共機関のみの所有で個人が手にしたのは20年代後半からという。
 過去の映像を見つけ地域の再現を試みるという作業は極めて短い過去の時間に限定されることが判りました。この短い時間を遡及し遥かの時間を測定する作業が見えて来ました。
 これから新聞各社に協力をお願いする予定ですが昭和20~30年代の屏風浦に関係する写真をお手元にありましたら資料の展示(刑部岬展望館)に是非ともご連絡下さい。