この時期になると「自分に自信がないです」「いくら頑張っても自信が持てません」などと、重苦しい表情を携えた若者が吸い寄せられるようにハローワークにやって来ます。
私のプライベートな研究テーマは、実は「自信の源」というやつです。
私は、気づいた時には既に自信家でしたから、自信というやつをそれ程意識せず、あまり意味を考えずに人には「もっと自信をだせよ!」などと軽く言ってきたように思います。
しかし、今の仕事をするようになって、その”自信という得体の知れぬもの”を、真剣に考えるようになり、様々な文献や論文を読み、出来るだけセミナーにも参加し、グーグル先生にもお世話になりながら、自分なりに自信というやつを解析して来ました。
皆さんは、どういうふうに自信を捉えていますか?
私もあれこれ考えるのが好きな方なので、~先生の説いている「自分を愛すること」なのかな?と考えてみたり、~博士の「自信は脳が作る」というのが本当かな?と考えてみたり、さらには「良き行いに自信も宿る」などというのもそれらしいし・・・と悩み続けていました。
そんな中、ある学問に出会い、考え続けたその答えが明確に規定できるようになりました。
それは、「自信とは、ただの言葉である」ということです。つまり”幻想に過ぎないやつ”という規定です。
自分で勝手に自信という幻想を作り出し、それに囚われ、それがないと不安で困難にも打ち勝てない。と勝手に思い込んでいる。
そもそもどこにも存在していない。それが自信。
初めから備わっているものと思い込んでいるだけで、実は無い。それが自信。
だから、自信が無くても、あっても、実はおなじこと。
自分を輪切りにして、この部分は自信がないが、この部分にはあるよって言っているようなもの。同じ自分なのに、わざわざ自信の有無を分ける必要もないのに、人はなぜか自信がなければいけないと思い込む。
今の私はそんな感じです。
だからと言って、相談に来る若者に、「自信って本当は無いんだよ」なんて言っている訳ではありません。
そこは、言葉の使いようなので、「自信とは思い込みである」と言っています。(本当だからです)
自信は、運転免許証のように誰かの許しを得る必要などないし、これこれの基準をクリアーした者だけに与える栄誉でもないし、周囲の人達の多数決を持って決議することでもない。
今ここで「はい、私は自信を持ちました」と宣言すれば、その瞬間、自信のあるあなたの出来上がりです。
などと説明します。
就活では特に「自分に自信を持っている人が良い」なんて聞きますが、その言葉の意味するところは何でしょうか?
人はよく口では「自信を持って」と人にエールを送りますよね。でもそれは「自信満々になれよ!」「傲慢になれ!」と言っている訳ではないことは何となく分かるでしょ。
自分が人に「自信持って頑張れ」と言う時はどうでしょうか?その言葉に込めた思いは、「貴方の素晴らしさに誇りを持って」という意味が強いのではないですか?
そう、実は自信がないと思っているのは、自分の素晴らしさが分からないと言っているようなものです。
失敗をして上手く行かない自分には生きる価値などないのですか?面接で落とされたら生きて行く資格も失うのですか?
意地悪な質問でしたが、仮にそう思っているなら、貴方が他者をそう観る人という悲しい事態になります。
もしも貴方の周囲に、貴方と同じような境遇に悩んでいる人がいたら「あんたはもう生きて行く資格はないな」などと思いますか?
きっと、違うはずです。「私と同じように苦しんでいるんだな~」などとその人の感情に寄り添える心に気付くはずです。そういう力を「共感力」と言いますが、社会に出ると最も重要な能力の一つです。
自信があるとかないとか言っているよりも、共感力の方がよっぽど役にたちます。それが人間の素晴らしさです。他者を思いやり共に悩み考えて行ける。そんな人を世の大人たちは「自分に自信のある人」などと表現するのです。
人間の素晴らしさを知っているから言える言葉。それが自信という言葉を創った人間の素晴らしさでもあるのです。
だから、思い込めばいいと私は自信を持って伝えています。
思い込み方が分からないと思うなら、私に会いに来てください。
私は、自信という幻想と、これからも付き合って行きたいと思っています。