先日NHKのプレミアムシアターでピエールブーレーズの追悼番組として下記の内容が再放送された。私は初回の放送を見逃していたこともあって、ありがたい再放送だった。My Blogですでに述べているように、作曲家ブーレーズについてはいまだ理解しえないでいるが、指揮者ブーレーズについては、ある種私の好きな指揮者であるマルケヴィッチのような、曲の構造を明確に提示する演奏に魅力を感じている。むしろマルケヴィッチの演奏がレントゲンのように曲の構造を明示するならブーレーズはCTスキャンのように曲のそれこそ細部にわたって提示する演奏に驚きすら感じる。ベルク、ウェーベルンに関してはこの演奏は素晴らしいの一言だ。
◇ピエール・ブーレーズ指揮
グスタフ・マーラー・ユーゲント管弦楽団演奏会
<曲 目>
1.管弦楽のための3つの小品 作品6 ベルク 作曲
2.管弦楽のための6つの小品 作品6 ウェーベルン 作曲
3.交響曲 第6番 イ短調「悲劇的」 マーラー 作曲
管弦楽: グスタフ・マーラー・ユーゲント管弦楽団
指揮: ピエール・ブーレーズ
収録: 2003年4月21日 サントリーホール
しかしマーラーの6番となると話は別だ。マーラーの音楽にどれだけ、ブーレーズは共感していたのだろうか?。たまたま後で述べるバーンステインとブーレーズが同じ本の中でマーラーに関して一文を乗せている。(もっとも編集者が選んだもので彼らが投稿したのではない)
ブーレーズの一文は1967年にNYのレビユー・オブ・ブックスの投稿で「今日のマーラー」と題されたものの翻訳を読んだのだが、ここで彼が述べていることは、マーラーの音楽の素晴らしさでなく、マーラーの音楽をいかに理解するのかをCTスキャンで映し出した映像よろしくのべている。
彼曰く「マーラーは指揮者としては過ぎたる存在であり、作曲家としては及ばざるものだった。」「作曲家であるときにさえ、指揮者としての役割と決別できなかった。器用さはあるが熟達さにかけていた。」「マーラーの交響曲は感傷性、俗悪さ、無礼で耐えがたい無秩序が騒々しく無遠慮に踏み込んでくる」と始まり、マーラーの作品の価値は「将来の音楽の革新の第1歩としての記録的価値」と結論付けている。したがってこの映像から現れるブーレーズの演奏は早いテンポで無駄だと理解した余韻を取り去り、マーラーの骨格を示した演奏だったのだろう。
1967年の「マーラーの時代が来た」と題するバーンステイン(LB)の一文では、マーラー音楽の本質についてはマーラー音楽の本質はマーラー自身の二律背反的矛盾にあるとする点ではブーレーズと同じだが、LBはだからこそその矛盾が拡大する現在においてマーラーを理解する必要があるのだと説く。彼の6番ではやはり最初の録音が私には好ましい。
卒業して就職して札幌勤務となった時このLPを買った。それこそ一人雪降る窓辺を見て聴くこのLpレコードの音は「煉獄」だった。後日LBがウィーンフィルとのビデオ録画風景を見たとき、おそらくマーラーと同じ心境であったことを感じた。アメリカにあってはロシア移民の子、ヨーロッパにあってはアメリカ人、世界にあってはユダヤ人のLBがウィーンフィルとの録画で「マーラーはあなた方の指揮者だったのではないか、なぜマーラーの音楽を理解しないのか」と叫ぶ姿が印象的だった。このLpで高校の時からマーラーはブルーノ・ワルターという思いで聴いていたが、疑問を抱きワルターのマーラーから離れた時期だ。
私の推薦はセルとクリーブランド管弦楽団とのLIVE録音盤だ。1967年の録音に注目だ。この時期に、いわばウィーンではマーラーの対極にある音楽を書いたR.シュトラウスの弟子としてつかえたセルがLive録音したのだ。しかも演奏はLBとブーレーズの中間にあり、崩れかかる寸前の音楽を構成力で持ちこたえ終楽章はそれこそ、LB並みの余韻を残し終わる素晴らしさだ。
私の手持ちはマーラーの交響曲では6番は少ないが、評判を呼んだ、インバルもショルティーもあまり心には残らない響きだった。
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