とりとも雑楽帳

狭山丘陵の里山歩きとクラッシク音楽の鑑賞日記です。

義母の葬儀 (私自身の備忘録)

2019年01月08日 | Weblog

 カミサンは3姉妹の真ん中だが、オフクロさんの介護に、我が家に近いところの老人ホームを選び、基本的にはかみさんが、老人ホームの窓口になっていたためか、喪主になった。喪主と言っても私も両親の葬儀の喪主だったが、今はすべて葬儀社が葬儀のシナリオを作り、流れはすべて作ってくれるし、ましてや今回は、身内のみの本当の家族葬だったことから、ことさら、カミサンがしゃしゃり出る場面はないので、遅刻だけは許されないと、早めに出た。葬儀は桐ケ谷の火葬場の近くゆえに、久しぶりに東急目蒲線に乗ってと思ったら、「目黒線」に名前が変わっていた。葬儀は1時半だが、12時半前に着いた。とりあえずは腹ごしらえに、蕎麦が食べたくなったので、捜そうと思ったら、駅前にお初の店があった。ほぼ立ち食い蕎麦屋だが、テーブル席と丸椅子のカウンターだけの小さな店だが、この値段でこの味は小諸そばを凌駕していると思った。そばつゆは値段からすれば価値ありだ。

 桐ケ谷火葬場は現役のころは社員関係の葬儀で何度か来たが、その時は五反田からゆえに、不動前からは初めてだった。葬儀社は火葬場近くで、仙台在住の義妹の家族が先着で、すぐに横浜に住む息子が車で来た。思ったよりも道が空いていいて、近くの駐車場も空いていたとのことだ。そのあと都内に住む義姉一家が、そして最後に芝浦に住む我が娘が来た。なぜか会合には、遠くの人から順に参加して近くのものが最後になる。

 我が母は正月明けに亡くなった。その際に火葬場の日時が取れず、待たされ、火葬の日時で葬式の日時を決めたが、品川区の場合は昼夜人口の差があるのだろうか、3日に亡くなって6日に葬儀ができたのは、正直意外だった。カミサンは、形だけの喪主だが疲れ切っていた。だが我が経験からは、実家と居住地が離れていればいるほど、葬儀の後の方が相続がらみの諸手続きが多く発生し、自宅と実家の行き来が疲れのもとになることはまだわかっていないようだ。

 7日、カミサンと義母がお世話になった、老人ホームにお礼のあいさつに行った。義母は、東村山市の老人ホームに入居することに、快く思ってはいなかったが、我が家から車で10分足らずの距離がどれだけ介護する側にとって、体力的にも、精神的にも良かったかは、私のアドバイスを受け入れたカミサンは判ってくれた。

 愛猫さくらは、正直、あまりかまってあげられない状態だったが、5日本年最初の病院に連れて行った。検査結果がでるまでの時間が長く感じたが、先生がニコニコしながら、さくらの検査結果をもって出てこられ、「もう大丈夫ですよ」と言って下さり、予定したホルモン剤注射は中止となった。しかも点滴の回数が1日1回でしかも、便の状態が元に戻れば点滴も中止したいとのことだった。

 当面は1日1回の点滴と、食餌は1回20gから25gに増量し、1日2回、サプリは在庫が切れたら終了、とうれしい結果を出てくれた。今年の年明けは死と生を目前で見つめた正月だった。



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