とりとも雑楽帳

狭山丘陵の里山歩きとクラッシク音楽の鑑賞日記です。

墓参りの後で観た、親父の撮った写真とTVの墓地問題

2014年08月11日 | Weblog

先週は お盆の前に墓参りを済ませる予定にしていたが、暑さと台風で家にこもり、ビデオとDVDのオペラコレクションの整理をしていた。整理しだすと止まらず、それこそ「雨の日はオペラ」のBlogを書くのを忘れてしまった。

 そんな中、日曜日にTVを見ていたカミサンが、「トトロのお墓問題がTVに出ているわよ」と呼び出され下に降りると、トトロ財団の事務局の人たちが画面に出ていた。このところこのTV番組では墓地問題が頻繁に出てくる。これも我が団塊世代の作りだした経済問題だ。住宅問題以上に全国規模で見れば、お墓は余っている。むしろ経営にいきづまり由緒あるお寺が廃寺に追い込まれている状態だ。調整区域の地価が、墓地1区画での売り出し価格が宅地坪単価以上となりしかも買う人は「墓地の値上期待」も得られれば経済問題だけで見れば自然保護派に勝ち目はない。、しかし首都圏の墓地問題こそが、安部さん言うところの地方活性化の1つではないだろうか。「死んだら故郷のお墓で安らかに」を標語に、第二の職場と合わせ、人材の故郷回帰促進を政策にいれ込、盆暮れに追加し春秋の彼岸も連休化するだけでも、人の移動に伴う経済効果と人材交流機会の相乗効果で首都圏が奪い取った人材を地方が取り戻す機会が生まれるのではと思うのだが。地方活性化に必要なのは坊さんを含め人材の活性化が第一だと思う。佐賀県の武生市長の評価はさまざまだが、人材がいれば動き始める。 それにしても今の仏教界の動きはどうなのだろうか、首都圏のお寺さん(もっとも我家で知りえた範囲だが)に比べ地方の観光寺の暴利とその他お寺の行動力のなさが気になるのだが。

 足元の墓地問題だが、どうしても東京都側との比較が出てくる。私も、カミサンも都内で生まれ育った。我が世代の都内の小学生の遠足地はユネスコ村(今はない)で村山・山口貯水池と合わせ楽しい思い出の場所だった。また社会科の授業では東京の「水」として淀橋上水場までの経路と玉川上水の歴史はこどもごころに村山・山口貯水池と周囲の自然環境の大切さは頭に残った。その結果は高度成長期、経済優先時代に都立公園としての用地買い上げ始まった下地ができていた。しかし埼玉県民としての目線で見れば水道局用地の金網に埼玉県なのに?が残るし、トトロ財団ができるまでどれだけの埼玉県民が関心を寄せていただろうか。所沢・入間市の財政規模で周辺を買い取る余力はないだろう。県が動かないのなら、両市の東京都への編入問題を提起してもよいだろう。私のような都内からの移住者は多いはずだし、都内勤務者は多いはずだ。また都と埼玉県との行政サービスの落差を感じている人も多いはずだ。

 そんなTV番組のあとで今日両親の墓参りに行った。時代のあと先で天と地ほどの開きがある。両親の墓は大宮の青葉園だ。いまの時期ならば大規模墓地反対運動の矢面だったと思う。当時は祖父の友人手がけ、販売も思わしくなく祖父も手を貸し斡旋したそうで、親戚が皆買ったところだ。今では周囲を民家に取り囲まれ近所の人たちの空間になっている。カミサンの実家の墓も某大手電鉄会社の開発墓地だ。今ならきっとできないことだ。当時でもなぜ歴史的景観破壊を阻止できなかった不思議だ。団塊世代の親の時代もすでに東京のお寺の墓は高額で飽和状態だったのだろう。

  人口減少時代に入り、家あまり、墓あまりは必然的に起こること。世帯数の減少は人口減の比ではない。そうした中で墓地の開発許可を出す行政者の先見性が問われることにもなる墓問題だと思う。と思いながら冷房の効きの悪い軽自動車でこの暑さの中を走り帰宅した。

 帰宅して実家から引き取った中に親父の撮った写真があった。何かのコンクールで優勝した写真が飾ってあったが、残った写真もそれなりの受賞作なのだろうか?その中の1枚に表題を「募金」と記した昭和29年の下記の写真があった。

今まで見てきた風景写真とは異質であった。生前、関東大震災の荒川土手で遊んでいて震災の揺れで転んで怪我した話は聴いたが、戦争中の話は記憶にない。不思議に思っていた。この1枚の写真と60年安保闘争に参加していた親父の思いが何だったのだろうか。そういえば「集団的自衛権」論争?が気になるが、今の学生は何を考えどのように自己解釈をしているのだろうか。「戦争を知らない子供たちが」齢70歳になり、米国配給の「脱脂粉乳」で育った私は他国での戦争を糧に成長した日本経済により生きながらえてきたが、エネルギー一定の法則同様にどこかでその埋め合わせが訪れるのであろうか?



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