毎年、年賀状には「狭山丘陵の鳥」を題材にしているが、今回は、なかなか納得できる題材が撮れなかった。
そもそも年賀状そのものが、現状の自分の置かれた状況から、正直「迎春」を迎える気持ちになれない。まだ27日にならないと、19日に受けた病院の検査結果の白黒がつかない状況に置かれている。また、来年「古希」を迎えるが、それこそ「狭山湖から病院まで」古来まれな老人が団塊となって占拠している社会にいる。我ら団塊は、生まれた時からの競争(狂騒)社会に身を置いた。それではいけないと、学生時代に学んだ、「ゆりかごから墓場まで、誰もが人間として最低限の生活を保障される社会」は、いつ、どこで誰によって消されたのだろうか?。生活保護者よりも刑務所暮らしのが方が快適な生活が送られる異常さ。若者の未来に投資をせずに、既存の金持ちにさらに金持ちにさせる政策を「成長戦略」と臆面もなく言い切るシンゾウ君を支持する学生の姿に、古希を迎える私には、理解を超えた現状だ。
そんな私の居場所は、自然の中にしかなくなった。
年末の狭山湖の風景。
いつもオオタカのおこぼれをかっさらうノスリがスタンバイしているが、今年はオオタカがいない。
やっと年賀状の題材のミサゴが現れた。
トビがたぶんミサゴがつかみ損ねた?大きな鯉を横取りして岸辺で食べていた。丸ごと1匹独り占めは、一足早いお年玉だろう。
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