2020年9月16日から始めた「そ」ですが、今日から追加掲載です。
「草原の輝き」 1961年 アメリカ

監督 エリア・カザン
出演 ウォーレン・ベイティ
ナタリー・ウッド
パット・ヒングル
ゾーラ・ランパート
サンディ・デニス
ショーン・ギャリソン
ストーリー
アメリカの中西部に暮らすバッド(ウォーレン・ベイティ)と、ディーン(ナタリー・ウッド)は高校3年生。
愛し合っているが、セックスに罪悪感を持つ母親(オードリー・クリスティ)の影響もあってディーンはバッドのすべてを受け入れるに至らない。
バッドの父である石油業者のエイス(パット・ヒングル)は息子がフットボールの選手であることが大自慢で、エール大学に入れたがっているが、バッドには父親の期待が心の負担になっている。
それにこの父は、理解あるように振舞うが本能的には暴君で、姉のジェニー(バーバラ・ローデン)が家出して堕落してしまい大学を追われたのも、このような父のいる家庭がたまらなかったからだ。
だからバッドの気持ちはひたむきにディーンに向かうのだが、彼女はそれを受けとめてくれない。
そんなことでイライラした気持を、バッドは折にふれて乱暴な行動で爆発させたりする。
そしてついに彼も同級生でコケティッシュな娘ファニタ(ジャン・ノリス)の誘惑に負ける。
青春の悩みに苦しんでいるディーンはこの事件でショックを受け、川に身を投げる。
救助に飛び込んだ人々のおかげで死を免れたディーンは精神病院に入院するが、そこで知り合ったジョニー(チャールズ・ロビンソン)という若い医師と婚約する。
一方、父の希望通りエール大学に入ったバッドは、勉強にも身が入らずアンジェリーナ(ゾーラ・ランパート)というつまらないイタリア娘と結ばれ、学校は退学寸前のところまでいっている。
ちょうどその頃、アメリカ社会では1929年の大恐慌がやってきた。
エイスは大打撃をかくして息子に会い、ニューヨークに誘ってコーラス・ガールをバッドの寝室に送り込んだりするが、その夜窓から飛びおりて自殺する。
やがて退院したディーンは、バッドが田舎へ引込んで牧場をやっていることを知り、訪ねて行く。
バッドはアンジェリーナとつつましく暮らしていたが、2人は静かな気持ちで再会し、そして別れた。
寸評
親の影響でやり場のない苛立ちを抱えている若者を描いた映画の一つだ。
バッドの父親は家庭においては強権的で息子に夢を託し、息子は父親の過度な期待に悩んでいる。
この父親に母親は意見を言うことが出来ない。
娘はそんな父親に反感を抱き、何かにつけて反抗的である。
一方のディーンは母親に支配されているようにも見える。
母親は夫を受け入れるのも子供を作る為だけだというような価値観の持ち主である。
いつまでも子供と思っていて、ディーンを「ベイビー」と呼んだりしている。
父親はそんな母親に遠慮してか、娘に対しては何も言わない。
二人の両親の子供に対する支配力は正反対で、描かれている構図は単純だ。
バッドの父親は石油採掘会社をやっていて、株価も値上がりしている成功者だ。
ディーンの父親はその会社の株を持っていて、株価の値上がりで資産が増えていくことを楽しみにしている。
娘の医療費を捻出するために虎の子の株を売却するが、売却すると同時に大恐慌が襲い株価は暴落する。
それまでスタンパー家に従属していたようなディーン一家の立場が逆転する。
バッドの父親が従業員たちと繰り広げる乱痴気騒ぎ的なパーティを描いていたことで、その逆転現象を印象付けているのだが、大恐慌を巡る悲喜こもごもとして見れば、その描き方は単純ではある。
父親の絶望感はニューヨークの酒場で荒れる姿がそうだったのかもしれないが表現されていたとは言い難い。
本筋とは関係ないから省略されたような結末を迎えている。
バッドをファ二タに奪い取られて錯乱するディーンの心情も深く切り込んでいるとは言えないような演出だ。
エリア・カザンの演出としては「欲望という名の電車」「波止場」「エデンの東」といった1950年代の作品の方が鋭かったような気がし、この作品ではそれらの作品に比べると少々切り込み不足を感じる。
バッドは念願の牧場をやっているが、それが父親の残した牧場だということなどもその一端だ。
それでも授業で使われていたワーズワースの詩がナレーションされるラストシーンはほろ苦くていいシーンだ。
「草原の輝きは消え去り二度と戻ってくることはないが、嘆くことはせず残されている物に力を見出そう」とナレーションされディーンが去っていくというものである。
青春はほろ苦い経験も随分させてくれるが、しかし明日を信じて進んでいくのも青春だったはずだ。
ディーンがバッドを訪ねる行為に僕は共感した。
自分の気持ちを確かめるためにも、自分が新しい伴侶と前に進むためにもケジメとして必要だったのだろう。
何となく終わってしまった恋の幻影だけが膨張し、別れた人への思いを抱き続けるようなことはないだろうから。
僕には反省を起こさせる結末だが、この時のナタリー・ウッドの表情が何とも言えず印象に残る。
僕はこの作品を学生時代に名画座でのリバイバル上映で見たのだが、見る前には大学生の話だとの先入観を持っていたのに、実際の導入部は高校生の話だった。
日本に比べてアメリカは随分と早熟社会なのだなあという印象を持ったことが思い出される。
「草原の輝き」 1961年 アメリカ

監督 エリア・カザン
出演 ウォーレン・ベイティ
ナタリー・ウッド
パット・ヒングル
ゾーラ・ランパート
サンディ・デニス
ショーン・ギャリソン
ストーリー
アメリカの中西部に暮らすバッド(ウォーレン・ベイティ)と、ディーン(ナタリー・ウッド)は高校3年生。
愛し合っているが、セックスに罪悪感を持つ母親(オードリー・クリスティ)の影響もあってディーンはバッドのすべてを受け入れるに至らない。
バッドの父である石油業者のエイス(パット・ヒングル)は息子がフットボールの選手であることが大自慢で、エール大学に入れたがっているが、バッドには父親の期待が心の負担になっている。
それにこの父は、理解あるように振舞うが本能的には暴君で、姉のジェニー(バーバラ・ローデン)が家出して堕落してしまい大学を追われたのも、このような父のいる家庭がたまらなかったからだ。
だからバッドの気持ちはひたむきにディーンに向かうのだが、彼女はそれを受けとめてくれない。
そんなことでイライラした気持を、バッドは折にふれて乱暴な行動で爆発させたりする。
そしてついに彼も同級生でコケティッシュな娘ファニタ(ジャン・ノリス)の誘惑に負ける。
青春の悩みに苦しんでいるディーンはこの事件でショックを受け、川に身を投げる。
救助に飛び込んだ人々のおかげで死を免れたディーンは精神病院に入院するが、そこで知り合ったジョニー(チャールズ・ロビンソン)という若い医師と婚約する。
一方、父の希望通りエール大学に入ったバッドは、勉強にも身が入らずアンジェリーナ(ゾーラ・ランパート)というつまらないイタリア娘と結ばれ、学校は退学寸前のところまでいっている。
ちょうどその頃、アメリカ社会では1929年の大恐慌がやってきた。
エイスは大打撃をかくして息子に会い、ニューヨークに誘ってコーラス・ガールをバッドの寝室に送り込んだりするが、その夜窓から飛びおりて自殺する。
やがて退院したディーンは、バッドが田舎へ引込んで牧場をやっていることを知り、訪ねて行く。
バッドはアンジェリーナとつつましく暮らしていたが、2人は静かな気持ちで再会し、そして別れた。
寸評
親の影響でやり場のない苛立ちを抱えている若者を描いた映画の一つだ。
バッドの父親は家庭においては強権的で息子に夢を託し、息子は父親の過度な期待に悩んでいる。
この父親に母親は意見を言うことが出来ない。
娘はそんな父親に反感を抱き、何かにつけて反抗的である。
一方のディーンは母親に支配されているようにも見える。
母親は夫を受け入れるのも子供を作る為だけだというような価値観の持ち主である。
いつまでも子供と思っていて、ディーンを「ベイビー」と呼んだりしている。
父親はそんな母親に遠慮してか、娘に対しては何も言わない。
二人の両親の子供に対する支配力は正反対で、描かれている構図は単純だ。
バッドの父親は石油採掘会社をやっていて、株価も値上がりしている成功者だ。
ディーンの父親はその会社の株を持っていて、株価の値上がりで資産が増えていくことを楽しみにしている。
娘の医療費を捻出するために虎の子の株を売却するが、売却すると同時に大恐慌が襲い株価は暴落する。
それまでスタンパー家に従属していたようなディーン一家の立場が逆転する。
バッドの父親が従業員たちと繰り広げる乱痴気騒ぎ的なパーティを描いていたことで、その逆転現象を印象付けているのだが、大恐慌を巡る悲喜こもごもとして見れば、その描き方は単純ではある。
父親の絶望感はニューヨークの酒場で荒れる姿がそうだったのかもしれないが表現されていたとは言い難い。
本筋とは関係ないから省略されたような結末を迎えている。
バッドをファ二タに奪い取られて錯乱するディーンの心情も深く切り込んでいるとは言えないような演出だ。
エリア・カザンの演出としては「欲望という名の電車」「波止場」「エデンの東」といった1950年代の作品の方が鋭かったような気がし、この作品ではそれらの作品に比べると少々切り込み不足を感じる。
バッドは念願の牧場をやっているが、それが父親の残した牧場だということなどもその一端だ。
それでも授業で使われていたワーズワースの詩がナレーションされるラストシーンはほろ苦くていいシーンだ。
「草原の輝きは消え去り二度と戻ってくることはないが、嘆くことはせず残されている物に力を見出そう」とナレーションされディーンが去っていくというものである。
青春はほろ苦い経験も随分させてくれるが、しかし明日を信じて進んでいくのも青春だったはずだ。
ディーンがバッドを訪ねる行為に僕は共感した。
自分の気持ちを確かめるためにも、自分が新しい伴侶と前に進むためにもケジメとして必要だったのだろう。
何となく終わってしまった恋の幻影だけが膨張し、別れた人への思いを抱き続けるようなことはないだろうから。
僕には反省を起こさせる結末だが、この時のナタリー・ウッドの表情が何とも言えず印象に残る。
僕はこの作品を学生時代に名画座でのリバイバル上映で見たのだが、見る前には大学生の話だとの先入観を持っていたのに、実際の導入部は高校生の話だった。
日本に比べてアメリカは随分と早熟社会なのだなあという印象を持ったことが思い出される。