おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

大誘拐 RAINBOW KIDS

2021-05-16 08:39:26 | 映画
「大誘拐 RAINBOW KIDS」 1991年 日本


監督 岡本喜八
出演 北林谷栄 風間トオル 内田勝康 西川弘志
   緒形拳 神山繁 水野久美 岸部一徳
   田村奈巳 松永麗子 岡本真実 奥村公延
   天本英世 本田博太郎 竜雷太 嶋田久作

ストーリー
ある夏の日の朝、大阪刑務所に仲間の正義(内田勝康)と平太(西川弘志)を迎えに行った健次(風間トオル)は、二人に誘拐の計画を話す。
最初は反対する二人だったが、健次のねらいは紀州一の山林王・柳川とし子刀自(北林谷栄)。
さっそく計画を実行する三人。
ところがこのおばあちゃんただ者ではなく、やっと山中で拉致に成功した彼らに向かって和歌山県警本部長・井狩(緒形拳)の知るところとなれば逃げるのは難しい、と落ち着いた表情で論じ始める始末。
こうして三人は刀自に用意させた家に身を隠すことになる。
この家は柳川家の元女中頭だったくーちゃんことくら(樹木希林)の家だった。
そのころ、和歌山県警本部では“刀自誘拐”の連絡が届き、刀自を生涯最大の恩人と敬愛する井狩が火の玉のような勢いで捜査に乗り出して来た。
連絡を聞いた刀自の子供たちも次々と柳川家に到着。
騒然とした空気の中、刀自救出作戦が開始された。
一方、三人は隠れ家で身代金要求の策を練っており、その額が五千万円だと知った刀自はいきなり表情を変え、「大柳川家の当主なんだから百億や!」と三人に言い放つ。
それによって誘拐犯と刀自の立場は完全に逆転してしまい、事件はいつしか刀自と井狩との知力を尽くした戦いになっていた。
そしてついに身代金の受け渡しの日がやってくる。
それは前代未聞の全世界へ生中継されるにまで至っていた。


寸評
痛快コメディでこの作品を高く評価する人も多いようだが、この手の作品はどちらかと言えば僕の好みではない。
資産家の老女を誘拐し100億円の身代金を要求するという奇想天外な話なのでリアリティはない。
だったらもっとはじけても良かったように思うが、北林谷栄のおばあちゃんが若者3人を手玉に取って指揮していく様は面白く、北林谷栄なくして成り立たない作品である。
柳川とし子刀自は(刀自とは老女に対する敬称であることを初めて知った)は大阪府がすっぽり入ってしまう山林を有する資産家と言うだけでなく、皆に好かれているおばあちゃんである。
柳川家に君臨しているようにも見えるが、使用人からは慕われているようだ。
その代表がクーちゃんと呼ばれる元使用人の中村くら(樹木希林)である。
彼女は主人と使用人という立場を保ちながらも盲目的にとしこ刀自に尽くす。
北林谷栄が真面目に滑稽さを演じているのに対し、樹木希林はドタバタで滑稽さを演じて女性二人が面白い。
訪れた村の人々も心底から刀自を歓迎しているようだし、パイロットの本田博太郎までもが刀自の心酔者である。
彼等に反するように自分たちの財産だけを気にするのが4人の子供たちという図式になっても良さそうなものだが、そんな風には描かれていないので作品自体がメルヘンを感じさせるものとなっている。
あってもおかしくない金を巡る家族のドロドロした関係は排除されている。
明るいコメディ路線を外さず、次々と作戦を実行していくところは評価できる。

軽くなりがちな作品を引き締めているのが県警本部長の井狩を演じる緒形拳でさすがと思わせる。
誇張気味に描かれながらも作品に重みを生み出している。
井狩の優秀さを感じさせながら進む捜査状況も、刑事ものの如く描かれミステリー性を生み出している。
本来なら井狩とおばあちゃんの丁々発止の知恵比べが描かれ、勝負に勝ったり負けたりの様子が描かれるところなのだろうが、ここではおばあちゃんの完勝となっている。
おばあちゃんは井狩以上の切れ者なのだ。
おばあちゃんにとっては愛してきた広大な山林は小さな自分の庭のようなものである。
足腰も丈夫なのだろう。
人が行けそうもない場所に行っているし、通行できない道ばかりなのに車を持ち込んでいる。
山道を散歩する姿も描かれていたから、最後に明かされる犯行動機が可笑しく感じる。
そう言えば冒頭で体重計に乗っていたなあ・・・。

この映画のテーマが浮かび上がるのが事件の結末が語られる段だ。
仏間の遺影の中に若い三人の写真があり、刀自は戦争で二人の息子と娘一人を亡くしている事を語る。
戦争に国民を巻き込んだうえ三人の子供の命をも奪い、さらには巨額な相続税のために物納の形で美しい紀州の森林を略奪する日本国政府に対する怒りであり、反戦というテーマを感じさせるシーンとなっている。
刀自が自ら作戦を練って三人をこき使い誘拐事件を仕切っていったのは、刀自が国家権力に挑んだ一世一代の凄絶な戦いだったのだと明かされ、これこそが岡本喜八監督の叫びだったのだと思う。
それにしても北林谷栄は見事というほかない。
この時代におけるおばあちゃん役のNo1だろう。

ダイヤルMを廻せ!

2021-05-15 10:36:57 | 映画
「ダイヤルMを廻せ!」 1954年 アメリカ


監督 アルフレッド・ヒッチコック
出演 レイ・ミランド
   グレイス・ケリー
   ロバート・カミングス
   アンソニー・ドーソン
   ジョン・ウィリアムズ
   パトリック・アレン

ストーリー
ロンドンの住宅地にあるアパート。
その1階に部屋を借りているトニーとマーゴのウエンディス夫妻は、表面平穏な生活を送っているように見えたが、夫婦の気持ちは全く離ればなれで、マーゴはアメリカのテレビ作家マーク・ホリデイと不倫な恋におちており、それを恨むトニーは、ひそかに妻の謀殺を企てていた。
トニーはもとウィンブルドンのテニスのチャンピオンで、金持ち娘のマーゴはその名声にあこがれて彼と結婚したのだが、トニーが選手を引退してからは、彼への愛情が次第にさめていったのである。
トニーは大学時代の友人でやくざな暮らしをしているレスゲートに妻の殺人を依頼した。
計画は綿密で、トニーはマークと一緒に夜のパーティーに出かけてアリバイをつくり、レスゲートにアパートへしのびこませる。
約束の時間にトニーはアパートへ電話をかけ、マーゴが電話に出たとき、かくれていたレスゲートが後ろから絞殺するというてはずだった。
しかし、実際には絞められたマーゴが必死にもがいて鋏でレスゲートを刺殺してしまった。
トニーは、マーゴがマークとの不倫をレスゲートにゆすられていたので彼を殺したという印象を警察に与え、マーゴを罪におとし入れた。
マーゴは死刑を宣告され、処刑の前日までトニーの陰謀は発覚しそうにもなかったのだが・・・。


寸評
「ダイヤルMを廻せ!」はミステリー作品だが犯人探しではなく、犯人は最初から分かっているので、興味は犯人がどのようなアリバイ作りを行い、またどのような言い逃れをするかに注がれていく。
冒頭でトニーとマーゴの夫妻がキスを交わし、マーゴが新聞でマークが豪華客船でやって来る記事を目にする。
次のシーンでマーゴとマークがキスを交わしているのを描き、三人の関係が端的に示される。
次の場面でトニーがレスゲートにマーゴの殺人依頼をするのだが、冒頭に比べるとこのシーンは長い。
殺人を引き受ける必然性を観客に納得させなければならないのだからこの長さは当然だ。
トニーはレスゲートの身辺を細部にわたって調べ上げており、成功報酬のことも有ってレスゲートは殺人という大罪を犯さざるを得なくなってしまう。
同時にトニーと言う男が用意周到で頭のよい男であることが示されて、後半へのイメージ作りに成功している。
ミステリー映画らしく、冷静沈着な男が立てた計画が、ちょっとしたことから計画が狂い始める展開も心得たもので、ほころびはトニーの時計が止まっていて、レスゲートと約束した時刻に電話を出来なかったことから始まる。
そして犯行の実行に当たって、レスゲートは打ち合わせとは違う行動をとってしまうのだが、その行動はうっかりしてしまうと見逃がしてしまうようなもので、その事が重要な決め手となってくる描き方もなかなかいい。
見所は切れ者の警部が登場してきて、この殺人事件の疑問点を次々に指摘し、それをトニーが取り繕って疑問を晴らしていくやり取りだ。
賊は窓から入ってきたことにしていたが、警部はドアから入ったのだと指摘する。
その理由は極めて明快で、警部の切れ者感が伝わって来て、トニーとの対決が俄然面白くなってくる。
凶器となるハサミがそこにある理由も納得するし、文字通り事件の鍵となる入り口のキーの扱いが見事だ。
その為の伏線として。トニーのコートと警部のコートが似通っていることがさりげなく描かれている。
似ているのはコートだけではない。
トニーがマーゴの鍵をバッグに戻すシーンなど、鍵にまつわるエピソードはこの作品の中で輝いている。

主人公の一人であるマーゴを演じているのがグレイス・ケリーなので悪女には見えない。
夫婦間は冷え切っているはずだが、そんな雰囲気は感じられない。
マーゴは浮気しているのだから責められる要素のある女性の筈だが、観客は彼女に肩入れしてしまう。
結局彼女は死刑の判決を受けるのだが、この事件で死刑になるのは納得できないものがある。
正当防衛だって主張できたはずだし、そしてなにより観客にはグレース・ケリーが冤罪で死刑になるはずがないとの思いは当初からあるわけで、最後の興味はどのようにしてグレース・ケリーが救われるのかになる。
それも期待を裏切らない描き方で納得はできるが、グレース・ケリーの気品は取り乱すことを拒絶させてしまっているなと感じる。
殺してしまった後の動揺、夫が殺人を企てていたことを知った時の愕然とした気持ちに対する彼女の振る舞いには驚愕と言う言葉が当てはまらないものに感じる。
警察の現場検証があるのに、夫に言われたからと言って着替えずに寝ていられるものだろうか。
加害者であるマーゴへの事情聴取は当然あるわけで、夫の代弁で済むずがない。
探せばツッコミどころはあるのだが、最後の終わり方などはシャレたものでスッキリ感がありこの映画らしい終わり方となっている。

台風騒動記

2021-05-14 08:05:34 | 映画
「台風騒動記」 1956年 日本


監督 山本薩夫
出演 佐田啓二 菅原謙二 佐野周二
   野添ひとみ 桂木洋子

ストーリー
のどかな海辺の町ふぐ江に台風が荒狂い、家は倒れ田畑も流され、役場の前には救援物資を求める町民たちが集まっていた。
二階の会議室では森県会議員(永井智雄)を中心に山瀬町長(渡辺篤)、友田議長(左卜全)、ボスの川井釜之助(三島雅夫)などが町議会の最中。
森県議の入知恵で、台風災害に便乗、台風で倒れそこねた小学校舎を壊し一千万円の政府補助金を取り私腹を肥やそうとの皮算用に会議は踊る。
しかし危険校舎とはいっても当の学校は健在。
教科書を失った子供たちのため妙子先生(野添ひとみ)は資金集めに大忙し。
町議会は町長の責任で校舎取壊しに決り森県議は配下の堀越組を派遣する。
大蔵省からは監査官が来るという。
町長夫人みえ(藤間紫)は監査官を買収しようとバス停留所で見張りをしていると、一人の青年がバスから降りたので、みえはこの青年吉成幸一(佐田啓二)を監査官と思い料亭へ連れこんで大サービス。
川井議員からは二万円の袖の下、芸者静奴(桂木洋子)まで罷り出た。
ところが静奴の話で幸一は人違いされたと知り、彼が訪ねる友人の務(菅原謙二)の家に逃避行。
その頃本物の監査官山村(細川俊夫)は町長らにニセ陳情をキメつけていた。
補助金はどうやら怪しくなったが、町長は「補助金は来る」の一点張りだが道がない。
新校舎の地鎮祭も迫り、PTAでは一戸一万円の寄金で工事に着手しようと話合っている。
いよいよ地鎮祭の日、遂に裏面を知った務は妙子に励まされ、補助金は来ないと発表した。
ざわめく町民、頭を抱える議員たち。
翌朝、幸一は彼を慕う静奴を残して町を去る。


寸評
補助金を巡る騒動を描いた風刺喜劇であるが、この話は1953年9月に愛知県渥美郡福江町を襲った台風13号による被害とそれをきっかけに引き起こされた一連の事件をモデルにしている。
佐田啓二の吉成幸一は架空の人物のようであるが、三島雅夫の川井釜之助は福江町・渥美町の町議会議員や議長を歴任した川口釜之助のことのようである。
当の本人は映画で描かれた川井釜之助よりも豪快な人だったらしいというから驚きだ。
補助金を巡る不正は時代を問わず存在しているようで、我が村の防災倉庫を巡る補助金の行方が分からなくなっているという話が私の耳にも入ってきている。
あくまでも噂で事実関係は定かでない。

大蔵省の監査官を勘違いしたところから騒動が拡大化していく中で、先ず描かれるのが贈賄と接待に対する風刺なのだが、面白おかしく描かれていることが実際に行われていないと風刺にならない。
観客は政官財の三すくみの中で贈収賄と接待攻勢が行われていることを色んな事件を通じて知っている。
建設会社と結託した議員が、自分の息のかかった業者に工事を請け負わせるよう動き回っているのも納得だ。
次期町長を巡る駆け引きも描かれているが、政治の世界では一寸先は闇の裏切り行為も日常茶飯らしい。
町長や町会議員たちがてんやわんやで繰り広げていることは、実際に行われていることなのだと思いながら笑っている自分がいる。
事実は奇なりで、モデルとなった事件では実際に出された補助金が100万円だったのに対し、工事予算は2500万円にのぼり、1955年の町村合併のどさくさにまぎれて第2期工事の予算も通されたとのことだ。
映画の中でも補助金は100万円程度だと発表されている。

佐田啓二は松竹の看板俳優の一人だったが、ここでは普段はわき役が多い人たちが生き生きと動き回っている。
町長の渡辺篤、川井釜之助の三島雅夫を初め、岩本の中村是好、森県会議員の永井智雄、赤桐巡査の多々良純、山代の三井弘次、議長の左卜全、校長の加藤嘉たちがパーソナリティを存分に発揮している。
言い争う場面や宴会シーンは彼等の芸域の広さを感じさせる。
個性的な俳優はいるが、このようなスラップスティックな演技が目一杯できる役者は本当に少なくなってしまったように思うし、非常に懐かしさを覚える。
野添ひとみは大映所属の女優さんだと思っていたが、この頃は松竹だったんだな。
大きな目が印象的で、この映画のアクセントになっている。
「二十四の瞳」の大石先生もいいが、この映画における志水先生もなかなかいい。
意気地なしの務先生が志水先生に思われる魅力となる部分が一つも描かれていないのはどうなんだろう。
生徒に好かれていると語られること、町民たちの支持を得ていることで彼の良さが描かれていたのだろうか。
ちょっとイジイジさせられる描かれ方だ。
巡査が「世界」や「中央公論」を読んでいることで「君はアカか?」と言っているが、このような会話がなされているのは時代を感じさせる。
スラップスティック・コメディで軽い作品のように感じるが、描かれている内容は現在でも十分通じるものだ。
実際僕の周りでもそれまがいのことが起きているのだから・・・。

ダイナマイトどんどん

2021-05-13 08:37:12 | 映画
「ダイナマイトどんどん」 1978年 日本


監督 岡本喜八
出演 菅原文太 宮下順子 北大路欣也
   嵐寛寿郎 金子信雄 岸田森
   中谷一郎 フランキー堺 小島秀哉
   石橋正次 丹古母鬼馬二 田中邦衛

ストーリー
昭和二十五年、北九州一円ではヤクザ組織の抗争がエスカレートして、まさに一触即発の状態であった。
特に小倉では昔かたぎの岡源組と新興ヤクザの橋伝組がしのぎを削っていた。
この事態に小倉警察署長(藤岡琢也)は、ヤクザ抗争を民主的に解決するために野球大会を提案した。
岡源組、斬り込み隊長の加助(菅原文太)は野球でカタが気に入らず、割烹「川太郎」で飲んだくれていた。
加助は店のおかみ、お仙(宮下順子)にゾッコンまいっていた。
岡源組のシマを狙う橋伝組は、一気に決着をつけようと、札束にものをいわせ、全国から野球上手な渡世人を集めた。
一方、岡源組はシロウトばかり、わずかに戦争で片足を失った五味(フランキー堺)を監督に迎えただけだった。
ジョーカーズとの一回戦、あわや敗退かという時、途中から出場した加助の劇的な長打で逆転した。
勝利に酔う岡源組の前に、岩国の貸元から送られてきた、助っ人、銀次(北大路欣也)が現われた。
銀次の投げる魔球で二回戦は楽勝だった。
加助は銀次がお仙の惚れている男とわかって身を引くことにした。
橋伝組は、岩国に手を延ばして銀次を寝返えらせてしまった。
このことが加助の怒りを一層あおり、岡源組は一人一殺の殺人野球に活路を求めスパイクを尖らせ、バットに鉛を埋めた。
双方の応援団も盛り上がり、岡源組には小倉の芸者衆が、赤いけだしをまくってカンカン踊り、橋伝組には地元のストリッパーのラインダンスとボルテージは最高頂に達した。
サイレンの音とともに試合は始まったが、次々と両軍選手は負傷し、審判も例外ではない。
血みどろの試合展開となり、九回裏3点を追う岡源組の攻撃は二死満塁で加助がバッターボックスに…。


寸評
野球映画の一つではあるが中身はコミカルな内容である。
ヤクザが出入りの代わりに野球でカタを付けようというものだ。
ヤクザ同士の縄張りをかけた試合だけに内容はルール無視の喧嘩野球である。
もともと日本映画では本格的な野球シーンを上手く取り入れた作品が少ないだけに、むしろ完全に茶化したこのようなコメディ映画の方が新鮮である。
嵐寛寿郎親分が率いる岡源組が善玉で、金子信雄親分が率いる橋伝組が悪玉と図式は明瞭。
橋伝組が金に物を言わせてヤクザ組織の中から野球の上手い選手を集めるくだりも面白い。

12の組が参加した大会だが、当然決勝戦は岡源組と橋伝組の試合となる。
エースの銀次が橋伝組に寝返ったので、岡源組の連中はあの手この手の準備をする。
グローブの中の手には強力な金具をはめていて、それで相手を思いっきりタッチしてのしてしまおうとするものや、スパイクをやすりで研いで鋭くし、それで踏んずけようというものである。
その他にも足に鉄板を入れたり、バットに鉛を流し込んだりといった具合だ。
さらにはグローブに胡椒を入れて目つぶしをくらわす準備もしている。
予想通り試合は乱闘騒ぎばかりとなるのだが、残念なのは事前に用意されたそれらの武器が全く描かれていなかったことだ。
どうせならそれらのインチキ用具で相手をギャフンと言わせるシーンを入れてほしかったし、あれだけ紹介したのだから入れるべきだったと思う。

色模様はお仙の宮下順子が一手に引き受けているのだが、気風のいい姉御であり女将でありながら、一途に銀次を思う女を上手く演じている。
やくざ映画らしく殴り込みのための道行もある。
菅原文太は黒の着物で、白装束の小島秀哉が一緒するために待っている。
「昭和残侠伝」だと高倉健と池辺良の役回りである。
しっとりとくる雰囲気を感じさせておいて、コメディなので小島秀哉の留吉が菅原文太の加助の着ている着物に対して「えらいナフタリン臭いのう」とズッコケさせる。
それまでの菅原文太を真面目に描いていただけにこの一言に大笑いだ。

強制労働のために沖縄に送られた加助に仲間が決勝戦のホームランの話をするが、そこで元東急セネタースのピッチャーだった五味が語る最終戦の話は岡本監督らしい。
加助と銀次は王道のヤクザ映画ならわだかまりを解いて兄弟分となるはずだが、相変わらず敵対していることがわかるラストはこの映画らしいし、直前の五味の話が生きていたように思う。

ハチャメチャすぎる内容と、野球の試合らしさが全く出ていない点を受け入れられない人には駄作に思えるだろうけれど、僕は日本映画の中ではトップランクにあげられる野球映画になっていたと思う。

第五福竜丸

2021-05-12 08:46:04 | 映画
「第五福竜丸」 1959年 日本


監督 新藤兼人
出演 宇野重吉 乙羽信子 小沢栄太郎
   千田是也 清水将夫 金井大

ストーリー
1954年3月、焼津港を出た漁船第五福竜丸は、魚を求めてビキニ環礁のあたりにいた。
乗組む二十三人の漁夫たちは、故郷に妻や恋人や親たちを持つ、平凡な人々だった。
船長笠井太吉はわずか二十二歳の若さで、船の実権は漁撈長の見島民夫(稲葉義男)が握っていた。
苦労人の無線長久保山愛吉(宇野重吉)は乗組員たちの信任を得ていた。
三月一日の午前三時四十二分、乗組員たちは夜明け前の暗やみの中に白黄色の大きな火の柱が天に向ってたちのぼるのを目撃した。
六、七分の後、大爆音があたりをゆるがせて響いた。
ビキニ環礁で米国の専門家たちによって行われた水爆実験であった。
立入禁止区域外にいて、何も知らなかった一同の頭上に、やがて真白な死の灰が降りそそいだ。
三日後、船員たちは灰のついた部分の皮膚が黒色に変り、身体に変調が生じたのに気づいた。
帰港後、焼津協立病院外科主任大宮医師(永井智雄)の診断により、一同が原爆症とわかり、第五福竜丸の船体から放射能が検出されるに及んで、事件は大きく表面化した。
物理学者・化学者・生物学者・医師等が焼津に集まり、報道陣は活躍をはじめ、日本中の目は焼津に注がれ、報道は世界中に打電され、アメリカからも専門家が調査にやってきた。
しかし、彼等は何故か積極的な協力を日本側に与えようとはしなかった。
二十三人の漁夫たちは東京の病院に移され、日本側医療科学陣の総力をあつめて治療が進められた。
慰めの言葉や抗議文が、病人たちの枕辺にはうず高くつまれ、外国からも多くの手紙が殺到した。
しかし、漁夫たちの中でも年長者であり、身体の衰弱の激しい久保山愛吉は、肉身の者に見守られながら、「身体の下に高圧線が通っている……」と絶叫しつつ死んだ。
こうして、原子力研究とは何の関係もない漁夫たちに突然襲いかかった悲劇は、今なお続いているのだ。


寸評
日本人は4度も被爆の憂き目にあっている。
1945年の広島、長崎への原爆投下、2011年の東電福島第1原発の爆発事故、そしてこの1954年に起きたビキニ環礁水爆実験による第五福竜丸被爆である。
映画は焼津から第五福竜丸が出航するところから始まる。
ドキュメンタリー風の映像が続き、やがてビキニ環礁から遙かに離れていたにも関わらず、「西から太陽が昇った」と叫んでしまうほどの閃光とともにキノコ雲を目撃して死の灰を浴びるシーンまではそれほど時間はかからない。
その間に描かれるのは、先ずは遠洋漁業に出かける乗組員を見送る家族の姿である。
妻や子に見送られる者や、恋人に見送られる若者もいて、一見して幸せな人たちなのだと分かる。
出航してからは、海の様子に加えて航海中の乗組員たちの様子が描かれる。
漁具の補修やら食事の様子、航行の様子などがドキュメンタリー風に描写されている。
そしていよいよミッドウェー沖で漁が開始されるが不良で、漁場を変えて南へ向かい悲劇のビキニ沖に到着して漁を再開する。

ここでの漁の様子もドキュメンタリー風で、マグロを初めとする魚はこんな捕り方をしていたのかと、豊漁の感激よりも残酷さを感じる映像が印象深い。
そして彼らは水爆のキノコ雲を目にする。
やがて死の灰が降り注いでくる。
第五福竜丸は危険水域外で操業していたが、水爆の威力はアメリカの予想を上回るもので彼らの操業水域迄影響が及んだと言うことである。
放射能を含んだ粉末を持ち帰っているし、足跡が付くぐらい降り注いだのだから相当なものである。
死の灰の降り方や、帰港した乗組員の顔が黒く変色しているのを見ると、デフォルメしていると思ってしまうのだが、しかし多分実際にそうだったんだろうと思い直す。
帰ってきた彼らは案外と元気な姿を見せる。
被爆者たちが大したことがないように思える映像が続くのは、広島や長崎のように直接原爆が投下されたものとは全く違う、静かな恐怖を描こうとしているのだろう。

新藤は声高に核廃絶を訴え続けるような描き方をしていない。
前述の理由によるものだろうが、恋人の女性が病室を訪ねてくるシーンなど微笑ましい場面が用意されていて、内容の割には堅苦しくない。
それ故に、無線長久保山愛吉の死は迫ってくるものがある。
漁師仲間として操業中の船舶から久保山頑張れの電報が数多く届く。
どうやらこの頃には日本中が事件の経緯を知り、久保山氏の安否を気遣っていたようだ。
持ち直したかに見えて弱っていく久保山の姿が痛々しい。
根底にある核への恐怖だ。
唯一の被爆国にも関わらず、ともすれば忘れがちになる国民への警鐘が平坦な物語の中に描かれている。
平和な生活の中でこういう事件が日本国民に起こった歴史があることも記憶しておく必要がある。

大空港

2021-05-11 07:45:33 | 映画
「大空港」 1970年 アメリカ


監督 ジョージ・シートン
出演 バート・ランカスター
   ディーン・マーティン
   ジーン・セバーグ
   ジャクリーン・ビセット
   ジョージ・ケネディ
   ヘレン・ヘイズ

ストーリー
アメリカ中西部地方を襲った30年来の猛吹雪のため、リンカーン国際空港は痛烈な打撃をうけていた。
空港のジェネラル・マネージャーのベーカースフェルド(バート・ランカスター)は、トランス・グローバル航空旅客係のタニア(ジーン・セバーグ)の援助をうけ、空港の機能維持のため狂奔していた。
このとき着陸に失敗した大型ジェット旅客機が主要滑走路に胴体を横たえてしまった。
ベーカースフェルドは、事故の処理を航空会社の保安係主任パトローニ(ジョージ・ケネディ)に依頼した。
このような事件の過程で、ベーカースフェルドは、派手好きな妻シンディ(ダナ・ウィンター)のいる冷たい家庭からの慰めをタニアに求めるようになっていた。
一方、この空港からいましもボーイング707 機が飛び立とうとしていた。
機長のデマレスト(ディーン・マーティン)と副機長のハリス(バリー・ネルソン)は、ともにベテランのパイロットだったが、主要滑走路がふさがれていることを非常に心配していた。
デマレストはベーカースフェルドとは義理の兄弟であったが、強情な2人はそれぞれの立場を譲らず、事故機の処理について激しく言い合うのだった。
このデマレストには妻のサラ(バーバラ・ヘイル)がいるにもかかわらず、スチュワーデスのグエン(ジャクリーン・ビセット)と恋仲になり、彼女に子供までできてしまっていた。
そうこうしているうちに、いよいよローマ行きボーイング707 機が離陸することになった。
このとき、ベーカースフェルドとタニアが気づいたにもかかわらず、密航常習の老婦人クオンセット(ヘレン・ヘイズ)が、まんまとこれに乗り込んでしまった。
吹雪をついて機が離陸したあと、大変な問題が明るみに出た。


寸評
事故に巻き込まれた飛行機が問題を抱える空港に着陸を試みるというパニック映画でもあるのだが、空港で働く人々に起きる様々な人間模様を描いた作品である。
ここまでてんこ盛りにするかというぐらい色々な話が盛り込まれていて飽きることはない。
そうなってくると取り上げられるまず第一の話題が男女関係であることは言うまでもない。
空港のジェネラル・マネージャーのベーカースフェルドは仕事を理解しない妻と上手くいっていない。
ベーカースフェルドは緊急事態が発生すると家庭第一にはなれない対場にいて、そんな夫に妻は家庭を顧みないと不満を漏らすという日常でもよくあるパターンだ。
夫は仕事を理解する同僚の女性に癒しを覚え、妻は不満を癒してくれる男性に心が移るという夫婦関係は目新しいものではない。
男の僕から見ればジーン・セバーグのタニアはいい女で、ダナ・ウィンターのシンディは嫌な女ということになるということで、当然いい女役をやっているジーン・セバーグは得な役回となっている。

一方、ベーカースフェルドと義兄弟のデマレストもCAのグエンと出来ているのだが、妻のサラは夫を信頼しているし、デマレストも妻を簡単に捨てきれない気持ちを持っているというのが複雑なところだ。
グエンが妊娠していることを知って自分の気持ちの整理をつけるのだが、可愛そうなのは妻のサラだ。
事故機から出てきた乗務員を心配そうに迎えるサラに突き付けられた残酷な光景に対する結末は描かれていないのだが、シンディと違っていい奥さんだったと思われるサラの気持ちを考えると辛いものがある。
本当は残酷な場面なのにハッピーに描いているのは男目線過ぎると思ってしまう結末である。

色恋沙汰に反して骨太な男の奮闘を描くのが保安主任のパトローニの活躍である。
雪に車輪を埋まらせ身動きが出来ず滑走路をふさいでしまっている旅客機を何とか動かそうと活躍する。
荒くれ者だが根性と指導力、知識に富んだ頼れる男だ。
旅客機の構造にも詳しく、機長とやりあっても一歩も引かない豪快な男である。
最後は自ら操縦して脱出を果たすが、話の展開として成功するのは分かっていてもハラハラさせる。

滑稽シーンを持ち込んでいるのがクオンセットという密航常習者の老婦人だ。
彼女のとぼけた態度が観客の笑いを誘う。
やり手のタニアとの対決(?)は愉快で、思わず老婦人に肩入れをしてしまいそうになる。
彼女にかかれば、若い社員などは赤子の手をひねるようなもので、見事に密航を果たすことになる。
事前に披露していた手口でやり遂げるのは、映画としては王道的な描き方だ。
彼女が協力して犯行者のカバンを取り上げることに一度は成功するが、彼女が演じた演技が上手すぎて彼女に味方する乗客のために失敗してしまう。
そのあたりのやり取りも楽しませてくれる。
最後に無事旅客機が着陸できるかというスリルを持ち込んでいるのだが、これは当然の成り行きとなる。
ここに至って、群像劇とは言え物語は一杯あったなあという気持ちが湧いてくる。
なんともサービス精神旺盛な作品である。

ターミネーター2

2021-05-10 08:14:41 | 映画
「た」は2020年9月28日の「ダーティハリー」から始まりました。
興味のある方はバックナンバーからご覧ください。
今日から紹介しきれなかった作品を追加掲載します。

2020/9/29に「ターミネーター」の第1作を紹介しています。
今回は第2作を。

「ターミネーター2」 1991年 アメリカ


監督 ジェームズ・キャメロン
出演 アーノルド・シュワルツェネッガー
   リンダ・ハミルトン
   エドワード・ファーロング
   ロバート・パトリック
   アール・ボーエン
   ジョー・モートン

ストーリー
あれから10年後の1994年、人類滅亡の日は3年後に迫っていた。
表面上は平和に見えるロサンゼルスの街に、未来から2体のターミネーターが送り込まれてきた。
1体は未来社会を支配しているミリタリー・コンピューター、スカイネットにより送り込まれたT1000型。
未来の指導者となる少年ジョン・コナーを抹殺するという使命を与えられたT1000は、形状記憶擬似合金で構成されていて、触れることでどんな物体にも変化できて戦闘能力は以前をはるかに上回っていた。
もう1体は未来のジョン・コナー自身が送りこんだT800型で、少年ジョンを守ることを使命としていた。
その頃、ジョン・コナーは養子に出され、その母サラ・コナーは、1997年8月29日に核戦争が勃発し人類が滅亡するという危機を人々に訴えようとして精神病院に送り込まれていた。
ジョンを狙いT1000の執拗な追跡が始まったが、その前にT800が立ちふさがる。
「君を守るためにやってきた」と告げるT800にジョンは驚くが、心を開き、精神病院に閉じ込められたサラを救い出そうと病院に向かう。
病院を脱走しようとしているサラは厳重な警備を死闘の末に抜け出し、息子ジョンと再会する。
以前自分を殺そうとしたターミネーターにうりふたつのT800を初めは疑ったサラだったが、次第に彼を信じるようになり、共に人類を滅亡の危機から救おうと行動を開始する。
メキシコで武器を調達し、サラは単独で研究所員マイルス・ダイソンの家を襲撃する。
未来の人類滅亡の危機を招くことになる革命的な新型コンピューター・チップの研究をストップさせるためだ。


寸評
アーノルド・シュワルツェネッガーが今度はサラとジョンを守るために帰ってきた。
前作の悪役から正義の味方に代わっているわけで、その変化は特徴がありすぎる容姿からすれば違和感を生じるはずなのだが、それを瓜二つのターミネータとして、最初はサラにも疑わせることで問題解決を図っている。
これにより「ターミネーター・シリーズ」はアーノルド・シュワルツェネッガーのシリーズとなった。

未来を知っているサラが妄想を描く精神病患者として警察病院に閉じ込められているのだが、そのストーリー展開よりも目を見張るのがコンピューター・グラフィックスの進歩で、T1000が誰にでも変化したり、倒れても倒れても生き返ってくる映像処理に圧倒される。
T1000が変じた警官を演じているロバート・パトリックも印象に残るのだが、液体金属から警官に戻る様子のほうが記憶に残るし、散り散りになった液体金属が集まって来て元通りになる場面なども興奮させられる。
何年かすればこの技術も陳腐なものになってしまっているのだろうが、現時点では驚異的なCG技術である。
前作のヒットで製作費をつぎ込めるようになった為だろうが、アクション・SFX(T1000のCG効果は驚異的!)はかつてない充実を見せ一級エンタテインメントの様相を呈している。
しかしながら前作の続編とあって、キャラクターの書き込み不足から来る感動的要素の欠落があって、前作ほどの完成度には至っていないと思う。
未来だけを語る母親を信じられず非行に走ってしまっているジョンと母親サラとの過去の確執は語られるだけで、世界でただひとり人類破滅の日を知ってしまったサラの苦悩、それをイメージとして映像化したシーンのインパクトなど、単なるSFバイオレンスに終わらせまいとする意気込みは買えるだけに惜しい。

もともと核戦争によって滅亡寸前となってしまった人類なので、核戦争に対する批判をサラの口から研究所員マイルスに対して直接的に語らせていたのは、単純だけれど解りやすくていい。
サラは「未来を見据えないで自己満足だけで研究開発するから水爆のようなものが出来てしまうのだ」と叫ぶ。
戦争は狂気の世界を生み出し、第二次世界大戦時においても各国は原子爆弾の開発を試みていたのだ。
そして原子爆弾は最終兵器として開発され、日本に2発も落とされた。
核の脅威はその後の世界をいかに悩ませているかを、当時の科学者たちは予見できなかったのだろうか?
予見できていたとしても、やらなければやられてしまうという恐怖が開発に向かわせたのだろうか?
未だに核を持った国は攻撃されないという思いがあって、すでに持った国、あるいは半ば公然と開発を急ぐ国が存在しているのだ。

無敵を誇る新型のT1000だが、液体窒素で固まってしまい粉々にされる。
しかしそれが溶け出し、分散していた水銀が合流していくように集まりだして復活する。
僕が子供の頃の体温計には水銀が入っていて、割れた体温計から水銀を取りだし、同じような遊びをしていたことがあって、最新のシーンのはずだが何だかノスタルジーを感じた。
最先端の金属のはずだが、やはりそれでも溶鉱炉の熱には勝てなくて、最後は結局アナログ的な勝利で終わるのがちょっと滑稽。
ラストシーンでのT800の言葉と結末は感傷に浸らせてくれる。

その夜の侍

2021-05-09 07:42:30 | 映画
「その夜の侍」 2012年 日本


監督 赤堀雅秋
出演 堺雅人 山田孝之 綾野剛 谷村美月
   山田キヌヲ 高橋努 でんでん
   坂井真紀 安藤サクラ 田口トモロヲ
   新井浩文

ストーリー
東京のはずれで小さな鉄工所を営む中村健一(堺雅人)は、5年前、トラック運転手に最愛の妻久子(坂井真紀)をひき逃げされた。
死んだ妻の思い出から抜け出せず、留守番電話に遺された妻の声を延々再生しながら糖尿病気味にも関わらず甘いプリンを食べ続けている。
久子の兄で中学校教員の青木(新井浩文)は、健一を早く立ち直らせようと、同僚の川村(山田キヌヲ)と見合いをさせるが、健一は「僕なんかあなたにふさわしくない」と新しい人生に向かうことを拒絶する。
一方、久子をひき逃げした犯人、木島宏(山田孝之)は、2年間の服役後、ひき逃げトラックに同乗していた腐れ縁の友人小林(綾野剛)の家に転がり込んでいる。
そんな木島のもとに、1ヶ月前から「お前を殺して俺も死ぬ。決行まで後○日」という無記名の脅迫状が連日執拗に送られてきていた。
決行日は木島が健一の妻を轢いた日で、もう数日後に迫っている。
木島から脅迫状のことを知らされた青木は、脅迫状を送っているのは健一と察し、復讐の決行をやめさせようとするが、健一を前にすると何も言えなくなってしまう。
決行前夜、ラブホテルでホテトル嬢のミカ(安藤サクラ)と過ごし、虚しさをさらに募らせる健一。
一方、木島は復讐を思い留めさせられない青木に腹を立て、生き埋めにすると脅すのだった。
そして決行日の夜、台風の激しい雨が町を覆っている。
歩き回ったあげく、人気の無いグラウンドまでやってきた木島は、後を追いかけてきた健一と遂に対峙する…。


寸評
登場するのは欠陥人間ばかりで、彼等の心理描写が手持ちカメラやアップの多用で描きだされていく。
会話を極力抑えた執拗なまでの描写で人間の本性を描きだしていく演出にスゴミがあった。
主人公はひき逃げされて亡くなった妻の復讐を果たそうとしているが、孤独と絶望の淵にいる。
無き妻を忘れることが出来ないのか、復讐するという気力を失わない為なのかよくわからないが、妻が遺した最後の留守電を繰り返し聴き続け、妻の下着を持ち歩いている。
鉄工所を経営する小市民のようでありながら、プリンを食べ続けるその姿は偏執的ですらある。
そんな義兄になんとか立ち直ってもらおうとする義弟の青木や、鉄工所の従業員も一見平凡そうでありながらどこか変。

世間を騒がせた尼崎の連続殺人事件を髣髴させる人間の不可解さ、恐ろしさを見せつけられる。
木島を恐ろしいと思いながらもそこから逃げられない星や小林、手籠めにされる由美子たちは、まるで木島のマインドコントロールにかかっているようでさえある。
健一は「工場で溶接作業をしていると、溶接の光の中にコガネムシが飛び込んでくる。嫌な臭いがして、食欲がなくなる」と話すのだが、木島の周りに集まる人間は、嫌な思いをすると判っているのに集まってしまう虫と同じだ。
この木島を演じた山田孝之が抜群で、「こんな悪い奴は許せん!」と思わせる嫌な奴を熱演していた。
今の世の中、こんな奴が増殖しているのだと思わせる、実にいい加減で身勝手な男をリアリティをもって表現していた。
なんとなく生きているのも情けないが、罪を感じず暴力と共に身勝手に生きる人間など許せるはずがない。
義弟の青木を演じた新井浩文も好演で、たまらず怒りを爆発させたりするのだが、やけに冷静を装う謎めいた性格の持ち主を巧みに演じていた。
だけど、義弟の青木はどうしてあそこまで健一に尽くすことが出来たのかなあ…。

妻役の坂井真紀が引かれる場面は恐ろしい。
ほんのちょっとした動作が脇見を引き起こして事故を誘発する様が描かれている。
マイカーを運転する自分としては、反射神経の衰えも感じていて、気をつけなくてはの思いを強くした。
もしかしたら街のあちこちに存在しているかも知れない木島の様な男に係わった時の怖さも思い知らされた。

クライマックスの豪雨の中での壮絶な肉体のぶつかり合いは観客を圧倒し、息をのむ迫力のシーンとなっている。
その時の二人の対決行動が観客の想像を掻き立てる。
そして中村のその後を描いたラストに至る数シーンにわずかな希望を描く。
ここでもセリフは極力排除され、心の内を映像で押してくる。
「他愛のない会話がしたかった」に、家人と二人で暮らすサンデー毎日の私は幸せを感じたりしたのです。
今得ているこの平凡さは全力で勝ち取ったものなのですがね。

ちょっとしか登場しない安藤サクラの姿と歌声がやけに印象に残る。
なんか圧倒された映画だったなあ・・・。

その男ゾルバ

2021-05-08 11:06:26 | 映画
「その男ゾルバ」 1964年 アメリカ / イギリス / ギリシャ


監督 マイケル・カコヤニス
出演 アンソニー・クイン
   アラン・ベイツ
   イレーネ・パパス
   リラ・ケドロヴァ

ストーリー
英国の作家バジル( アラン・ベイツ) はゾルバ( アンソニー・クイン) という不敵なギリシャ人に惚れこみ、亡父の遺産である亜炭の山の採掘現場監督にしたが、彼はそのとき「私ア、厄病神ですぜ」と言った。
亜炭の山の採掘現場はクレタ島にある村にあり、2人はマダム・ホーテンス( リラ・ケドロワ) の経営するホテルに住むことになった。
その村には世間とほとんど没交渉の生活をしている未亡人( イレーネ・パパス) がいたが、やがてバジルに心ひかれるようになった。
炭鉱管理人の息子パブロ(ジョージ・ボヤジス)は未亡人を想っていたが、未亡人とバジルにできた愛の絆を知り自殺した。
彼の父は未亡人を憎み、彼女を殺してしまった。
春が来て亜炭の採掘が始まるころ、ゾルバはバジルを連れてマダムの病床にかけつけた。
この村では、死者の財産を勝手に奪いとる風習があったから、村人たちは彼女の死をまちかまえていた。
やがて彼女が息をひきとると村人たちが争って何もかも持ち出してしまった。
ゾルバは言った。「人生なンてはかないもンさ……」
ケーブルの工事ができあがると、その竣工式と試運転が行なわれることになり、村人たちが集まった。
ところがケーブルが切れ、支柱が総倒れになってゾルバの技術とアイデアは失敗した。


寸評
クレタ島はギリシャ南方の地中海に浮かぶ同国最大の島であり、古代ヨーロッパ文明発生地のひとつとされているが、そんな歴史を感じさせる描写があり、僕はその事に異様な驚きを覚えた。
それはゾルバに思いを寄せるホテルの女主人でもあるマダム・ホーテンスが亡くなった時に、島の住民が彼女の所有する物を自由に奪っていくシーンであった。
臨終を待ちわびるように老婆がすでに部屋に入り込んでいる。
引き出しから何かを取ろうとした老婆に、別の老婆が「まだ死んでないわよ」とたしなめるのである。
やがて臨終を迎えると村人たちが押し寄せ、我先にと物品をあさって持ち出していく。
置いておくと国に持ち去られるだけなので、考えてみれば合理的な行為だが、しかし僕の生死感からすれば死者への冒涜のように思えた。
僕には、持てる他者から奪い取ると言うような心に根付いたものは、どうやらギリシャにおいて現在まで脈々と受け継がれているのではないかと感じられた。
ギリシャは超公務員社会と聞くし、EUの中では非常に財政的に悪い国でお荷物状態でありながら、余りその事に頓着してなさそうに思えるのも、そのような土壌によるものなのではなかろうか。

ゾルバは面白い男で、バイタリティにあふれ物事を何でも解決してしまう。
まるで「幕末太陽傳」の居残り佐平次のようである。
どちらも威勢がいいが、佐平次が病弱だったのに比べると、ゾルバはすこぶる元気だ。
いい加減なところもあり粗野に見えるゾルバは、一方で世渡りの上手さと人を愛する気持ちを有している。
彼の機知は修道士たちをワインでもって手名付けてしまうところに現れている。
宗教的な色彩を感じさせる映画でもあるが、ここでの修道士たちは道化役であり、神聖性を否定しているようだ。
世の中を知るゾルバは、バジルを彼に好意を抱いていそうな未亡人にけしかけるが、バジルの腰は重たい。
教養もありエリート層に見えるバジルだが、意気地のないところがある男で、未亡人が殺されそうになっている場面に出会っても助けることが出来ず、ゾルバを呼びにやらせ騒動を治める。
結局未亡人を助けることはできなかったが、バジルのひ弱さが垣間見れる出来事として描かれている。

前半部分は随分と間延びする描かれ方が続くが、半分を過ぎたあたりから俄然面白くなってくる。
未亡人を巡る出来事はギリシャ悲劇だ。
ゾルバとマダムの関係は喜劇的だが、ゾルバの優しさがホロリとさせる。
バジルがマダムに読んで聞かせたゾルバからの手紙のウソの内容にたいする、ゾルバの神対応に彼の優しさの神髄を見る思いがする。
ゾルバはバジルから預かった金で遊びまくるが、きっちりと買い付けは行っていて仕事はこなしている。
ゾルバとはそういう男なのである。
ところがゾルバが考えてた画期的な方法は見事に失敗してしまう。
ここにきて、バジルは全財産を失くしてしまい、彼らは笑うしかない。
修道士たちの欺瞞をあざけるように、彼らの逃げ惑う姿を二人は笑い飛ばす。
世の中、何とでもなるさと言いたげにダンスを踊る二人の姿に、人の持つ強い生命力を感じさせた。

ソナチネ

2021-05-07 07:03:06 | 映画
「ソナチネ」 1993年 日本


監督 北野武
出演 ビートたけし 国舞亜矢 大杉漣
   渡辺哲 勝村政信 寺島進 
   矢島健一 南方英二

ストーリー
北嶋組幹部・村川(ビートたけし)は、組長から沖縄の友好団体・中松組が敵対する阿南組と抗争しているので助けてほしいとの命令を受けた。
村川の存在が疎ましい幹部の高橋(矢島健一)の差し金だったが、結局村川は弟分の片桐(大杉漣)やケン(寺島進)らを連れて沖縄へ行く。
沖縄では中松組幹部の上地(渡辺哲)や弟分の良二(勝村政信)たちが出迎えてくれるが村川らが来たことでかえって相手を刺激してしまい、抗争はますます激化。
ある者は殺され、ある者は逃げ出す。
生き残った村川、片桐、ケン、上地、良二の五人は海の近くの廃家に身を隠した。
ある夜、村川は砂浜で女を強姦した男を撃ち殺した。
それを見て脅えもしない若い女・幸(国舞亜矢)はいつのまにか村川と一緒にいるようになる。
東京に連絡を入れても高橋がつかまらず、イラつく片桐をよそ目に、海辺でロシアンルーレットや花火や釣りに興じる村川。
だが殺し屋などによってケンも片桐も上地も殺されてしまう。
やがて沖縄にやって来た高橋を村川は捕まえ、阿南組と組むために村川たちを破門にし、中松組を解散させようと企んでいることを聞き出して彼を殺す。
そして手打ち式の会場に襲撃をかけるが、生き残り、幸の持つ廃家へ向かう途中、村川は銃口をこめかみに当て自ら命を絶つのだった。


寸評
ソナチネとはクラシック音楽の形式の一つで、楽章数は2つないし3つでソナタより少ない小規模なものをいうらしいのだが、映画「ソナチネ」はそれになぞらえて小ネタを繰り返し描いている作品である。
その中で、ビートたけし演じる村川という男を死に魅了された男として描いている。
冒頭で寺島進のケンに「ヤクザやめたくなったな。なんかもう疲れたよ」と語っている。
またロシアン・ルーレット遊びに興じ、幸には「死ぬのを恐れすぎると死にたくなっちゃうんだ」と語っているのも、彼が死を意識している証であろう。

村川はヤクザ組織の幹部で沖縄の抗争に助っ人として派遣されるのだから、本筋はヤクザの抗争が描かれるべきものであるが作品の重心は大人の遊びに置かれている。
スナックでの襲撃場面以後は、何もすることがないからと遊んでいるだけの村川、ケン、良二を描き続ける。
彼らが行っている遊びは子供の遊びだ。
紙相撲に興じたと思えば、砂浜に海藻で土俵を作り相撲を倒しむ。
そこでも紙相撲よろしくふざける彼らである。
村川は砂浜に落とし穴を作り、そこに若いもんを誘い込んで楽しんでいる。
冷静な大杉漣までもが騙されて落ちてしまい笑いを誘うような小ネタがあちこちに出てくる。
花火合戦などは、まるで若者たちがキャンプで大騒ぎをしているようなものだ。
どれもが、いい大人が何やってるんだといった類のものである。
男はいつまでたっても子供なのだろうし、大人って社会生活の中で作り出された虚像なのかもしれない。

村川はヤクザ社会に居るが仕事人間なのだ。
片桐という頼もしい弟分もいるし、忠実な部下のケンもいる。
彼は組の為に必死で働き、北海道の抗争では手下を何人も死なせている。
片桐は普段は大人しい男なのだが、時として「お前んとこの電話機は貯金箱か!」と凄んだりする。
それでも村川や片桐はどこか疲れているように見える。
会社に縛られて必死に働いているサラリーマンが疲れているのと変わらない。
まるで自分の姿を見せられているようで、流石にそれを見せられてはこの映画がすこぶる興行成績が悪かったのも納得してしまう。

ヤクザ映画に付き物のように村川は組長の使い捨てに使われ、組長の裏切りを知る。
そして手打ち式の会場に一人で乗り込みマシンガンで皆殺しにする。
遊び相手もなくし、やることのなくなった村川は魅せられていた死へ向かうしかない。
ソナチネ同様、村川にとっては人と比べると短い人生だった。
村川は太く短い人生だったとも言えないが、生活の為に働くだけの細く長い人生がいいとは言えない。
僕は、いい人生だった、楽しかったと言って逝きたい。

渡辺哲やチャンバラトリオの南方英二は脇役として光っていた。

ソウル・キッチン

2021-05-06 08:59:08 | 映画
「ソウル・キッチン」 2009年 ドイツ / フランス / イタリア


監督 ファティ・アキン
出演 アダム・ボウスドウコス
   モーリッツ・ブライブトロイ
   ビロル・ユーネル
   ウド・キア
   アンナ・ベデルケ
   フェリーネ・ロッガン

ストーリー
ドイツ第2の都市ハンブルクでレストラン「ソウル・キッチン」を営むジノスは、恋人ナディーンと別れ、税務署や衛生局とも揉め、挙句に椎間板ヘルニアになるという踏んだり蹴ったりな日々を送っていた。
しかし、ヘルニアで料理ができない彼の代理の天才料理人シェインのおかげで店は盛り返し、さらに刑務所から仮出所してきた兄イリアスがかける音楽でより賑わい、事態は好転する。
ジノスはシェインから料理の手ほどきを受け、イリアスに店を任せてナディーンに会うため上海へ向かおうとするが、空港で再会したナディーンは祖母を亡くし、中国人の恋人もいた。
上海行きの飛行機をキャンセルするジノスだが、荷物を手に取ると倒れてしまう。
ジノスのヘルニアは進行していた。
医者から全身マヒの危険性を告げられるが、医療保険に入っていないため治療費が足りず手術もできない。
そして、イリアスがギャンブルに負けてレストランを失ったことを知る。
ジノスらはレストランの権利書を盗みに入るが、ヘルニアで動けなくなったジノスは捕まり、イリアスも出頭する。
釈放されるも片足が動かなくなったジノスはアンナを頼り、整体師による治療を受ける。
体のマヒが取れたジノスはかつての同僚たちの行方を尋ねる。
シェインはホンジュラスでサーカスのナイフ投げを、バンドメンバーの一人はスケート場で働き、バーで働いていたルチアはジノスの勧めでイリアスと再会を果たす。
イリアスとのギャンブルで店を手に入れたノイマンは騙していた税務署から逆襲を受けて逮捕され、彼の所有していたレストランは競売にかけられることに・・・。


寸評
コメディの形をとっているがホロッとさせられるところがあり人情喜劇と呼んだ方がいいだろう。
登場人物たちの店に対する愛情のようなものが、押し付けがましくなく伝わってくるのが魅力となっている。
主人公のジノスはいい加減な男のようでありながら、自分のレストランには愛着がある。
ジャンクフードのようなものを提供しているが、お腹いっぱい食べたい人はそれでも満足している。
腕は一流だが料理人としてのポリシーが強いシェインが前の店をクビになりジノスの店にやって来て、同じ材料でフレンチ風の料理を作るが客には受け入れられない。
カツで満腹になりたいお客さんは上品な料理を望んでいないのだ。
店は閑散としてしまうが、そこから満員の盛況になるまでの経緯は、色々なエピソードをはさみながら要領よく描いていて、驚くような展開はないけれどまったく飽きさせないのは脚本の妙だ。
たくさんの出来事を盛り込んでいるのに、無理やり詰め込んでいる気がしないから大したものだ。

コメディとしての描写は随所にある。
一番面白かったのは媚薬のエピソードだ。
シェインがホンジュラスで手に入れたと言う欲情をもよおす香辛料を大量に使う。
冗談だと言っていたが次の場面では皆がその気になっていて、やはりあれは媚薬だったのかと思わせるくだりで、税務署の女性職員まで発情してしまいシェインと醜態をさらけ出すシーンには笑うしかない。
もちろんこのシーンは終盤の出来事への伏線となっているから、たんなるオフザケシーンではない。
主人公のジノスがギックリ腰になってしまい、ほとんどその姿で動き回っていること自体が喜劇的である。

ジノスも強烈なキャラだが、彼を取り巻く連中のキャラクターも際立っている。
兄は窃盗罪で服役中なのだが、一日の中で時間限定の仮出所を許されている。
働く気のない男だが、どこかカッコ良さがあり、友人と常習的に窃盗を行っている。
ギャンブル好きで、それがもとでトラブルを引き起こす問題児である。
シェインは包丁投げを得意とする変人のシェフだが料理の腕は一流を感じさせる。
料理の映像が良いアクセントになるほど彼は美味しそうな料理を作る。
レストランが舞台の作品だから、食べ物のシーンは食欲をそそるものとなっている。
シェインによるジノンへの教育シーンは平凡な描き方だが、腕を上げたジノンの包丁さばきは嬉しいものがある。
シェインがレストランの扉に包丁で突き刺して残して行ったメモは感動的だ。
ジノスの店に居候している船長も正体の分からない老人である。
彼らのドタバタ劇を見ているだけでも楽しくなってくる。

ジノスがレストランを取り戻す手段も泣かせるではないか。
はじき飛んだ船長の服のボタンが原因で・・・なんて面白い。
雪の降るクリスマスの夜、レストランを貸し切り状態にして二人だけで食事するシーンはラブロマンス映画としてもなかなかいいシーンとなっていると思う。
エンドクレジットは必見の出来栄えで最後まで楽しませてくれた。

早春物語

2021-05-05 07:24:00 | 映画
「早春物語」 1985年 日本


監督 澤井信一郎
出演 原田知世 林隆三 田中邦衛
   由紀さおり 仙道敦子 平幹二朗
   宮下順子 秋川リサ 小林稔侍

ストーリー
沖野瞳( 原田知世)は17歳で鎌倉北高校写真部に所属しているが、母は数年前に死亡し、もうすぐ父( 田中邦衛)は大宅敬子(由紀さおり)という女性と再婚することになっている。
春休みになり、瞳はカメラをかかえて鎌倉の町を歩き、とある寺の参道前で格好の被写体を見つけた。
被写体の邪魔になる車をどけてもらったことがきっかけで、瞳は42歳の独身男性・梶川(林隆三)と知り合った。
梶川のパーティに誘われた瞳は、石原貴子(秋川リサ)という女性の態度に嫉妬めいたものを感じた。
母の命日の墓参りから戻った瞳は、母と一緒に梶川らしい男が写っている写真を発見した。
看護婦をしている母の友人松浦純子(宮下順子)に会い、20年前に母と梶川はつきあっていたが、梶川は母と仕事をはかりにかけて母を捨てたのだと聞かされた。
複雑な気持で瞳は梶川と箱根へドライブをし、かつて母と梶川が写真を撮った同じ場所へ行く。
その夜、ワインを飲んですねる瞳を梶川は抱きキスをした。
それからしばらくして、瞳はかつて母と梶川がデートした思い出の喫茶店に彼を呼び出して詰問した。
夜、梶川は20年前の真相を語った。
母と彼は愛しあっていたが、母の友人も彼に恋していて、二人の仲を知ると絶望して自殺した。
それで、二人は結婚をあきらめたのだという。
同級生の真佐子(早瀬優香子)が教師の横谷と心中死し、その葬式の後、瞳と梶川は海岸を散歩し、梶川は今の会社をやめ、友人の会社に入ってやり直すと語った。
成田空港からアメリカにたとうとしていた梶川の前に瞳が現われた。
梶川は瞳に君を本心から愛してると言った。
新学期が始まり、経験しちゃったという麻子(仙道敦子)に、瞳はそれだけじゃ女になれないのよと答える。


寸評
当時角川三人娘ということで、薬師丸ひろ子、原田知世、渡辺典子の3人が有名だった。
澤井信一郎が前年にとった「Wの悲劇」が悪くなくって、こちらは薬師丸ひろ子が主演だった。
今回は同じく澤井信一郎が原田知世を使って撮りあげているのだが、しっとりしていて最後まで見てしまう出来栄えとなっている。
そうなんだけど、僕は最後まで見ている割にはどこか乗り切れないものを感じてしまう。
教師と恋に落ち心中してしまった真佐子の葬儀の場面が端的なのだが、原田知世の瞳、 仙道敦子の麻子、 早瀬優香子の真佐子は他の高校生と全く違う別世界に居るように感じてしまって、どうもしっくりしない。
原田知世を際立たせるためなのか、ヘアスタイルであるとか服装であるとかが高校生離れをしていると感じてしまって、普通の高校生はあんな服を着ないだろうとクレームをつけたくなってしまうのだ。
原田知世の役どころは写真部に属する高校生である。
ストーリーとしては、その高校生が亡き母の恋人だった男に恋をし、ホテルまで行くが最後の一線を越えずに帰ってきてしまい、最後はお互いの気持ちを確かめ合いながら別れていくという他愛のないものだが、僕には17歳の思春期の女の子の話に思えない。
原田知世を可愛く見せるために、僕には女子高校生という設定を壊してしまっているように思えてしまうのだが、原田知世ファンにとってはそこがいいのだろう。
麻子には大学生の恋人がおり、真佐子は通っている学校の先生とスキャンダルを起こしている。
僕の高校時代のクラスメートにも男性経験がありそうな女子が一人いて、僕たちは根拠もないそんな噂話をしていたのだが、大人びた雰囲気の子は確かにいた。
女子高の教師をしていた従兄から、同僚の家に一方的な恋心で押しかけた女の子がいたとも聞いた。
僕の担任だった英語の先生は教え子と結婚された。
ここで描かれた話はありそうな話ではある。
しかしどうも僕には絵空事のように感じてしまうところがあって、その為に乗ろ切れないのだろう。

瞳の父親は見合いだが一目ぼれして結婚している。
亡くなった妻がずっと思っていた男がいたことを知っていて、それが梶川だったとわかるシーンがある。
しかし、一生を通じて愛した人の存在を結婚相手に話すことなど絶対にない。
妻にとっては黙して語らない過去の想い出だったはずで、どうして父親はそのことを知ったのだろう。
ありえない事のように思うのだが、逆に梶川が瞳に話す「本当に好きなら、なかなか話せないものだ」という言葉はすごくよくわかるし、それが青春の恋だ。
瞳には父親の再婚話への抵抗もあり、認めてはいるものの再婚相手の女性への受け入れがたい気持ちもある。
二人のバトルは面白いと思ったが、本筋ではないので広がりを見せていない。
父親の再婚相手となる由紀さおりの登場シーンは多くないが、なかなかいい芝居を見せている。
ラストのナレーション的な会話。
「ついに経験しちゃった。女になったのよ、私」と言う麻子に、瞳は「経験だけじゃ、女になれないわよ」よ返す。
「なにそれ?」と聞く麻子に瞳は「私、過去のある女になったのよ」と答える。
これだけは原田知世に似合っていた。

捜索者

2021-05-04 06:58:52 | 映画
「捜索者」 1956年 アメリカ


監督 ジョン・フォード
出演 ジョン・ウェイン
   ジェフリー・ハンター
   ナタリー・ウッド
   ヴェラ・マイルズ
   ウォード・ボンド
   ラナ・ウッド

ストーリー
南北戦争に従軍したイーサンは終戦を迎えて3年後、テキサスで牧場を営む弟アーロンの許に戻る。
彼を出迎えたのはアーロン始めその妻マーサ、18歳の娘ルシイ、14歳になる息子ベン、9歳の娘デビー。
他にチェロキー族との混血で、一家がコマンチ族に皆殺しにされたため引取られた血気な若者マーティン・ボウレイの姿があったが、イーサンはハーフのマーティンに好感を持たないらしい。
翌日、牧師も兼ねるテキサス警備隊隊長サム・クレイトン大尉の一行がやって来る。
隣人の牧場主ジョーゲンセンの牛がインディアンに盗まれたので追跡するのだという。
イーサンとマーティンは隊に加わるが、出発した捜索隊は途中で牛泥棒は白人男子を家から誘い出すためのコマンチ族の仕業と知り、二隊に別れて引返す。
だが時遅く、エドワーズ一家は皆殺し、ルシイとデビーは誘拐されていた。
犯行はコマンチ酋長スカーと部下の仕業と判りコマンチ族を追跡したが劣勢のため退却。
復讐の念に燃えるイーサン、マーティンそしてルシイと愛し合っていた20歳になるブラッド・ジョーゲンセンの3人だけ追跡を続けることになった。
数ヵ月後、3人はコマンチ族に追いつき、イーサンはルシイの死体を発見したが祕かに埋葬。
だがインディアンの幕営地近くでそれを知ったブラッドは狂気のようにコマンチ族目掛けて馬を飛ばせ不運な最後を遂げた。
やがて捜索2年目も過ぎイーサンは、デビーとは血縁のないマーティンに平和な生活へ戻れとすすめたが、彼はきき入れない。
その頃、交易所を経営するファタマンから、報酬と引換えにデビーの居所を教えるといってくる。
デビーは酋長スカーと北方の保留地に向ったと聞いた二人は謝礼を払い直ちに出発。
だがその夜露営先に子分を連れたファタマンが襲来してきた。
はたしてイーサンは無事デビーを救いだすことが出来るのか・・・。


寸評
西部劇というジャンルでアメリカ映画協会が1位にあげたこともある作品で西部劇の傑作の一つとされている。
僕にはそれほどの作品とは思えないのだが、残酷な場面を避けた演出がアメリカの映画人に受け入れられているのかもしれない。
イーサンたちはコマンチ族に誘い出され、その間にアローン一家は女の子のルシイとデビーを除いて皆殺しにされたのだが、一家の殺戮場面はない。
燃え盛る家と小屋の中の様子を想像させるイーサンの態度で惨劇を想像させている。
連れ去られたルシイの結果も描かれることはなく、これもイーサンの態度と羽織っていたマントがないことでルシイの最後を示している。
イーサンが埋葬してやるシーンぐらいはあってもよさそうなのだが、そのシーンも割愛されている。
銃撃戦はあるがインディアンが大写しで殺される場面もない。
残酷なシーンはすべて取り除いていることがうかがえる。

デビー救出のためにイーサンとマーティンは何年にもわたる旅を続けるが、その間に決斗以外の西部劇の要素がくまなく盛り込まれていて、西部劇のおおよそが理解できる。
場所はおなじみのモニュメント・バレーで、奇岩が突っ立った西部劇ではおなじみの光景が拡がる。
南軍に属していたイーサンは頑固者だが頼りになる男だ。
先住民との混血であるマーティンを嫌っているようだが、マーティンは牧場主ジョーゲンセンの娘であるローリーと愛し合っている。
マーティンの帰りを待ちきれなくなったローリーはチャーリーという男と結婚式を挙げようとするが、そこにマーティンが帰ってきて男同士の大乱闘が起きる。
廻りの男たちも正々堂々と戦えとけしかけるし、女たちも男のたくましさを見るようで楽しそうだ。
ローリーは自分を争って二人の男が殴り合っている様子を楽しんでいるようで、西部の男と女を感じさせる。

イーサンはファタマンが襲ってくることを予期していて細工をするが、その時マーティンが知らないうちに囮にされていて、その時のやり取りも西部劇らしい。
インディアンの女が押しかけ女房になるのは他の作品でも見たことがあるが、彼女がコマンチの元に戻った理由は結局不明のままだった。
騎兵隊も登場するし、元大尉の牧師も登場して西部の男を演じている。
たくましい男たちが随分と登場するが、情けない男として唯一騎兵隊大佐の息子が出てきて和ませている。
デビーは大きくなっていてナタリー・ウッドがそれらしく演じていた。
ロッキングチェアに憧れる男なども登場し、息抜きパートを受け持っている。
イーサンたちが追跡する途中で、インディアンが埋葬されているシーンがあるが、死んでいるインデアン役のお腹が動いていて、石の蓋が明けられるまで息苦しかったのだろうと思わされた。
撮りなおすべきだったかもしれない。
古いタイプの西部劇だが、旅情をそそるような撮り方でハラハラドキドキの緊迫したシーンはないけれど入門編としては適当な作品だ。

草原の輝き

2021-05-03 07:35:55 | 映画
2020年9月16日から始めた「そ」ですが、今日から追加掲載です。

「草原の輝き」 1961年 アメリカ


監督 エリア・カザン
出演 ウォーレン・ベイティ
   ナタリー・ウッド
   パット・ヒングル
   ゾーラ・ランパート
   サンディ・デニス
   ショーン・ギャリソン

ストーリー
アメリカの中西部に暮らすバッド(ウォーレン・ベイティ)と、ディーン(ナタリー・ウッド)は高校3年生。
愛し合っているが、セックスに罪悪感を持つ母親(オードリー・クリスティ)の影響もあってディーンはバッドのすべてを受け入れるに至らない。
バッドの父である石油業者のエイス(パット・ヒングル)は息子がフットボールの選手であることが大自慢で、エール大学に入れたがっているが、バッドには父親の期待が心の負担になっている。
それにこの父は、理解あるように振舞うが本能的には暴君で、姉のジェニー(バーバラ・ローデン)が家出して堕落してしまい大学を追われたのも、このような父のいる家庭がたまらなかったからだ。
だからバッドの気持ちはひたむきにディーンに向かうのだが、彼女はそれを受けとめてくれない。
そんなことでイライラした気持を、バッドは折にふれて乱暴な行動で爆発させたりする。
そしてついに彼も同級生でコケティッシュな娘ファニタ(ジャン・ノリス)の誘惑に負ける。
青春の悩みに苦しんでいるディーンはこの事件でショックを受け、川に身を投げる。
救助に飛び込んだ人々のおかげで死を免れたディーンは精神病院に入院するが、そこで知り合ったジョニー(チャールズ・ロビンソン)という若い医師と婚約する。
一方、父の希望通りエール大学に入ったバッドは、勉強にも身が入らずアンジェリーナ(ゾーラ・ランパート)というつまらないイタリア娘と結ばれ、学校は退学寸前のところまでいっている。
ちょうどその頃、アメリカ社会では1929年の大恐慌がやってきた。
エイスは大打撃をかくして息子に会い、ニューヨークに誘ってコーラス・ガールをバッドの寝室に送り込んだりするが、その夜窓から飛びおりて自殺する。
やがて退院したディーンは、バッドが田舎へ引込んで牧場をやっていることを知り、訪ねて行く。
バッドはアンジェリーナとつつましく暮らしていたが、2人は静かな気持ちで再会し、そして別れた。


寸評
親の影響でやり場のない苛立ちを抱えている若者を描いた映画の一つだ。
バッドの父親は家庭においては強権的で息子に夢を託し、息子は父親の過度な期待に悩んでいる。
この父親に母親は意見を言うことが出来ない。
娘はそんな父親に反感を抱き、何かにつけて反抗的である。
一方のディーンは母親に支配されているようにも見える。
母親は夫を受け入れるのも子供を作る為だけだというような価値観の持ち主である。
いつまでも子供と思っていて、ディーンを「ベイビー」と呼んだりしている。
父親はそんな母親に遠慮してか、娘に対しては何も言わない。
二人の両親の子供に対する支配力は正反対で、描かれている構図は単純だ。

バッドの父親は石油採掘会社をやっていて、株価も値上がりしている成功者だ。
ディーンの父親はその会社の株を持っていて、株価の値上がりで資産が増えていくことを楽しみにしている。
娘の医療費を捻出するために虎の子の株を売却するが、売却すると同時に大恐慌が襲い株価は暴落する。
それまでスタンパー家に従属していたようなディーン一家の立場が逆転する。
バッドの父親が従業員たちと繰り広げる乱痴気騒ぎ的なパーティを描いていたことで、その逆転現象を印象付けているのだが、大恐慌を巡る悲喜こもごもとして見れば、その描き方は単純ではある。
父親の絶望感はニューヨークの酒場で荒れる姿がそうだったのかもしれないが表現されていたとは言い難い。
本筋とは関係ないから省略されたような結末を迎えている。
バッドをファ二タに奪い取られて錯乱するディーンの心情も深く切り込んでいるとは言えないような演出だ。
エリア・カザンの演出としては「欲望という名の電車」「波止場」「エデンの東」といった1950年代の作品の方が鋭かったような気がし、この作品ではそれらの作品に比べると少々切り込み不足を感じる。
バッドは念願の牧場をやっているが、それが父親の残した牧場だということなどもその一端だ。

それでも授業で使われていたワーズワースの詩がナレーションされるラストシーンはほろ苦くていいシーンだ。
「草原の輝きは消え去り二度と戻ってくることはないが、嘆くことはせず残されている物に力を見出そう」とナレーションされディーンが去っていくというものである。
青春はほろ苦い経験も随分させてくれるが、しかし明日を信じて進んでいくのも青春だったはずだ。

ディーンがバッドを訪ねる行為に僕は共感した。
自分の気持ちを確かめるためにも、自分が新しい伴侶と前に進むためにもケジメとして必要だったのだろう。
何となく終わってしまった恋の幻影だけが膨張し、別れた人への思いを抱き続けるようなことはないだろうから。
僕には反省を起こさせる結末だが、この時のナタリー・ウッドの表情が何とも言えず印象に残る。

僕はこの作品を学生時代に名画座でのリバイバル上映で見たのだが、見る前には大学生の話だとの先入観を持っていたのに、実際の導入部は高校生の話だった。
日本に比べてアメリカは随分と早熟社会なのだなあという印象を持ったことが思い出される。

善魔

2021-05-02 08:24:17 | 映画
「善魔」 1951年 日本


監督 木下恵介
出演 森雅之 三国連太郎 淡島千景
   桂木洋子 笠智衆

ストーリー
T新報社の社会部記者三國連太郎(三國連太郎)は、部長の中沼(森雅之)より、家出をした某官庁の官吏北浦氏(千田是也)の妻伊都子(淡島千景)の動静をさぐるように命じられた。
個人の私事に立ち入ることを潔しとしない連太郎も、渋々ながらまず長野原に隠棲する伊都子の父(笠智衆)を訪ね、伊都子の妹三香子(桂木洋子)の案内で久能山麓の親友の家にいる伊都子に会いその心境をきいた。
家出の理由は、ただ夫北浦と性格の合わないことを発見したからだという伊都子の説明のまま、連太郎は新聞に発表しないことを約して帰ったが、他の新聞社が「昭和のノラ」などと書き立てたので、連太郎もこの会見記を記事にした。
中沼は結婚前の伊都子とは友達でお互いに深い好意を持っていたので、この事件をあばき立てることを好まず、それが社長(中村伸郎)や編集長(宮口精二)は気に入らず左遷されようとした。
連太郎と三香子との間にはこの事件以来淡い恋が芽生えていたが、更にこの事以来、伊都子と中沼との間にも文通があり、中沼の心は再び伊都子にひきつけられて行った。
日頃肺の弱かった三香子が重態に陥ったとき、伊都子は静岡から長野原への途次中沼に遭い、その心を打ち明けられるが、北浦との離婚問題とそうしたことが一緒になって考えられるのは嫌だからと断った。
中沼はこれまで関係のあった女鈴江(小林トシ子)とも手を切ってしまった。
長野原に行っていた連太郎は、死前の三香子と結婚式をあげたいといって中沼を立会人に頼みに帰って見ると、中沼は社もやめ、北浦にも伊都子に対する気持ちをぶちまけてしまっていた。
連太郎は長野原へ同行してくれるのも伊都子に会いに行くためだろうと不満をもらすが、長野原についたときには、すでに三香子は安らかな永遠の眠りにはいってしまっていた。
しかし、連太郎の希望で、死せる花嫁との結婚式が、父了遠、伊都子、中沼の立ち会いで行われた。


寸評
「人間の善性とは本来己を守る事に精一杯で進んで悪に戦いを挑むようなものではない、つまり社会の澱みを失くす為には純粋な善性に悪の一面を持たせなければならない。この一面を魔性と呼び、善性と併せて善魔だ」という劇中の中沼の台詞がこの映画の全てだ。
人間の善性はもともと自分を守るのに精一杯で、進んで悪に戦いを挑み、打ち負かそうとする魔性がない。
善を実現するのに必要な魔性の力を持つ者が善魔だと言っている。
この映画で善魔たりえているのは三國連太郎であろう。
彼は桂木洋子に恋し、病に倒れて死亡した彼女と結婚式を挙げる純真さを持っている。
その純真さは、三國が信頼している森雅之を秘かに愛している小林トシ子に対する森雅之の態度が許せない。
三國の行為は狂気じみているほどのものなのだが、一方で千田是也が演じる大蔵官僚の汚職を突き止め、それをネタに淡島千景の離婚を取り付けるしたたかな面を見せる。
三國は汚職事件を報じることをしないのだろうか。
新聞記者として義姉の離婚と引き換えに事件を報じないのであれば、彼の正義はどこにあるのかと思ってしまう。

これがデビュー作の三國連太郎は得な役回りだが、魅力的なのは森雅之が演じる中沼のキャラクターだ。
彼は伊都子と学生時代からの友情で結ばれているが、心の内では伊都子への恋心をずっと抱いている。
伊都子は中沼の気持ちを知っていながら、別の男と結婚することを彼に伝える。
女には男の気持ちを知りながら、それをもてあそぶように別の男と結婚することを伝える残酷性があると思う。
一方の中沼にも小藤鈴江という女性がいて、三國には愛人だと紹介する。
その言い方を咎める三國には、そんなことを気にする女ではないと勝手な言い分である。
また中沼は長年の伊都子への愛を告白する決意を鈴江の前で述べる。
男も女も思いを寄せられている方はこうも残酷な態度を取れるものなのだろか。
それを聞いた鈴江の態度は受ける印象とかけ離れたいじらしいもので、いい人物に思えた中沼への嫌悪感が一揆に湧き上がる。
この感情は三國が尊敬すらしていた中沼への感情変化と同じものだ。
観客が三國と一致させた感情は最後の場面で活かされてくる。

三國と伊都子はふたりにあった過去の全てを容認し、表明してこなかった愛を結実させようとするが三國の言葉によって今まで通りに友情で結ばれていようということになる。
男と女が友情で結ばれる関係だが、おそらく今後の二人の感情は欺瞞に包まれた関係なのではないかと思う。
二人は長年抱いていたお互いの気持ちを吐露し合ったのだ。
友情で結ばれた関係を続けられるものだろうか。
ずっと想い続けて生涯を送ることになるのではないかと思う。
伊都子の夫である北浦から頭を下げてくれと言われて「お安いことだ」と言ってのけた中沼だが、鈴江を犠牲にしても伊都子を手に入れる事はしなかった。
彼は善魔たりえなかったのだろう。