普通ならこんなことは記事には書かないで放っておくのだが、当ブログ・サイトからもリンクを張っているので、一言触れておきたい。「のりこえねっと」による先日の橋下大阪市長と桜井在特会会長との「会談」を巡る声明についてである。
大阪でのヘイトスピーチ対策に関して
「のりこえねっと」の声明では「人種差別・ヘイトスピーチ対策を検討するにあたっては、被差別当事者であるマイノリティが受けている深刻な被害の実態調査や、行政と被差別当事者との間での意見交換こそ求められている。/ 私たちは、橋下市長がヘイトスピーチ対策に関しての被害当事者との市長面談を、現在に至っても行っていないことをきわめて遺憾におもう」とこの問題に対する大変妥当な見解が示されている。ぼくもこれこそがこの問題の核心だと思う。
ところがこの宣言の初めの方に書かれていることには同意できないし、正直言って失望した。
「この会談はおよそ「議論」の体をなしていなかったが、そのことを私たちはまったく問題としない」
(ヘイトスピーチは)「表現の自由の範疇に属するものではなく、相互に意見を交換して「議論」するべきものではない」
「ヘイトスピーチへの対抗言論を平穏にかつ効果的になすことは不可能に等しい」
としてヘイト団体との議論の可能性を全面否定し、
「橋下市長から、桜井誠に対し、「おまえみたいな差別主義者は大阪にはいらない」「民族をひとくくりにして語るな」等、在特会の主張が差別にあたることが明言された」
「ヘイトスピーチを「やめろ」という正義の言明がなされたことを歓迎する」
「橋下市長の口調が穏当と呼べるものではなかったということに関しても、私たちは問題としない」
と、橋下氏を全面的に肯定している。
確かにヘイト団体との議論は不可能に近い。だからたとえば橋下氏が町中で突然ヘイト団体から話しかけられたのだったら、こうした評価は正しいと思うが、問題なのは、この会談を設定したのはそもそも橋下氏自身だったという点である。
これについて「のりこえねっと」も、
「行政の長による人種差別・ヘイトスピーチ禁止の宣言が、レイシズム団体の長を大阪市役所内に招いて行われる必要はまったくない」
と述べているが、しかしこの「会談」を「行政の長による人種差別・ヘイトスピーチ禁止の宣言」の場であると評価している点は納得しがたい。これはおそろしい誤解というか、むしろねつ造だ。わざわざ桜井会長を招いて彼の持論を詰めかけたマスコミの前で主張させたのは、むしろヘイトスピーチを公の場で宣伝することに力を貸したとさえ言える。橋下氏はいつでもどこでも自由に「人種差別・ヘイトスピーチ禁止の宣言」の場を選べるのだから、ここにはそんなこととは全然違う目的があったと言うしかないのだ。
それはマスコミでも一般のネット・ユーザーでも、みんなが見抜いているのに、あえて「のりこえねっと」がこのような評価をするのは何故なのか。
それはつまり、ヘイトスピーチとナショナリズムを切り離そうという意図があるとしか考えられないのである。桜井会長のヘイトスピーチは許されないが、橋下氏のナショナリズムは良いということにしたいのではないのか。
当然のことだが、ヘイトスピーチはレイシズムと切り離すことが出来ず、レイシズムはナショナリズムと切り離すことが出来ない。これらの根は一緒のところにある。だからこそ在特会の桜井会長は「会談」の席で執拗に、
「ヘイトスピーチについておうかがいできます?」
「朝鮮人を批判することがいけないって、あなたは言ってるわけ?」
(参政権のない在日に言ってもしかたがないと言う橋下氏に対して)「その参政権を求めてるだろ彼らは」
「特別永住制度なくしたらどうなるかわかるだろ」
「おまえも日本人の代表だったら少しくらい言えよ、韓国人に」
「なんで差別主義者なんだ、教えてくれるか?」
「韓国人がみんな差別主義者か答えろよ」
などと、橋下氏のナショナリズム観を問うているのだ。桜井氏は本質的な部分で橋下氏が桜井氏の問うナショナリズムを否定することが出来ないことを知っている。そして事実、橋下氏はこうした桜井氏の質問に対して何一つ反論をしていないのである。橋下氏が言い得たのは「個人を特定して言え」(特定したら良いのか?)、「国会議員に言え」(自分が国会政党の党首であるにも関わらず!)、「選挙に出ろ」、「施設管理権は大阪市長にある」くらいのことだ。
橋下氏は「朝鮮人を批判することがいけないのか」と問われたとき、はっきりと「いけない」と言うべきだった。なぜなら、いかなる問題であっても批判の対象にされるのは政治であり、民族であってはならないからだ。それを橋下氏は言い切ることが出来なかった。そこに橋下氏の思想がはっきりとあぶり出されている。
「のりこえねっと」の声明は、この「会談」の翌日に橋下氏が「特別扱いというのは、逆に差別を生む」「ヘイトスピーチ対策として、特別永住資格の見直しを考える」と発言したことに対して、「特別永住資格は何ら「特権」ではない。したがって、ヘイトスピーチ対策と在日韓国・朝鮮人の特別永住資格とには何の関係もない」と当然の批判をしている。だが「のりこえねっと」はここでも(橋本市長は)「結果的に差別主義者たちの悪質なデマを助長した」と寛容である。どう聞いても橋下氏と桜井氏の発想は同じではないか。なぜそのことを批判しきれないのか。どうしても「のりこえねっと」はヘイトスピーチはナショナリズムのせいではない、ナショナリズムとヘイトスピーチは違うと言いたいのではないのか。
こうなってくると、「のりこえねっと」がヘイトスピーカーとの議論は不可能だと言っている意味そのものにも疑念を抱かざるを得なくなってくる。すなわち理性的な会話が成り立たないのではなく、対等に議論したら相手の論理に同意せざるを得ないから議論できないという意味なのではないのかとさえ、思えてしまうのだ。
問題を本質的に、自分たち日本人のナショナリズムの問題として自らの痛みを伴って切開できないとしたら、「のりこえねっと」は「結果的に」ヘイトスピーチを表面的に覆い隠すだけの、イチジクの葉でしかなくなるかもしれない。そのことを、ぼくは危惧する。
大阪でのヘイトスピーチ対策に関して
「のりこえねっと」の声明では「人種差別・ヘイトスピーチ対策を検討するにあたっては、被差別当事者であるマイノリティが受けている深刻な被害の実態調査や、行政と被差別当事者との間での意見交換こそ求められている。/ 私たちは、橋下市長がヘイトスピーチ対策に関しての被害当事者との市長面談を、現在に至っても行っていないことをきわめて遺憾におもう」とこの問題に対する大変妥当な見解が示されている。ぼくもこれこそがこの問題の核心だと思う。
ところがこの宣言の初めの方に書かれていることには同意できないし、正直言って失望した。
「この会談はおよそ「議論」の体をなしていなかったが、そのことを私たちはまったく問題としない」
(ヘイトスピーチは)「表現の自由の範疇に属するものではなく、相互に意見を交換して「議論」するべきものではない」
「ヘイトスピーチへの対抗言論を平穏にかつ効果的になすことは不可能に等しい」
としてヘイト団体との議論の可能性を全面否定し、
「橋下市長から、桜井誠に対し、「おまえみたいな差別主義者は大阪にはいらない」「民族をひとくくりにして語るな」等、在特会の主張が差別にあたることが明言された」
「ヘイトスピーチを「やめろ」という正義の言明がなされたことを歓迎する」
「橋下市長の口調が穏当と呼べるものではなかったということに関しても、私たちは問題としない」
と、橋下氏を全面的に肯定している。
確かにヘイト団体との議論は不可能に近い。だからたとえば橋下氏が町中で突然ヘイト団体から話しかけられたのだったら、こうした評価は正しいと思うが、問題なのは、この会談を設定したのはそもそも橋下氏自身だったという点である。
これについて「のりこえねっと」も、
「行政の長による人種差別・ヘイトスピーチ禁止の宣言が、レイシズム団体の長を大阪市役所内に招いて行われる必要はまったくない」
と述べているが、しかしこの「会談」を「行政の長による人種差別・ヘイトスピーチ禁止の宣言」の場であると評価している点は納得しがたい。これはおそろしい誤解というか、むしろねつ造だ。わざわざ桜井会長を招いて彼の持論を詰めかけたマスコミの前で主張させたのは、むしろヘイトスピーチを公の場で宣伝することに力を貸したとさえ言える。橋下氏はいつでもどこでも自由に「人種差別・ヘイトスピーチ禁止の宣言」の場を選べるのだから、ここにはそんなこととは全然違う目的があったと言うしかないのだ。
それはマスコミでも一般のネット・ユーザーでも、みんなが見抜いているのに、あえて「のりこえねっと」がこのような評価をするのは何故なのか。
それはつまり、ヘイトスピーチとナショナリズムを切り離そうという意図があるとしか考えられないのである。桜井会長のヘイトスピーチは許されないが、橋下氏のナショナリズムは良いということにしたいのではないのか。
当然のことだが、ヘイトスピーチはレイシズムと切り離すことが出来ず、レイシズムはナショナリズムと切り離すことが出来ない。これらの根は一緒のところにある。だからこそ在特会の桜井会長は「会談」の席で執拗に、
「ヘイトスピーチについておうかがいできます?」
「朝鮮人を批判することがいけないって、あなたは言ってるわけ?」
(参政権のない在日に言ってもしかたがないと言う橋下氏に対して)「その参政権を求めてるだろ彼らは」
「特別永住制度なくしたらどうなるかわかるだろ」
「おまえも日本人の代表だったら少しくらい言えよ、韓国人に」
「なんで差別主義者なんだ、教えてくれるか?」
「韓国人がみんな差別主義者か答えろよ」
などと、橋下氏のナショナリズム観を問うているのだ。桜井氏は本質的な部分で橋下氏が桜井氏の問うナショナリズムを否定することが出来ないことを知っている。そして事実、橋下氏はこうした桜井氏の質問に対して何一つ反論をしていないのである。橋下氏が言い得たのは「個人を特定して言え」(特定したら良いのか?)、「国会議員に言え」(自分が国会政党の党首であるにも関わらず!)、「選挙に出ろ」、「施設管理権は大阪市長にある」くらいのことだ。
橋下氏は「朝鮮人を批判することがいけないのか」と問われたとき、はっきりと「いけない」と言うべきだった。なぜなら、いかなる問題であっても批判の対象にされるのは政治であり、民族であってはならないからだ。それを橋下氏は言い切ることが出来なかった。そこに橋下氏の思想がはっきりとあぶり出されている。
「のりこえねっと」の声明は、この「会談」の翌日に橋下氏が「特別扱いというのは、逆に差別を生む」「ヘイトスピーチ対策として、特別永住資格の見直しを考える」と発言したことに対して、「特別永住資格は何ら「特権」ではない。したがって、ヘイトスピーチ対策と在日韓国・朝鮮人の特別永住資格とには何の関係もない」と当然の批判をしている。だが「のりこえねっと」はここでも(橋本市長は)「結果的に差別主義者たちの悪質なデマを助長した」と寛容である。どう聞いても橋下氏と桜井氏の発想は同じではないか。なぜそのことを批判しきれないのか。どうしても「のりこえねっと」はヘイトスピーチはナショナリズムのせいではない、ナショナリズムとヘイトスピーチは違うと言いたいのではないのか。
こうなってくると、「のりこえねっと」がヘイトスピーカーとの議論は不可能だと言っている意味そのものにも疑念を抱かざるを得なくなってくる。すなわち理性的な会話が成り立たないのではなく、対等に議論したら相手の論理に同意せざるを得ないから議論できないという意味なのではないのかとさえ、思えてしまうのだ。
問題を本質的に、自分たち日本人のナショナリズムの問題として自らの痛みを伴って切開できないとしたら、「のりこえねっと」は「結果的に」ヘイトスピーチを表面的に覆い隠すだけの、イチジクの葉でしかなくなるかもしれない。そのことを、ぼくは危惧する。
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