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自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

ノーベル賞授賞式の報道を見て

2014年12月11日 11時06分41秒 | Weblog
 高校生の頃だったと思うが、NHK教育テレビ(現Eテレ)で夕方に子供向けの科学技術番組が放送されていた。たとえば電子工作技術とか、工芸技術とか、具体的に言えば自由基盤にトランジスターなどをハンダ付けして電子回路を作るとか、銀蝋付けをしてアクセサリーを作るとか、そういうやり方を紹介する番組だった。
 そのころはビデオ・レコーダーは高級品で、とてもうちで買えるような物ではなかったので、ぼくは学校から急いで帰り、テレビの前のちゃぶ台で、広告の裏をメモ用紙にして一所懸命ノートを取った。実際には道具や材料自体を手に入れる場所もおカネも無かったから、実際にそれを作ることはなかったのだが、科学工作とか工芸とかがとにかく好きだったのだ。今でも家の収納家具の三分の一はDYIだし、デスクトップパソコンは基本的に自作している。いま飾っているクリスマス・デコレーションのいくつかも手作りである。

 その番組の中で初めて発光ダイオードというものを知った。当時最新の画期的アイテムだった。きれいでかっこよく意味もなく使ってみたいと思ったものだ。たしか色は赤しか無かったので、だからぼくのイメージの中では発光ダイオードは赤である。
 やがて発光ダイオードはLEDと呼ばれるようになり、ある時あり得ないと言われていた青色LEDが突然のように登場した。もうそのころには電子工作をする状況でもなかったので、別に欲しいとは思わなかったが、20世紀の科学技術の進歩の速度のすさまじさを感じたものだ。
 また中村修二教授をディスってると言われるのも困るので、初めに言っておくが、科学技術が進歩すること自体に異議はない。問題はその技術に対して人間の意識、思想、社会がちゃんと追いつき、バランスがとれている必要があるということなのだ。

 今回のノーベル賞は、もしかすると一番印象深かったかもしれない。ひとつはLEDという身近な自分史に重なるところのある技術開発が対象になったこと。またマララ・ユスフザイ氏というマルクス主義者が、しかも最年少で平和賞を受賞したこと。そして、もし文学賞で村上春樹氏が受賞していたら今の日本と世界の状況について何を世界に向けて語ったろうかということ。更になにより「平和憲法を守りぬいた日本国民」が平和賞を受賞していたら、この状況下で安倍総理はいったいどうしたろうかと考えるのである。

 日本のマスコミは、スウェーデン国王主催の晩餐会で天野浩教授夫妻がダンスをするかしないかという誠に平和な取材に奔走していたが、一方の平和賞授賞式のノルウェーでは武装した警備隊が厳戒態勢を取るという緊迫した状況にあった。非常に皮肉な話である。
 平和賞では自分の命をかけて人々の平等を求める人達が銃に守られており、物理学賞ではアメリカ的金儲け主義社会を礼賛する人が豪華な祝宴の中にいる。もちろんある年にはそれが全く逆の場合もあるわけだが、今年は内外の情勢を考えるとこの授賞式の風景が、とりわけ何かを示唆しているように思えたのである。

 実は数日前にウィーンで開かれていた「核兵器の人道的影響に関する国際会議」で、日本の佐野利男軍縮大使は、これまでの同会議で確認されてきた「核兵器の爆発時には対応できないほど悲惨な結果を招く」という見解に対して反対し、「悲観的過ぎる。少し前向きに見てほしい」と発言していた。
 佐野氏の主張は、核爆発後に現場に入って救助活動などの対応をすることは可能で、それをあらかじめあきらめるなということのようだが、それはつまり核兵器は使いうる、使っても(もしくは使われても)なんとかなるということである。核兵器でさえない福島原発事故がどうにもならない状況にあるのに、そしてもちろんあの広島と長崎の悲劇を知っているはずなのに、なぜ核廃絶を話し合うべき場で核使用を前提にした話をするのか、全く理解に苦しむと言うしかない。
 しかもこの問題はマスコミでほとんど取り上げられていない。

 さらにその数日前には、沖縄で退任を四日後に控えていた仲井真前知事が、突如、防衛省の辺野古基地建設に関する工法変更申請を承認してしまうという暴挙に出ていた。このことは大変な事件であって、有権者の民意を全くないがしろにした、民主主義と選挙の意味を失わせかねない重大な不祥事である。しかし少なくとも本土の反応はあまりにも悪すぎる。

 繰り返すが、ぼくは日本人学者がノーベル賞を受賞したことを否定的に捉えているわけではない。しかし、もしかしたら今、青色LEDで飾られた夜間ライトアップの話題より、日本の戦争と平和のあり方への重い問いかけが突きつけられていたかもしれないのだ。というより、突きつけられているのに、それをことさら無視するような状況になっているのだ。
 朝日新聞の記事によると今回の選挙を取り上げるテレビ番組が激減しているという。前回の選挙時と比べて1/3だそうだ。背景には自民党によるマスコミへの強い圧力がある。小泉郵政改革選挙の時には異様なほどマスコミを利用し、憲法改悪に向けては黙らせるという、このようなあり方が民主主義なのか。これでよく日本政府は韓国の朴大統領のメディア封じを批判できたものだとも思ってしまう。
 ノーベル賞はある意味で日本の平和主義に見切りを付けたのだと言えるかもしれない。見限られてもしかたがない。しかたがない状況に日本はあるが、しかし我々は日本に住んで生きていて、金持ちのように逃げ出すこともできない以上、見限ることさえできないのだ。

 青色LEDの開発によって可能となったLED電球は、まだ相当に高い。正直に言うが、ぼくにはまだ買えない。しかたなく電球型蛍光灯を買っている。しかしもちろんLEDは地球環境と人類の将来のためには重要な技術である。自分のことを棚に上げて言うのも気が引けるが、未来のためにいま痛みを引き受けないと先には破滅しかないのである。
 耳に当たりの良い言葉を並べ立てて、あり得るはずのない幻想の繁栄を訴える政治家たちに踊らされることなく、いま自分自身に対して厳しい、受け入れづらいオルタナティブだとしても、正しい判断をしなくてはならない。戦前の愚かな過ちを繰り返してはならない。

 それだけだ。
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1 コメント

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訂正 (仮名Z)
2014-12-12 09:24:02
記事中に舞踏会が行われるのは国王主催の晩餐会であるように書きましたが、どうも晩餐会は複数回行われたようです。舞踏会が行われたのはノーベル財団主催の晩餐会であるという報道もありましたので、お詫びして訂正します。
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