ボキャブラリーがとぼしいので、なかなか的確な言葉を使うことができない。
しかもこのブログは特定の人に対して書いているわけではないので、厳密な概念規定をすると少し変かなと思っても、なるべくわかりやすい言葉遣いをしたいと考えている。
よく「日本人」とか「国民」という言葉を使うのだが、細かいことを言えばこうした言葉も「民族」とか「国家」の存在を前提しているのかどうかに関わってくるだろうし、ぼくはこのブログではいわゆる差別語と考えられている言葉を使うこともある。その一方で他にうまく表現できる言葉が無い場合は、哲学や思想の分野で使う言葉や特定の運動圏で使われるような言い方をするときもある。
どの場合もできるだけ短いフレーズで一番言いたいことが伝わるような言葉を探していった結果選択しているのだが、本当にいつももっとボキャブラリーがあったらなあと思うのである。
さて、そうした中でぼくはしばしば「腐っている」という言葉を使っている。だが本当のことを言えばこういう比喩はわかったようでわからない言葉だ。
ぼくが誰かのことを指して「腐っている」と評するのは、自分で自分を規定できない人の場合である。自分を棚に上げる人のことである。他人を批判する基準と自分を律する基準の違う人、身勝手でご都合主義なことを平然とやる人のことを非難しているのだ。
もちろんこういう人の中には、そうした自分の矛盾に気づかない「無邪気」な人もいるだろう。悪気が無い人を罵倒するのは気の毒だ。しかし、わかった上でやっている厚顔無恥な人もいるだろうし、ある程度の教養があるなら、自分の言っていることが矛盾しているかどうかに気づけなくてはならないと思う。
とは言え。
そもそも人間は矛盾的存在だ。人はなにも整合性を図ろうと生きているわけではない。ぼく自身がそうだ。偉そうなことを言える立場ではない。
だからぼくはなにも人が矛盾したことを言ってはいけないと思っているわけではないのだ。むしろ文学・文芸は人間に矛盾が無ければ成立しないし、書かれる意味も無い。
極端な言い方をすれば人間は誰しも腐ったところを持っている。そして、そのことを自分でもわかっているのに様々な理由で表向き誤りを認められない人だって沢山いるはずだ。
しかしそれでも問題なのは権力を持った人間が、権力を行使しうる立場の時に「腐った」言動をすることである。たとえば政治家が政治の世界において、柔道連盟の理事が柔道の選手たちに対して、大国の指導者が小国の民衆に向かって、社長が社員に、「腐った」言動を行うことは許せない。
何の権力も権威も無いそこらの親父が飲み屋で矛盾したこと恥ずかしいことを怒鳴ったところで、それは多少迷惑かもしれないが、別にかまわないし、むしろ人間らしくて良いかもしれない。
ぼくもこのブログを含めて、いつも矛盾したことを言ったり書いたりしている。それは恥ずかしいことだし反省もする。ただ時には人間としては仕方のない矛盾もあると開き直ることもある。
もっともぼくには何の権力もないし、いつぞやどなたかがコメントしてくれたみたいな橋下氏を「陥れる」ような能力も影響力も無い。その意味ではこんな辺鄙なブログでぼくが何を書こうが誰の毒にも薬にもならないだろう。
それは本当を言えばとても残念なことである。腐ることさえ出来ずに干からびていくだけだからだ。
しかもこのブログは特定の人に対して書いているわけではないので、厳密な概念規定をすると少し変かなと思っても、なるべくわかりやすい言葉遣いをしたいと考えている。
よく「日本人」とか「国民」という言葉を使うのだが、細かいことを言えばこうした言葉も「民族」とか「国家」の存在を前提しているのかどうかに関わってくるだろうし、ぼくはこのブログではいわゆる差別語と考えられている言葉を使うこともある。その一方で他にうまく表現できる言葉が無い場合は、哲学や思想の分野で使う言葉や特定の運動圏で使われるような言い方をするときもある。
どの場合もできるだけ短いフレーズで一番言いたいことが伝わるような言葉を探していった結果選択しているのだが、本当にいつももっとボキャブラリーがあったらなあと思うのである。
さて、そうした中でぼくはしばしば「腐っている」という言葉を使っている。だが本当のことを言えばこういう比喩はわかったようでわからない言葉だ。
ぼくが誰かのことを指して「腐っている」と評するのは、自分で自分を規定できない人の場合である。自分を棚に上げる人のことである。他人を批判する基準と自分を律する基準の違う人、身勝手でご都合主義なことを平然とやる人のことを非難しているのだ。
もちろんこういう人の中には、そうした自分の矛盾に気づかない「無邪気」な人もいるだろう。悪気が無い人を罵倒するのは気の毒だ。しかし、わかった上でやっている厚顔無恥な人もいるだろうし、ある程度の教養があるなら、自分の言っていることが矛盾しているかどうかに気づけなくてはならないと思う。
とは言え。
そもそも人間は矛盾的存在だ。人はなにも整合性を図ろうと生きているわけではない。ぼく自身がそうだ。偉そうなことを言える立場ではない。
だからぼくはなにも人が矛盾したことを言ってはいけないと思っているわけではないのだ。むしろ文学・文芸は人間に矛盾が無ければ成立しないし、書かれる意味も無い。
極端な言い方をすれば人間は誰しも腐ったところを持っている。そして、そのことを自分でもわかっているのに様々な理由で表向き誤りを認められない人だって沢山いるはずだ。
しかしそれでも問題なのは権力を持った人間が、権力を行使しうる立場の時に「腐った」言動をすることである。たとえば政治家が政治の世界において、柔道連盟の理事が柔道の選手たちに対して、大国の指導者が小国の民衆に向かって、社長が社員に、「腐った」言動を行うことは許せない。
何の権力も権威も無いそこらの親父が飲み屋で矛盾したこと恥ずかしいことを怒鳴ったところで、それは多少迷惑かもしれないが、別にかまわないし、むしろ人間らしくて良いかもしれない。
ぼくもこのブログを含めて、いつも矛盾したことを言ったり書いたりしている。それは恥ずかしいことだし反省もする。ただ時には人間としては仕方のない矛盾もあると開き直ることもある。
もっともぼくには何の権力もないし、いつぞやどなたかがコメントしてくれたみたいな橋下氏を「陥れる」ような能力も影響力も無い。その意味ではこんな辺鄙なブログでぼくが何を書こうが誰の毒にも薬にもならないだろう。
それは本当を言えばとても残念なことである。腐ることさえ出来ずに干からびていくだけだからだ。
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