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ドストエフスキー「白痴」を読む(その1) 

2024年02月06日 | 読書

ドストエフスキー(1821~1881)の「白痴」(上・下)(中山省三郎原訳、上妻純一郎編集改訳)をKindleで読んだ。この小説はドストエフスキーの五大長編と言われる作品の1つで、他には「罪と罰」、「悪霊」、「未成年」、「カラマーゾフの兄弟」がある。私は「罪と罰」、「悪霊」、「カラマーゾフの兄弟」は読んだことがあり、「カラマーゾフの兄弟」は複雑なストーリーなので2度読んだ。この3つの長編作品はいずれも面白かった。そこで未読の作品にも挑戦してみようと思い、映画にもなっている「白痴」を選んでみた。1日1時間、この作品の読書に充てたが、読めない日もあるので読了するのに2ヶ月かかった。

この本で白痴という言葉の意味について、ウィキで調べると「題名の『白痴』には2つの意味がある。主人公ムイシュキン公爵が文字通り知能が著しく劣っているというものと、「世間知らずのおばかさん」という意味である。しかし、作者はどちらの意味においても否定的に描いていない」と書いてある。読んだ限りでは前者の定義で白痴が使われているようには思えなかった。さらに本書を読むと白痴は癲癇という病気の意味でも書いている。癲癇とは「大脳の神経細胞が過剰に興奮することで発作症状を引き起こす慢性的な脳の疾患」とされており、この物語中でもムイシュキンン侯爵は癲癇の発作を起こすし、少年の頃、スイスで癲癇療養のために過ごしたことが書いてある。

侯爵の発作について上巻で彼自身の思索として次のような話をしている、「発作が始まろうとする際どい一瞬に到達する一刹那が訪れ、時を超越する人生最高の調和、美が訪れ、この一刹那のためなら一生涯を捨ててもかまわないと思った、結果的には白痴、愚昧、精神的暗黒が突き立つ。ただ、この過程には誤謬があり、結局これは病気ではないか、と思うが結局侯爵はそうとは考えずに、これこそ人生最高の総合と考えた」。そして、この発作が最後の場面で出て侯爵はまたスイスで療養することになる、その伏線を物語の前半でちゃんと書いているように思えた。

ドストエフスキーは、この作品の主人公、白痴のムイシュキンン侯爵を「無条件に美しい人間」として描こうとした、とその手紙の中で述べているとこの本の解説に書いてある。

若い公爵レフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキンは、幼時から重度の癲癇症状により、スイスのサナトリウムで療養していたが、成人して治って故郷のロシアに戻る。帰国する列車でロゴージンと知り合い、彼が熱を上げているナスターシャ・フィリポヴナを知る。ロシアでは遠縁を頼ってエバンチン将軍家を訪ね庇護を求め、エバンチン家と付き合いのある落ちぶれた将軍イヴォルギンの経営するアパートに住む。物語はこの侯爵、ロゴージン、ナスタージャ、エバンチン家の人々、イヴォルギン家の人々を中心に侯爵とナスタージャ、侯爵とエバンチン家三女のアグラーヤの関係などを巡る人間模様を描くもの。

ドストエススキーの長編小説を読むとき、登場人物が多いので、最初に登場人物の関係図を作り、それを見ながら読み進めないと何が何だかわからなくなる。今回もエバンチン家、イヴォルギン家、その他と3枚の人物関係図をメモにして読んだ。また、ロシアの小説は人物の呼び方が1人1つでなく、何通りもの呼び方がある。それが小説の中で脈絡もなく出てくるので、その点もメモに書き加えて読まないとわからなくなる。例えば、イヴォルギン将軍の息子のガーニャはガブリーラ・アルダリとも呼ばれるし、ガーネチカとも呼ばれる。

2ヶ月もかけて読了した結果だが、内容的には最後の方でどんでん返しとも言える劇的な展開もありゾクゾクするところもあったが、全体的に冗長な感じを受け、読み進めながら「この小説の何がそんなに面白いのだろうか?」と言う感想を持った。登場人物が多いので、それぞれの人物がいろんなエピソードを話すのだけど、その話の内容が本筋に関連がないと思われるものが多く、何でそんなエピソードを語らせるのか理解できない部分も多かった。例えば、次のような話だ。

  • 侯爵のスイスでの療養時の体験、ギロチンの死刑を見た経験、マリイという少女の話
  • レーベジェフの家で彼の甥の青年の長々とした話
  • ロゴージンの家に侯爵が訪ねたときにロゴージンが話す長々とした話(神を信じるか否かの話)

私の印象では、この小説の長さは半分くらいでも充分ではないかと感じた、従って、読んでいる途中から退屈になってきた。無理に長編にしているのではないか、という気がした。

(その2・完)に続く