犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

苦境にあっても天を恨まず

2011-05-08 11:49:10 | 日記

東日本大震災で大きな被害を受けた気仙沼市階上中学校で読まれた卒業生の答辞が大きな反響を呼んでいます。
同級生の多くを震災で失ったこの卒業生代表は、防災教育で知られた学校にもかかわらず多くの被害者を出さざるを得なかったことは、辛くて悔しくてたまらないと述べます。そして震災は「天が与えた試練というには惨すぎるものでした」と声を詰まらせます。
そして続けてこう述べるのでした。

しかし苦境にあっても天を恨まず、運命に耐え助け合って生きていくことが、これからの私達の使命です。

15歳の少年のこの志が、やがて大きな実を結ぶことを心から祈ります。
そして、この少年をとらえたどうしようもない孤独に思いを致し、そこに常に立ち返る覚悟を共有したいと思います。

理不尽な試練を与える「天」について、天を恨まぬことについて、この少年の姿を見ていると、『創世記』に記されたイサク奉献を思い起こします。
『創世記』のイサク奉献の話はさまざまに解釈されてきました。
アブラハムに対して神は「なんじのひとり子イサクを燔祭に捧げよ」と命じます。アブラハムは、それがただの聞き間違いなのか、あるいは比喩なのかを確かめる術もありません。ましてやその善悪について判断しうる立場ではないことを十分に知っています。彼は全き孤独のうちに神の言葉を引き受けるしかありません。
この、どうしようもない被投性こそが宗教の本質であるとも言われてきました。

しかし、こう考えることもできます。創世記では神の使いはアブラハムを「神を畏れるもの」として称え、イサクを生贄に捧げることを止めさせました。これがもし、アブラハムが息子を殺し、エホバがその信仰を義とされた、というふうに書きつづられていたら。あるいは、アブラハムは主の命令に背いてイサクをモリヤ山に連れて行かなかった、と書きつづられていたら。
いずれの記述も聖書の記述としては、ありえなかったでしょう。アブラハムにはなにがしかの納得をもたらしたとしても、聖書の読み手には決して開かれることのないエピソードになったはずです。

それでは、イサク奉献はどのようにわれわれに「開かれている」のでしょうか。それはアブラハムの善意や道徳や親子の情やその他もろもろのものには「外側」がある、という被造物としての宗教的覚知と、アブラハムはそれでも前述のもろもろのものを守って、「正しく生きよ」という倫理的命令を同時にわれわれに理解させる、ということなのだと思います。「正しく生きよ」とは「内側」のしがらみとは隔絶されたところで「外側」からの声に、ひとりで引き受けざるを得なかった、自らに向けての命令です。

気仙沼の15歳の少年は「天を恨まず、運命に耐え助け合って生きていくことが、これからの私達の使命です」と述べました。理不尽な天のふるまい前で、少年はたったひとりでそう決意しなければならなかったのです。彼の背負ったどうしようもない孤独を、何度も何度も思い浮かべてみたいと思います。そしてそれでも「よりよく生きよう」と試みる少年の存在を、心の励みにしてゆきたいと思います。


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