犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

コロナ禍と「ふれる」こと

2020-11-03 10:42:42 | 日記

来年の初釜茶会は「各服点」の作法で行うと、師匠からお話がありました。
各服点(かくふくだて)とは、濃茶碗を主客から次客、三客へと手渡しで回し、同じ茶碗の濃茶を一緒にいただくのではなく、次客以降の客に対して水屋で点てて用意したお茶を、亭主が「長盆」に乗せて「各服」で客に差し上げるという作法です。
約百年前、十三代宗匠圓能斎が考案したもので、当時大流行していたスペイン風邪の感染を懸念して回し飲みを避ける方法として、広く使われたのだそうです。また、欧米並みの衛生環境を急速に整えていた当時の我が国の風潮に、回し飲みという行為自体が適応しづらくなったという側面もあったのだといいます。

コロナ禍において、かつての疫病の際に編み出された知恵を活用することは、良いことだと思います。茶事の伝統をどのようなかたちであれ途切れさせまいという気概は尊いものだと考えています。しかし、各服点が公衆衛生の観点から今後のスタンダードになることはないでしょう。亭主の点てたお茶を客全員が共有することで生まれる、いわば茶席の場が「同期する」ような関係が削ぎ落とされてしまうからです。

言わずもがなのことを言ってしまったのは、いまの「非接触」の流れが、あたかも社会のスタンダードのように大手を振って歩いているように見えるからです。タッチレス操作パネルや非接触スイッチは、医療・介護の現場や食品工場などで次々と導入され、顔認証による自動ドアやセキュリティゲートもマンションや公共施設で取り入れられるようになっています。当然これらのビジネスに関わる企業の株価は急伸しています。
この「非接触」というものの無条件の受け入れられ方に、わたしは空恐ろしいものを感じるのです。

そんな中、「接触する」ことについて、みずからの研究をもとに深く考察をめぐらせた『手の倫理』(伊藤亜紗著 講談社選書メチエ)に出会いました。5年前に出版された『目の見えない人は世界をどう見ているのか』( 光文社新書)で、わたしはまさに蒙を啓かれた思いで、当ブログでも紹介させてもらいました。目の見えない人に寄りそってものを考えるなどということではなく、およそ人が生きてものをとらえるとは、どういうことかを知らしめてくれる、良書でした。

伊藤さんは、この最新著で「さわる」ことと「ふれる」ことを分けて考えることからはじめます。「さわる」ことは物としての特徴や性質を確認したり、味わったりすることであるのに対し、「ふれる」ことは人との相互作用が含まれています。そこにいのちをいつくしむような人間的なかかわりがある場合には「ふれる」であり、「ふれ合い」に通じていきます。
伊藤さんは、コロナ禍の非接触の流れを指して、次のように述べています。

もしかしたら私たちは今、「さわる」を避けようとして「ふれる」まで捨ててしまうような、そんな「産湯とともに赤子を流し」つつある時代に生きているのかもしれません。

伊藤さんの話は、研究成果や実体験を交えて行きつ戻りつするタイプの論の進め方で、決して抽象論に走るものではありません。そこで彼女の考えをそのまま追うことはここでは避けて、わたしが感銘を受けた箇所のピックアップにとどめたいと思います。

海外滞在から帰国して、伊藤さんが一番違和感を覚えたのが「多様性キャンペーン」だったそうです。街中をおおう「多様性」という語と、実態として進む分断を見ていると、誰もが演技をしているように見えてゾッとしたと述懐しています。言葉だけの「多様性」ならば、「それぞれの領分を守って、お互い干渉しないようにしよう」というメッセージになりかねません。 多様性は不干渉と表裏一体で、そこから分断まではほんの一歩なのです。政治家が「多様性」という語を「言い訳に使える」と思い立つのは、この言葉がいかにおかしな役割を担わされているかを、明らかにしています。

あの人は発達障害なのだからこういうケアをしておこう、そのようにラベリングをしておけば、その時々の気遣いは不要で、社会全体としては「安心」を手に入れることができます。
「ふれる」と「さわる」の区別でいうと、「さわる」対象として障害者をとらえ、うまくコントロールしようとするのがラベリングです。しかし障害を持つ人はいつでも障害者なわけではありません。家に帰ればふつうの父親かもしれないし、自分の詳しい話題になれば、介助してもらっていた人に対して先生になることもあるでしょう。
多様な側面を持つその人に「ふれる」ためには、障害者というくくりに安心するのではなく、その都度の振る舞いに「信頼」を寄せることが必要なのだと、著者は述べます。
伊藤さんの表現をそのまま使うと、「目の前にいるこの人には、必ず自分には見えていない側面がある」という前提で人と接するということは、配慮というよりむしろ敬意の問題です。この「敬意」は、その前提としてお互いの信頼がなければ成立しません。
お年寄りの出入りを自由にしているグループホームの例などを挙げて、著者は信頼によって、人と「ふれる」関係を築いていく方向性を示しています。お年寄りはこの環境によって、他者からの敬意を取り戻し、尊厳を持って生きることができるのです。

正月の茶事の話から、遠いところまで来てしまいました。
茶席に話を戻すと、正客が濃茶碗を次客に手渡すとき、かすかに指先が触れ合います。正客は次客に「送り礼」をし、「次客」は亭主に感謝を捧げてお茶をいただきます。このとき、亭主と正客、次客のみならず、点てていただいたお茶も茶碗も、その場で同期し合うのです。わたしはここで、伊藤さんの言う「ふれる」関係がみごとに共有されると感じています。
コロナ禍で安心を追求するあまり、この「ふれる」関係をないがしろにすることがあってはならないと思います。

 


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