犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

颯颯の初夏の風よ

2022-04-28 23:33:03 | 日記

1992年に刊行された『食卓に珈琲の匂い流れ』という茨木のり子の詩集に、「問い」という詩が収められています。

 問い 

人類は
もうどうしようもない老いぼれでしょうか
それとも
まだとびきりの若さでしょうか
誰にも
答えられそうにない
問い
ものすべて始まりがあれば終りがある
わたしたちは
いまいったいどのあたり?

颯颯の
初夏の風よ

私はこの詩を、希望の歌としてとらえていました。「颯颯(さつさつ)の/初夏(はつなつ)の風よ」という最後の呼びかけによって、詩全体が大きなものに包まれている印象を与えるからでしょうか。
老木に若葉が芽吹き、花々が一斉に顔を覗かせるこの季節の、力強く誠実な自然の営み、円環を描くような堂々とした成長を前にして、「それでは人類は?」と詩人は問うたのだと、いま改めて思います。

目を覆う悲惨を前にして、人類が営々と築いてきたはずの何もかもが機能しない今というときに、「もうどうしようもない老いぼれ」という言葉が、むしろ正しく人類を言い表しているように感じます。

哲学者の長谷川宏は、茨木のり子との共著『思索の淵にて』(近代出版)のなかで、茨木の「問い」に寄せて次のように述べています。

核戦争による人類死滅のイメージは、個人の自然死にともなう安らかさや静けさがかけらもない。あるのは、陰惨きわまる集団的な殺意と殺害行為ばかりだ。
否定一色に塗りつぶされた陰惨な人類の死でも、しかし、死は死だ。まがりなりにも人類の死が想定できるなら、人類の一生も考えられるのではないか、漠然とそんなことを考えているとき、歴史家の衝撃的なことばに出会った。さきごろ亡くなった網野善彦の最晩年の著作『「日本」とは何か』(講談社・日本の歴史第00巻)の書きだしの一節である。「人類社会の歴史を人間の一生にたとえてみるならば、いまや人類は間違いなく青年時代をこえ、壮年時代に入ったといわざるをえない。」(192-123頁)

長谷川じしんは人類が壮年時代に入ったという断言には賛同できないものの、どこからか肌寒い風が吹いてくるようで、それに耐えながら地に足をつけて歴史を考えなければ、と文章を結んでいます。
私も現下の状況のなかで「問い」の詩を読むときに、肌寒い風が吹いてくるのを感じますが、それが「颯颯の初夏の風」にふっと置き換わることも夢想するのです。人類が滅んだあとも初夏の風が吹き抜ける様子です。
かろうじて人類がその壮年期を生き抜き、老年期を生き切ったとして、最後まで静かにその風を感じているのならば、それも受け入れるべき一生なのかもしれないと、そう思います。


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深見草の歌

2022-04-21 22:34:44 | 日記

お茶の稽古の床の間に、淡いピンク色の牡丹が活けてありました。
花の王と呼ばれるほどに、堂々とした佇まいですが、花のまわりの空気がかすかに、ふるえているようにも感じます。
古い和歌に詠まれることが少ないのもまた不思議な花です。

茶花として重んじられる「水仙」の古歌がないのは、わが国に到来するのが平安末期と比較的新しく、大和言葉で呼ばれることがなかったためでした。これに対して牡丹の花は『枕草子』にも姿を現しており、水仙よりも少し古い歴史があって「深見草」や「二十日草」といった大和言葉で呼ばれています。
大和言葉で詠まれた数少ない牡丹の歌には、次のようなものがあります。

人知れず思ふ心は深見草 花咲きてこそ色にいでけれ
(賀茂重保 『千載和歌集』)

形見とてみれば嘆きのふかみ草 何なかなかのにほひなるらむ
(藤原重家『新古今和歌集』)

いずれも「思ふ心」や「嘆き」が「深まる」意を掛けるものであって、あの堂々とした花の様子を詠んだものではありません。ふるえるような薄い花弁の重なりは、割り切れないこころの揺れを思い起こさせたのかもしれません。この花が正面から詠まれることが少なかったのも、そのあたりに理由があるように思います。

私にとって牡丹の歌といえば、近代に詠まれた次の一首に尽きます。

牡丹花は咲き定まりて静かなり はなの占めたる位置の確かさ
(木下利玄『一路』)

咲き定まって、これ以上の咲きようがあろうか、と誇らしげに問うているような風情です。しかしながら、その花の占める位置はあまりにも確かで、この世ならぬ世界に通じているかのように感じさせます。古歌に詠まれたものとはまた違う「深さ」を、この歌は詠んでいるように思います。


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『ある一行』

2022-04-14 23:56:23 | 日記

茨木のり子の詩『ある一行』は次のように始まります。

一九五〇年代
しきりに耳にし 目にし 身に沁みた ある一行

〈絶望の虚妄なること まさに希望に相同じい〉

魯迅が引用して有名になった
ハンガリーの詩人の一行

絶望といい希望といってもたかが知れている
うつろなることでは二つともに同じ
そんなものに足をとられず
淡々と生きて行け!
というふうに受けとって暗記したのだった
―後段略―
『倚りかからず』 ちくま文庫)

ウクライナの廃墟となった街のどこかで、若い女性が廃棄されたタイヤに土を盛って、チューリップを植えているニュース映像がありました。首都付近からロシア軍が撤退したあと、静寂を取り戻した様子を映したものです。
その女性にマイクを向けたジャーナリストは、平和の讃歌と復興への希望を期待していたのでしょう。ニュースを見る者も当然そう思います。
ところがその女性は、戸惑ったような表情で、ようやくこう語るのでした。

「母親も殺されてしまって、こうしている以外に、どうすることができるの」

前掲詩のなかのハンガリーの詩人の一行を、茨木の詩の文脈とは関係なく、そのとき思い出しました。

〈絶望の虚妄なること まさに希望に相同じい〉

チューリップを植える女性は、希望に目を輝かせてはいませんでしたが、しかし絶望に沈んでいるのでもありませんでした。「希望」といい「絶望」というそれらが虚妄に過ぎないことを、一か月におよぶ激しい戦闘にさらされて、思い知らされたのかもしれません。

茨木のり子が生きていれば、どんな詩を書いたことだろうと思いました。
チューリップを植える女性に向けた詩ならば、優しく胸を熱くするものだったろうし、自分に向けられたものならば『ある一行』よりも、もっと厳しいものだったに違いありません。


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正しいことを言うときは

2022-04-07 20:53:55 | 日記

詩人茨木のり子のエッセイを、詩に劣らぬボリュームで収録する『茨木のり子集 言の葉』シリーズ(全3巻)を読んでいます。
歯切れのいい文章が並んでいるなかで、ほっこりさせられたのが、結婚を寿ぐ詩として広く愛される「祝婚歌」(吉野弘)についてのエッセイでした。
この詩が入っている『風が吹くと』について、吉野じしんは「あんまりたあいない詩集だから、誰にも送らなかった」と述べていて、本人の感覚とはズレて人々に愛されている詩集なのだということを知りました。茨木は、作者が駄目だと判定したこの詩集を評して「肩の力が抜けていて、ふわりとした軽みがあり、やさしさ、意味の深さ、言葉の清潔さ、それら吉野さんの持つ美点が、自然に流れ出ている」と述べています。(『茨木のり子集 言の葉2』ちくま文庫

以下、「祝婚歌」を抜粋して引用します。

二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい
(中略)
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いていたほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい
健康で 風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと 胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人にはわかるのであってほしい

この詩は、作者の甥の結婚式に出席できない代わりに、お祝いに贈られたものなのだそうです。その結婚式の列席者に大きな感銘を与えて、合唱曲にされたり、ラジオで朗読されたりで、活字になる前に口コミで広がったのだといいます。前掲書にはこの詩にまつわるエピソードがいくつか紹介されていますが、唸らされたのが次の話です。

おかしかったのは、離婚調停にたずさわる女性弁護士が、この詩を愛し、最終チェックとして両人に見せ翻意を促すのに使っているという話だった。翻然悟るところがあれば、詩もまた現実的効用を持つわけなのだが。(茨木 前掲書230頁)

「正しいことを言うときは/相手を傷つけやすいものだと/気付いていたほうがいい」とは、知者の言葉に他なりません。旧約聖書には、知者の言葉は「よく打った釘のようなものだ」とあるのだそうです。ふだんは目に留まらないけれども、知者の言葉は人と人とを結びつける力を持つという意味なのだと聞きました。吉野は、この詩が結婚式などで使われることについて、自分は知らないうちに民謡をひとつ書いてしまったのであって、著作権などうるさいことは言わないと、別の場所で述べています。知者の言葉とは、なるほどそうしたものなのだと思います。


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