犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

相手を認めるまなざし

2012-01-12 01:11:17 | 日記

従業員の7割以上が知的障害者で構成されることで知られ、ダストレス・チョーク製造でトップシェアを誇る日本理化学工業の会長 大山泰弘さんが、雑誌で次のように述べています(ゆほびか vol.12)。

 

釈迦の弟子に、周利槃特(しゃりはんどく)という人がいます。周利槃特は物覚えが非常に悪く、自分の名前さえ忘れてしまう人だったそうです。今なら、知的障害者と呼ばれていたのではないでしょうか。

兄からも愛想をつかされて「おまえがここにいては、皆に迷惑がかかる」と、お寺を追い出されてしまいます。門の外で泣いていた周利槃特を見て、釈迦は「おまえにはおまえの道がある。明日から、この言葉を唱えながら掃除をしなさい」と語り、「塵を払わん、垢を除かん」という言葉とともに、一本のほうきを与えたそうです。

周利槃特は来る日も来る日も、この言葉を唱えながら、掃除を続けました。最初は誰も見向きもしませんでしたが、やがて、一心に掃除をするその姿に心を打たれ、思わず手を合せて拝む人が増えていきました。

そして釈迦は、「無言で説法ができる者」として、周利槃特を最高位の弟子の一人に数えたのです。

私は工場で働く障害者の姿に、同じことを感じてきました。

 

大山さんが尋常でないのは、自分と組織を変えていこうとする覚悟を持ち続けているところです。チョークの材料を計量するために知的障害者に「グラム」という単位を教えようとしてもうまくいきません。試行錯誤の揚句、チョークの材料の入っている容器のふたと、あらかじめ用意した必要量のおもりを同じ色にすることで、順調に作業が進むようになったのだそうです。そして、この試行錯誤が日本理化学工業の毎日の姿だというのです。

 

知的障害者の存在は、普通、福祉政策の問題としてとらえられます。知的障害者の能力の劇的な改善は望めないし、一方で、知的障害者を差別する気持ちを是正することもできない。大所高所から講じられる手段は、せいぜい「弱者救済」ではないでしょうか。
しかし、社会福祉政策で採られる弱者救済は、「社会」にとって最も重要なものを忘れせるおそれがあります。つまり「認め・認められる」関係です。救済措置により庇護されるだけの人々は、むしろ認識の外側に追いやられて固定化されてゆくでしょう。

大山さんは言います。「他人を変えることはできません。しかし、私たちは自分を変えることはできます。そして、自分が変われば、相手も変わります。この普遍的な真実を、私は知的障害者に教わったのです」と。

先ほどの「グラム」を理解できない従業員に、色でものの計り方を教えることを思いついた時、大山さんは「壁は彼らにではなく自分自身の中にあったのだ」と痛感したそうです。相手を真に認めるということが、相手にも認められることで、ようやく成立することだと思い知らされる話です。
この会社の注目すべきは、その偉業を大山会長や社員たちの美談にとどめるのではなく、われわれの目指すべき社会の雛形として、具体的な取り組みを披露しているところにあるのだと思います。


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